第6-14話 大丈夫って言いたい
「おめエ、よくここまで生きてこれたな」
「あはは。変なこと言うんだね。わたしはもう、とっくに死んでるよ」
願いの魔法。わたしは魔法を信じなかった。何度も見たけれど、絶対に信じようとはしなかった。なぜなら、
「──わたしが元々いた世界にはね。魔法なんて、なかったの。だから、手品か何かだって言われた方がよっぽど納得できた。わたしのいた国では、髪の毛もこんなに、カラフルじゃなかった。それに、昔は、わたしの髪も目も、こんな色じゃなかったんだよ?」
「あア、知ってる。視たからな」
わたしは元いた世界で両親と一緒に殺されて、気がついたときには、こんな色になって、この世界にいた。あの日のことはよく覚えている。
「なんで、わたし一人だけ、助かっちゃったのかなあ……」
両親が死んだ。居場所が滅ぼされた。そして、今、なんとかしてまなだけは失わないように、他の多くのものを奪って、ここまで来た。
奪うことに慣れていて良かったなんて、思ってしまう。
この体が幽霊みたいに軽いから、逃げることができた。
触れない限りまな以外の誰にも見えないし、足音一つ鳴らせないから、誰にも気づかれなかった。
まるで、まなを守るために今までのことがあったかのようだ。
そして、この手は、すっかり汚れてしまった。
いつでも、まなの手を掴んでいいのだろうかと、迷う。それでも、まながわたしを大好きだと。お姉ちゃんお姉ちゃんと、うるさいから。わたしは、その手を離せない。
「何か、温かいものが食べたいなあ」
「……何がいいんだ?」
「んーん。わたし、何も食べられないから。お腹も空かないし。それに、もう死んでるから」
ちゃんと地に足はついているし、重力に引っ張られてもいる。でも、それを全く感じられない。風が吹いたら、高く高く飛ばされて、帰ってこられなくなりそうだ。
「どんどん、誰からも見えなくなっていくの。まなに、触れられなくなっていくの。わたしの体が、消えていくの。まながね、目が覚める度に、──誰? って、そう、聞くんだよ。それから、腕のスタンプを見て、あ、お姉ちゃんだ。って、思い出すの」
目が覚めたら、もう、わたしを思い出せなくなっているかもしれない。また、汚れてしまったわたしを見て、怖がるかもしれない。
少しずつ、消えていくのを感じる。この間は、泥を踏んだ後に、足跡が消えていくのを見た。
きっといつか、わたしは誰からも忘れ去られて、空に飛ばされて、宇宙のようなところで、何もできずに生き続けることになるのだ。
「とっても怖い。もう生きていたくない。死にたい。いつ、死ねなくなっちゃうか分からないのも怖い。永遠に一人になるのが怖い。……でもね、まながいるから。まなだけはなんとか、守らないといけないの。あの子を、なんとか摩族の手が届かないところまで送ってあげないとって。それまで、わたしは生きていなくちゃ」
まながわたしの、全部だ。お母さんとお父さんが死んで、わたしも殺されて、こんな救いようのない世界に来て、初めて、あの子の手を握ったとき。
──初めて、温かいと、そう思ったから。
「……でも、もう無理かもしれない。ぷつんって、何かの糸が切れたら、わたしは死んで、地獄に落ちるような気がするの。──だから、バサイ。お願い。今度こそ、本当に、なんでもするから。わたしにできることなら、なんでも」
「なんでもなんて、簡単に言うもンじゃねエ」
「本当になんでもする。首を切れって言われたら、ちゃんと切ってくる覚悟はできてる。だから、もし、わたしがいなくなったらね。──まなから、わたしの記憶を消してほしいんだ」
これ以上、悲しまなくて済むように。
***
その日は、まゆが髪の毛を切った。それを束ねてエクステを作るらしい。エクステが何かは知らないけれど、出来上がったら、私にくれるそうだ。
「まさか、バサイがエクステを作れるとはねー。まあ、意外ときちんとしてるもんね」
「意外とってなんだオイ」
「でも、なんで急に?」
「バサイが髪の毛を食べたいんだって。まあ、切れるうちにやっておかないとね」
私にはその言葉の意味が分からなかった。
「バッサイ、髪の毛なんて食べるの?」
「髪じゃねっ……あー、それでいいや」
バサイは面倒になったようで、それ以上は何も言ってくれなかった。髪の毛を食べるはずがないのに。
「バサイ、頼んだからね」
「何を?」
「んーん。こっちの話」
