第6-12話 十五年前

 狭いあの場所から逃げ出して、数日。


 気がつくと、私はこの子に手を引かれて、一緒に歩いていた。この子が誰なのか、分からない。いつから一緒にいたかも思い出せない。


「ねえ、あなた、誰?」

「それ、何回聞くのかな……。まあいいけど。わたしはまゆみ。あなたはまゆって呼んでた。それで、わたしはあなたの、まあ、お姉ちゃんみたいなものかな」

「お姉ちゃん?」

「うん。名前が覚えていられないなら、お姉ちゃんって呼べばいいよ」


「お姉ちゃん」


「ん、何かな?」

「……呼んだだけー、にひーっ」

「相変わらず、面倒くさい子だね」

「面倒くさい?」

「うん、すごく」


 そう言ってまゆは私の頭をくしゃくしゃにした。


「わっしゃわしゃわしゃー」

「きゃーっ!」

「これに懲りたら、いい子にしなさーい」

「いやー!」

「まなは悪い子だねー」

「うん、あたし、悪い子なの。だから……もっとやって?」

「えー。じゃあ、もう、やってあげなーい」

「うえぇぇー……?」


 私がそう言うと、まゆは私の頭を撫でて、髪を整え、また手を引いて歩き始めた。


「──やっぱり、白髪は目立つよね」

「お姉ちゃん──」

「今、ちょっと忙しいから。後にして」


 こういうことが、よくあった。私は歩みを速めるまゆに置いていかれないよう、必死に歩いた。どこに向かっているのだろうか。


***


 私は頭に布を被されて、そこから、またしばらく歩いていた。


「お姉ちゃん、お姉ちゃん」

「何かな?」

「トイレ」

「んー、もう少し我慢できない?」

「うん、我慢する……うおお、漏れそう」

「こら。前を押さえないの」

「はーい」


 何かの列に並んでいた。前よりも後ろの列の方が長くて、トイレはそれよりももっと後ろにあった。


「そわそわ……」

「──一人で行ってこられそう?」

「ええ、行けるわ!」

「じゃあ、これハンカチね。寄り道せずに戻ってくるんだよ。いい?」

「はーい」


 そのハンカチには、「お姉ちゃんの」と書かれていた。


 それから、私はダッシュでトイレに向かった。


「ふう、すっきりしたー」


 それから、列に戻ろうとして──視界に、見覚えのある女性が映った。緑茶だ。


 どうしよう、どうしよう、どうしよう。


「どうしよう……!」


 私はトイレに戻って、鍵をかけて、息を殺した。それから、うずくまって、声を殺して泣いた。


 そのうち、暗くなってきて、私はあまりの寒さと一人の恐怖で、このまま死ぬんじゃないかと、そう思った。


「まなー!」


 そんな声が聞こえて、私は恐る恐る、扉を開ける。


「──! まな! やっと見つけた!」


 私はその子に抱きしめられた。──そのとき、赤い血が、服についているのが見えた。


「い、ぃゃ……」

「まな?」

「嫌だ、嫌だ……! 助けて、お姉ちゃん! お姉ちゃん!」

「ちょ、ちょっと、まな、どうし──」

「助けて! 誰か、助けて! あっち行って! 怖い怖い! 血が、血が……!」


 私が喚くと、その子は私から離れて、袖についた血を見つめる。


「──まな、ごめんね」


 次の瞬間、私は意識を失った。


***


 目が覚めると、また知らない場所にいて、隣に知らない人がいた。


「──さあ、まな。行こうか」

「あなた、誰?」

「……わたしはまゆみ。あなたはまゆって呼んでた。わたしはあなたのお姉ちゃん……でいいや」

「お姉ちゃん?」


 そのとき、ふと、ハンカチのことを思い出して、私はポケットからそれを取り出す。


「これ、お姉ちゃんの?」

「……! うん、そうだよ。……ありがとう、まな」


 まゆは、笑っていたけれど、なんとなく、力がないように見えた。


 それから、私はハンカチを返して、辺りを見渡した。


「ここ、どこ?」

「さあ、どこだろうね?」

「教えて?」

「なんでわたしが教えてあげないといけないの?」

「お姉ちゃんだから」

「じゃあわたし、お姉ちゃんやめようかなー」

「うえぇぇ……?」

「冗談、冗談。そんなに可愛い顔しないで。ほら、考えてみてよ」


 まゆに手を引かれて、私は歩き始める。


「んーとね……ヘントセレナ!」

「ぶぶー。残念。正解は、まだ、魔族の国を出たばかりでしたー」

「あ、昨日の列はそういうことだったのね」


 魔族の国から出るには、検問を通る必要がある。まゆは私を抱えて通ったのだろう。


 とはいえ、普通に検問を通れたとは思えない。私は追われている身なのだから。


「そうそう。ヘントセレナに向かってるんだけど、結構遠いねー」

「ヘントセレナって、どんな感じなの?」

「さあねー。それは、見てからのお楽しみ」

「えー。もう疲れたー」

「でも、見たいでしょ?」

「うん、見たい」

「じゃあ、頑張ろう?」

「うん、私、頑張る! ……じゃなかった。──ええ、あたし、頑張るわ!」

「あはは、似合わなすぎーっ」

「なんで笑うの! もう!」


 ヘントセレナは、まだ遠い。


***


「お姉ちゃん、あたし、あれが欲しいわ」

「んー……ちょっと無理かな」

「そう。なら、仕方ないわね。諦めるわ」


 まゆは少し悩む素振りを見せて、


「まな。ちょっと、外で待ってて」


 そうして、言われた通りに少しだけ、待っていた。


「お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん……」


 なんとなく、そうしていないと忘れてしまいそうな気がして。私はずっと、お姉ちゃんお姉ちゃんと、繰り返し唱えていた。


「まな、これでよかった?」


 まゆは、私の腕にポンとスタンプを押した。それは、「ま」と書かれたスタンプだった。


「──うん! ありがとー、お姉ちゃん! にひーっ!」


 まゆのま。まなのま。これで、いつでも一緒だ。


「うん、良かったね、まな」


 まゆは、少しだけ、寂しそうに見えた。だから、私はそのスタンプをまゆの腕にも押してあげようとした。しかし、うまく押せなかった。


「あれ? おかしいなあ……」

「まな、もういいから、早く行こう」


 私は手を引かれて、店の前から去っていく。


「お姉ちゃ──」

「今、忙しいの。見て分からない?」

「……ごめんなさい」


 なんだか、少しだけ、怒っているように見えた。


 まゆが悲しんだり怒ったりした理由が、私には分からなかった。

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