第6-11話 忘れたくない

 マナは護身用と思われるナイフを取り出して、私の手に握らせる。


「逃げたいなら、逃げてもいいです。でも、それは、こういうことなんです。あなたが逃げたことで、多くの人が粛清されました。あなたが、殺したんです」


 私が逃げるということが何を意味しているか、幼いながらもよく理解していた。


 あれ以来、一度も、塩や砂糖には出会わなかった。


 それが、一体、何を意味するか。察するなという方が無理な話だった。


 私が逃げたせいだ。私が悪いのだ。私が、外に出たいなんて言い出したから。


 確かに、彼らは私の味方ではなかった。何より、まゆの敵だ。恨む理由なら幾らでもある。


 それでも、死んでほしいとは思わなかった。


 私のせいだ。


「私は、今ここで、まゆみさんを殺します。まなさんに願いを使わせる気もありません。だから、どうしても逃げたいというのなら! 私を、殺しなさい!!」


 口を塞ぐ手だけでもどうにかできれば、私は、願うことができる。まゆのためなら、何でもできる。私にはまゆしかいないのだから。何も怖くはない。


 ナイフで傷をつけるというのは、すごく、痛い。よく知っている。だから、腕に傷をつければ、きっと、怯んで手を離すだろう。


 それがダメなら、振り回せばいい。きっと、反射的に避けて、離れさせることができる。目を狙うのがいいだろう。今なら、全部、手の届く範囲にある。


 綺麗事だけで生きてきたわけじゃない。襲われたときには、ナイフを振るったこともある。咄嗟に迷わず振るったことも。ときには、モンスターの命を奪ったことだってある。


 ナイフを強く握り、振りかぶって、高く、手を上げて。その手が、すごく震えて、震えが収まらなくて、私はナイフを、手放した。


 マナは私の口から、手を離して、


「できないのなら、謝ってください! もう二度と、こんな真似はしないと、誓ってください!」


 怒っていた。その顔は、怖かったけれど、初めて月を見たときのように、すごく綺麗で、眩しくて、意識の全部が引き込まれるような感覚がした。


 そうして、まゆのことを願おうとすると、胸が詰まって、声が出なくなった。


 代わりに、嗚咽とともに、謝罪の声が漏れ出した。


「ごめん、なさいっ……。ちゃんと、向き合うから──」

「はっきり、分かるように言いなさい!」


 私は、その怒声に怯えながら、震える声を紡ぐ。


「死んじゃった、一人一人に──」

「誰に!?」


 マナは、私が誤魔化そうとするのを、決して、許さなかった。


「お母さんと、れなと、お父さんと、ハイガルと……」

「それから、誰が、死んだんですかっ!」

「ぁ──」


 声が出てこない。


 認めたくない。逃げたい。否定したい。彼女は死んでいないと。私のせいだということを。


 逃げるなと、マナは言った。逃げるならば、自分を殺せと。逃げるとは、そういうことだと。


 ──どちらも、私には、無理だ。


「い、嫌だ……」

「言いなさい!」

「嫌だ、違うの……私のせいで……もう、許して──」

「私を殺しますか!? まゆみさんの死が受け入れられないから、私を殺すんですか!?」

「お、お姉ちゃんは、死んでなんか──」

「死んだあの子と! 目の前にいる私と! どっちが大事なんですか!? あの子を妄想で生かすために、あなたは私を殺せるんですか!? 私は! あなたにとって、大切ではないんですかっ!!」


 ──やっと分かった。


 たとえ、まゆと二択で迫られたとしても、マナを殺すことなど、とっくにできなくなっていたのだと。何も捨てられない。全部が大事で、欲張りだから、私はこんなに苦しいのだと。


 本当にまゆだけを愛していて、まゆだけが好きだったら、きっと、こんなに苦しくはなかった。


 知らないうちに、私の中でマナの存在は膨らんで、いつしか、かけがえのない存在になっていたのだ。


 ──マナを選ぶということは、まゆを選ばないことと同じだ。


 まゆが大切で。どうしても、忘れたくなくて。


 なのに、私は。もう、まゆを選ぶことができない。


「……怖いの。すごく、怖い」

「何が」

「まゆが、いなくなっちゃう。ずっと、一緒だったまゆが、消えちゃう……全部、忘れちゃう……っ。もう、一人は嫌だ……」


 まゆが来る前は、ずっと、一人だったはずなのに。まゆがいなくなって、また、一人になって。


 すべてを失ったとき、私はその痛みに、耐えられなかった。何も分からないまま、追われ続ける毎日を。決して優しくない世界で、何も持たない私が、一人で生きるなんて無理だと、考えるよりも深いところで理解した。


 だから、まゆが一緒でないと、ダメだったのだ。辛いときには励ましてくれた。分からないことへ飛び込む勇気をくれた。私に、生きる意味を与えてくれた。


 そんなまゆがいなければ、私は一歩も歩くことができなかったから。


「大丈夫です。私が一緒にいます。──それに、まなさんは、一人でも十分、歩いていけますよ」

「そんなことない」

「私は、まなさんの強さを信じています。だから、信じさせてください」


 その言葉には、少しの揺らぎもなかった。でも、だからこそ、何度も繰り返し聞いたことを、私は尋ねる。


「どうしてマナは、こんなあたしなんかを、信じられるの?」

「──愛しているからです。まなさんが、まゆみさんを大切に思うのと、よく似ているのではないでしょうか」


 その言葉が、すとんと、心に落ちた。


「たとえ、亡くなったとしても、思いは消えません。それに、もし、まなさんが忘れても、私が何度でも、思い出させてあげます。だから、大丈夫」


 ──まゆがいなくなったとしても、思いは消えない。忘れても、マナが覚えていてくれる。だから、まゆは、絶対に、いなくならない。


「……あたしのせいなの。あたしのせいで、まゆは。だから、まゆを、覚えてなくちゃって。あたしのせい、あたしのせいなの。私が、あたしが、まゆを、私が、私が!!」

「落ち着いてください」


 マナは私を起き上がらせて、抱きしめた。その温かさに包まれていると、不思議と、心が落ち着いてきて、呼吸が整っていくのを感じた。


「すべて、受け止めます。まなさんのすべてを。だから、ゆっくりでいいので、話してくれませんか?」

「──うん」


 子どものように泣きじゃくる私の頭を、マナはずっと撫でてくれた。

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