まゆは、バサイといると、そうやって誤魔化すことが多くなった。
──その次の日のことだった。
「行かないで! お姉ちゃん!」
底の見えない谷に、まゆは立っていた。
「まな。ついてきちゃったの? 待っててって言ったのに、悪い子だね」
「嫌だ……いっちゃ嫌だよ……」
「──まなは、ほんとーに賢いね」
「お姉ちゃんを忘れちゃう……っ」
何をしようとしているかは、すぐに分かった。
「にへへ……。そんなに思ってもらえて、わたし、とっても、幸せだったんだなあ」
「大丈夫って、諦めなければなんとかなるって、言ったのに……」
「そうだよ。諦めなければ、絶対、なんとかなる。だから、まなは大丈夫。わたしがいなくても生きていける」
「無理だもん……」
私の言うことを聞いてくれないまゆは、初めてだった。まゆは私の望むことなら、なんでも叶えてくれた。それがいかに大変なことか、気づかなかったから、悪いのだろうか。
「いい子にするから……。だから、死なないで!」
まゆが少し躊躇う素振りを見せた。だから、私はその手を掴んで引き留めようとした。
──その手は、すり抜けていった。
「お姉ちゃん……? お姉ちゃん、ねえ、なんで、なんで掴めないの!?」
それを見て、まゆは力なく笑った。
「まな。──ほんとーに、ありがとー」
落ちていく。まゆが落ちていく。咄嗟に伸ばした手がすり抜けた。届いたのに。ちゃんと、届いたのに。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん! 嫌だ嫌だ嫌だ……!」
止められなかった。私のせいだ。掴めなかった。私のせいだ。
私がまゆに頼りきりだったから。
私がまゆを守ってあげなかったから。
私が何もしなかったから。
私が何も知らなかったから。
「お姉ちゃん……お姉ちゃん……っ」
そのとき、尻尾がおずおずと視界に入ってきて、私はそれを手で払った。
「あっち行ってよっ!」
すると、尻尾も角も引っ込んだ。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん──」
足跡が消えていくのが見えた。
慌てて、腕を見ると、スタンプが消えていくのが見えた。私はそれをポケットから取り出して、何度も何度も押した。
しかし、スタンプはすぐに消えていった。
忘れたくない。消えてほしくない。どうにかしたい。
ふと、思った。傷なら、消えないのではないか。痛みなら、忘れないのではないか。私はあの痛みが、いつどうやってつけられた傷か、忘れられないのを、知っていた。
「ナイフ……いつの間に?」
私は腰にナイフがぶら下がっているのに気がつく。そして、そのナイフで腕を、つーっと薄く切る。久しぶりの痛みに涙が出る。それでも、私は「まゆみ」と書いた。
そして、その傷は、決して消えなかったのだ。
***
「まゆみは、死んだの。──私のせいで」
私は腕の傷をなぞり、マナに顔を埋めながら、問答を交わす。涙が抑えられなくて、マナの服に染み込ませていた。そんなどうしようもない私の頭を、マナはずっと撫でていてくれた。
「まゆみは、私のために、やっちゃいけないこととか、色々、やってくれてた。全部、私のせいなの。私が、何も知らなかったから。物を買うのがどれだけ大変か、食べていくのがどれだけ大変か、逃げるのがどれだけ大変か、知ろうとしなかった……っ」
食べ物のなる木なんて、物語の中にしか存在しない。食べ物を無償で分けてくれる親切な人も、この世にはまったくと言っていいほどいない。だから、あのときまゆが食べさせてくれたのは、盗んだものだったのだろう。あのときのスタンプも。それに、追っ手だって──。
「私が殺したの。私のせいなの。私が悪いの。私なんていなければ、まゆみは、きっと、死ななかった」
口に出してみて、ようやく、実感が湧いてきた。
──ああ、こんなに簡単なことだったのか。
今まで、なぜ言えなかったのだろう。それが、不思議で仕方ないほどに、言葉にしてしまえば、それは意外と、受け入れられるものだった。
「ごめんなさい、まなさん。まゆみさんを、あなたの中で死なせてしまって」
「ううん。──ありがとう、マナ。やっと、ちゃんとまゆみと向き合えたような気がする」
今でも、まゆを思えば、心が苦しい。それは変わらない。
でも、自分のせいだと受け止めた今の方が、まゆを近くに感じられる。寂しさは増したけれど、まゆのためになっていると、そう思える。
