第6-31話 私は弱い
ルクスというのは、レックスの家にいた少年だ。深緑の髪に、赤い瞳。すぐに、れなの子どもだと分かった。顔立ちがよく似ている。
レックスが不倫をしたとか、そういうことではなく、死期を悟ったれなが、レックスに預けたのだろう。レックスが私の大切なものがあると言っていたが、それが彼だということらしい。
ルクスに身寄りがないことはよく知っていたので、私たちが預かることにした。魔王の血を濃く引いていることや、賢者の子どもであることが原因で、彼を狙う輩が出てくることを危惧して、彼の素性は隠している。
ただ、出会ってからずっと、私は研究室に籠っていて、あまり構ってやれていない。
なぜ、あかりの部屋に連れていくかと言えば、ルクスとの唯一のふれあいの時間だということももちろんあるが、何より、そこに、誰かいてくれないと、私が強くいられそうになかったからだ。
時おり、その小さな手を強く握りすぎて、ルクスに痛いと言われることもあった。
「……今日も、全然、ダメね」
研究室で独りごちる。
──終戦後、私はすぐに、代理となったマナの叔父と交渉し、魔王の国をルスファに合併した。もともと、分裂していたわけではないが、合併といって差し支えないほどに、そこには亀裂が生じていた。
マナの叔父は、「恨みはあるが、戦争を繰り返せば被害が大きくなるだけだ」と、一番辛い立場だろうに、条件を飲んでくれた。彼には感謝しかない。この恩は、今後、必ず返していかなければならないものだ。
ともかく、こうして、私は史上最速で魔王の座を降り、世界最後の魔王として、歴史に名を残すことになった。
当然、国政などできるはずもないので、ゴールスファ家に丸投げした。ただ、魔族に関することを決めるときは、今でも相談したりする。一から説明してもらうのが少し、申し訳ない。
「クレイアさん、調子はどう?」
「全然ダメだわ。はあ……」
「ドンマイドンマイ! 次があるって!」
「ええそうね。いつまで次があるかしらね」
「え、えーっと、その……ごめんなさい」
「別にいいわよ。あんたの無神経は今に始まったことじゃないし」
「クレイアさんの毒舌も相変わらずだね」
「は?」
「あ、あはは……」
私は魔王の権限を用いて無理やりこの研究室に就職した。最初から煙たがられていた挙げ句、魔王の座を退いた今、私をここに残しておく必要はなくなったわけだが、そのとき、私を研究室に残そうと最初に言ってくれたのが、彼女、ロアーナ・フォン・ルーバンだった。
高校の時、クラスが一緒だったのを、お互い、奇跡的に覚えていたのだ。まあ、地面に引き倒された上、ブローチの件もあり、忘れるはずがないのだが。これで、意外と難しい話が通じる数少ない相手だったりする。
「あんたの方は順調なの?」
「ううん、全然。悲しくなるくらいダメーって感じ。でも、頑張らなきゃっ」
ロアーナを見ていると、私も頑張ろうという気になってくる。先が見えなくても、きっと、私がこうしていることは、無意味にはならない。
そう信じてやってきたのだが。
やはり、何の成果も出ないまま、あかりの容態は日に日に悪化しつつあった。
──きっと、今日の夜は越せないだろう。最期だからと、進行を抑える薬は打たずに、症状を緩和するものだけ使用していた。私は一研究者の扱いなので、それを決断したのは主治医だ。
最期まで、治療法の研究に専念しようとする私を、あかりが引き留めた。それを振り切って、彼を最期、一人で逝かせる覚悟は、私にはなかった。母のことが、脳裏をよぎったから。
「今日はね、すごく、楽だよ」
「それは良かったわ」
ルクスは連れてこなかった。きっと、何も知らないままの方がいい。いつか、こうなると分かっていて、ルクスを付き合わせてしまったことを、申し訳なく思う。
「まなちゃんはさ、結局、何を願うことにしたの? なんでも願いが叶えられるんでしょ?」
「そうね。どうしようかしら。あかりは、何がいいと思う?」
「マナを生き返らせてほしい」
私はあかりから目をそらし、首を横に振る。それだけは、できない。
「はは、だよね。ごめん、困らせちゃって」
「いつものことでしょ。──マナに、どんな理由があっても、人を生き返らせちゃいけないって言われたの。だから、それはできないわ」
「うん。そうだよね。マナらしい。……それじゃあ、時でも戻しちゃう?」
「……それも、いいかもしれないわね」
「あれ? あんまり、乗り気じゃない?」
当然、行き着く願いではあった。本当に、どんな願いでも叶うのなら。それこそ、まゆが消える前に時を戻したっていい。だが、
「マナがいたら、時を戻しちゃダメだって、言うんじゃないかしら」
マナの思いを踏み躙ることになるのではないか。彼女の言葉に従うなら、マナを失ってもなお、その世界で、真っ直ぐ前を見据えて歩いていくべきではないかと。
「それでも、生きてるのは僕たちの方で、願いはまなちゃんのものだよ」
あかりはそう言った。それもまた、事実だ。
時を戻すとはどういうことなのか。考えたところで想像がつかない。曖昧な願いがいかに危険であるか、私はよく知っていた。
「願いの魔法は、人生で一度きりしか使えないから、時を戻したとしても、その先で、もしまた、間違えたら、きっともう、やり直しが利かない。……それに、あたしが、多くのものを救えなかった事実は変わらないし、あたしのせいで、たくさんの人が亡くなったのも、忘れちゃいけない」
「まなちゃんなら、忘れずにいられるって」
「あいにく、忘れるのは得意なのよ」
「それでも、まなちゃんなら、大丈夫だよ」
あかりを元気づけに来たはずなのに、これではまるで、逆だ。こんなにいつも通りだと、本当に亡くなるのかと、疑いたくなってしまう。
それが事実で、これがあかりの強がりだということは、私が一番、よく知っているけれど。
普段は指先を切っただけでも喚いているのに、今だけは、妙に静かだった。
「あたしは、いつまで、見送ればいいのかしら」
「ダメだよ、まなちゃん。マナの分まで、生きてくれないと」
「……そうね」
時間は、どれだけでもあった。なのに、その多くを、私は無駄にしてしまった。
取り返そうと思っても、もう、取り返せないものが多すぎる。替えが利かないものを、幾つも失った。
きっと、時を戻すための代償は、想像よりも、遥かに重い。
それでも、私にはこの世界を歩いていける自信がない。だから、過去に逃げるのだ。
「──もし、昔の僕に会ったらさ、馬鹿なことはやめろって、言い続けてあげてよ。マナがいなくなるまで、僕はそれに、気づけなかったからさ」
「結局、あかりの望みって、なんだったの?」
「そっか、まだ言ってなかったっけ」
「ええ。あんたの口からは、何も聞いてないわよ」
デジャヴだと、あかりは笑った。そして、ぽつぽつと、語り始めた。
「……僕、妹がいてさ。ずいぶん前に死んじゃったんだけどね」
「──ええ、知ってるわ」
「それをさ、どうしても、生き返らせたくて。……でも、全然、きれいな理由じゃないんだ」
「どんな理由だったの?」
どうしても、言おうとしなかったことを、こんな形で聞いていいのだろうかと思いつつも、私は尋ねた。今しか、答えてくれない気がしたから。
「……ただ、復讐したかった。それだけなんだ」
そう言って、あかりは時空の歪みから、青い石を取り出して、私に差し出した。歪みに収納してあるものは、全部出したと言っていたが、
「これ──」
「命の石。不老不死になれるってやつ。ごめんね、今まで黙ってて」
「……いいの。いいのよ。別に。謝らなくて」
「うん。妹を──あかりを、生き返らせて。命の石を使ってさ、不老不死にするんだ。それで、何度も何度も、殺したかった。僕がされたことを、全部やり返して、殺して、バラバラにして、心を壊して。自分を知る人が誰もいなくなって。ずっと見送る側で。何年経っても死ねない。そんな地獄を、味わわせたかったんだ。それで、僕があの子にされてきたことの、仕返しがしたかったんだよ。……ほんとに、僕って、馬鹿だよね」
「ええ。この世で一番、馬鹿だわ。あんたみたいな馬鹿は、見たことがないわ」
「はは……ごめんね。やっぱり、お墓まで持っていけば良かったね」
「いいえ。話してくれて、ありがとう」
──そんなことのために。
そう、思わないはずはなかった。
だが、あかりの願いが、そんなことだとしたら、私が全部忘れて、まゆを元に戻そうとしていたことなんて、もっと馬鹿なことだ。
きっと、あかりは私と違って、忘れられなかっただけなのだ。それに、そんなことだとしても、あかりの大切な願いだ。
「絶対に後悔するって、伝えておいて。ま、僕って、めちゃくちゃ頑固だから、きっと君の意見なんて、簡単には聞き入れもしないだろうけどさ」
「ええ、そうね。あんた、すごく面倒くさいから」
「あはは、ごめんね。迷惑ばっかりかけて」
「いいのよ。あんたがどれだけ馬鹿でも、あたしとマナがなんとかしてあげるから」
「うん──ありがとう」
あかりは仰向けのまま、片腕で視界を覆った。
「ろくでもない人生だったけどさ。マナに出会えたこと。それから、今まで、君を守れたことだけは、心の底から良かったって、そう思えるよ」
「……それは、どっちも、マナのことよ」
「あはは、そっか──」
マナに出会って、マナのために生きて、マナからもらった病で死ぬ。
あかりは、泣きながら笑った。あかりには、本当にマナしかいなかったのだろう。
「ねえ──最期に、マナって呼んでも、いいかな」
すごく、迷った。私自身がどうこうという話ではなく、それが、マナに対して、失礼ではないかと思ったからだ。
そのとき、
「──呼ばせてあげてください」
少しだけ、懐かしい声が、聞こえたような気がした。
思えば、もう八月で、霊解放の季節だった。それでも、時計塔は開いていないはずだった。
ただ、それは幻ではなかったような気がする。もし、それが私が作り出した幻なら、きっと──そんな無駄なことはやめろと、止めていただろうから。
「何、あかね」
「──マナ、ごめんね」
「うん」
「マナ、こんな僕で、ごめん」
「──うん」
「マナばっかりに、辛い思いさせて、ごめんね」
「……うん」
「マナ」
「何?」
「愛してる」
「……マナも、あんたを愛してたわよ」
「あいしてる……っ」
「──」
「マナ──」
命が消えていく。それを知らせるアラームが鳴る。その場で最善手が尽くされる。誰も、諦めたりはしない。諦めはしないけれど、きっと、そうなるのだと、覚悟だけは。
「──旅立たれました」
あかりの前では泣かないと、そう決めていたのに。やっぱり、私は弱かった。
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