「どうして、まゆみのことは覚えていられないのかな」
「死は二度あると言います。一度目は肉体の死。そして、誰の記憶からも忘れられたとき、二度目の死を迎えることになるんですよ」
「……なんでそんなこと、望んだのよ」
だんだんと、色んなことを思い出してきた。夢だと思っていた現実も、現実だと思っていた夢も、いくつもあった。私が高いところが嫌いになったのは、まゆの最期が嫌でも思い出されるからだ。
『二度と、私の前に、姿を見せるなぁッ!』
あれは、本当のまゆに向けた言葉だった。
あんなに酷いことを言ったのだから、二度と現れるはずがない。記憶ではない、現実のまゆが、私の脳裏に鮮明に浮かぶ。
「それでも、今度は忘れない。忘れてやるもんか。──まゆみが命を落としたことも、ちゃんと、覚えてる」
死にたいと望んだとしても、これ以上、死なせない。私の記憶に残り続けている限り、まゆみは死なないのだから。
「あれ。あたし、ちゃんとまゆみを覚えてる……」
「不思議ですね。──まるで、魔法みたいです」
「あはは。本当に、不思議ね」
腕に傷がなくとも、私はもう、まゆみを忘れないと思う。理屈では分からないことが、この世の中にはたくさんあるけれど、こんなに嬉しいことはない。
「ねえ、マナ」
「なんですか?」
「まゆみを、生き返らせたいな」
願いがあれば、それくらいのことはできる。死者蘇生の代償は、本には書かれていなかった。こういったものはいくつかある。禁忌とされていることの代償は、簡単には分からない。
「亡くなった命は、どんな理由があっても生き返らせてはいけません。それに、まなさんには、まゆみさん以外にも、失った命がたくさんあります。命の価値に差なんてないんです。だから、一人だけ生き返らせるなんて、他の亡くなった方々に失礼だとは思いませんか?」
「そうね、その通りだわ。……あたしは、二度と、まゆみに会えないのよね」
「まだ怖いですか?」
私は首を縦に振る。ずっと、当たり前にそこにあったものが消えるというのは、すごく、怖いことだと、改めて実感した。
「でも、大丈夫」
これまでのことが思い出される。まゆみと一緒だった時間は少なかったけれど、その思いを糧にして、私は、確かに今、ここに生きている。
たくさんのものに支えられて、私は一人でここまで生きてこられた。
だから。もしも、まゆみに会えたとしたら。私はきっと、こう言うべきなのだ。
「あたしはもう、まゆみがいなくても大丈夫」
私はマナから離れて、部屋を見渡す。
そこには、まゆみの姿も、ハイガルの姿もなかった。そう、これが正しい光景なのだ。すごく、寂しいけれど。
マナが私の手を握ってくれる。それが、すごく、心強い。
「──ハイガルは、殺されたのよね」
「はい。もう、この世のどこにもいません」
「そうよね」
この目で死体を見たわけではないから、どこかで、生きているのではないかと、期待してしまう。生きているはずがないのに。
「あたし、自分がこんなに引きずるタイプだとは思わなかったわ」
「まなさんは、一途ですから。そんなところも、私は愛していますよ」
マナは私を膝に乗せて、抱きつき、肩に顔を乗せてきた。本当に、マナは私が好きだ。
なぜここまで、とは思う。まだ、分からないことはたくさんある。けれど、その想いが本物であることだけは、よく分かった。これで疑えという方が、無理な話だ。
「──あたしも、マナのこと好きよ」
「愛していますか?」
「愛……はさすがに重いわ」
「重い!?」
「あたしは、まゆみしか愛してないから。相思相愛にはなれないわよ」
「し、知ってましたよ? それくらい。はい。知ってました、知ってましたよー? だから、傷ついたりしてませっ……んっ、ごほっ、ごほっ!」
「あはは……大丈夫?」
慌てて咳き込むマナの背を擦る。
「本当に、あたしって愛されてるわね」
「はい。本当に、心の底から、愛しています」
それが、すごく嬉しかった。
マナがいれば大丈夫だと、そう思った。
マナに大丈夫だと思わせたいと、そう思った。
何より、向き合うよりも、マナを怒らせたり、悲しませたりすることの方が、よっぽど怖かった。
だから私は、ちゃんと向き合っていこうと、そう思ったのだ。
止まっていた時が、今、動き始めた。
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