第6-10話 我慢の限界

 ──一瞬、何が起こったのか、分からなかった。


 後から、じわじわとした痛みが、熱を帯びて頬にやってきた。目の前の光景と照らし合わせて、私はやっとマナに頬をはたかれたのだと、気がついた。


 呆然としていると、肩を強く掴まれる。その手はガチガチ、震えていた。


「……どうして。どうして、なんで!!」


 重ねて怒鳴られて、私はマナから一歩下がる。怖い。


 ──こうして大声を出されると、嫌でも昔のことを思い出す。外に出て、色んなものを知って、たくさんのものを得て、それらと比較することで、私は幼い頃の生活が受け入れられなくなっていた。


 暗い部屋も、静かな空間も、硬く冷たい床も。昔はそれが当たり前で、なんとも思わなかった。

 理不尽な暴力にも屈せず立ち向かい、なんとか、まゆと一緒に逃げ出した。


 それなのに。あのときの痛みが。心の悲鳴が。今になって、訴えかけてくる。なんとも思っていないつもりでも、心は確かに、嫌がっている。怖い怖いと、子どものままの声で、叫んでいる。


 マナは、何をしても私を許してくれると、そう思っていた。きっと、何があっても、私の味方でいてくれると、そう、信じていた。


 私は痛む頬を擦り、視線をそらす。


「逃げないでください!」


 私は体をびくつかせて、縮こまる。全身に力が入り、不自然なまでに体が震える。


「……逃げることの、何が悪いの? あたしは、今までずっと、逃げ続けて来たんだから。きっと、こういう生き方しか、できないのよ」

「私が、一体、今まで何のために……っ!」


 振り上げた手を見て、また、叩かれるのではないかと、私は顔を強張らせて、硬直する。


 しかし、マナはその手から力を抜き、だらんと肩からぶら下げた。


「──八年が、こんなにも長いなんて、思わなかったんです」

「マナ?」

「どうして、忘れずにいられるんですか?」


 一瞬、何を言われているのか、分からなかった。


 マナは私の左腕をまくり、傷を指でなぞる。触れられた傷口が、しんしんと痛む。


「私には……分かりません。あかりさんも、まなさんも、どうして、そんなに頑張れるのか──」

「あんた、なんでお姉ちゃんのこと、知ってるの」


 恐怖など、初めからなかったかのように消え去った。代わりにやって来たのは、純粋な、なぜ、という感情だけだった。


 私は傷をなぞったその手を強く掴む。知っているはずがない。知っていていいわけがない。私だけが知っていればいい。


 そうして、思考を巡らせて、はっとする。


「そっか、あかりが、記憶を見たって、言ってたわ。……分かった、忘れずに覚えておける魔法があるから、それで──。……そう、まゆを、知ってるのね。あは、あはは……あははははっ!」


 私はマナの手を離し、全身の力を抜いて立ち、天を仰ぐ。自然と笑いが込み上げてくる。


「あぁ……こんなにも、簡単なことだったんだ。魔法さえあれば、みんな、お姉ちゃんのことを忘れずにいられるんだ。……魔法、か」

「まなさん?」


 まゆと出会ってから、十八年。城を脱走してから、実に、十六年が経つ。そして、その十六年間、私は自分のすべてを、まゆに捧げてきた、つもりだ。


 全然、足りなかったかもしれないけれど、それでも、まゆが私のすべてだったから。毎日毎日、何か手がかりがないかと、探し求めて、歩き回って、話を聞いて、考えて。


 瞳から、一筋、涙が零れた。そうして、笑いたくもないのに、笑いが込み上げてきた。


「ははっ、あははっ……全部、無駄だったんだ。私が今までやってきたことなんて。結局、魔法。魔法さえあれば、なんでもできる。そう、最初から分かってた。だって、簡単なことでしょ? 魔法で、まゆそっくりの人形を作って、同じように行動させて記憶に刻ませれば、誰も、まゆのことを忘れないんだから。まゆも、みんなと話したりできるんだから。……こんなに簡単なことなのに、なんで、もっと早く、気がつかなかったんだろう」


「まな? どうかしたの?」


 まゆは、八歳のときの姿のままで、そう問いかける。他のすべてが変わったとしても、まゆだけはきっと、変わらず私と一緒にいてくれる。


 だから、私は。まゆだけを愛して。まゆのために生きる。まゆさえいれば、他に何もいらない。


「お姉ちゃん。やっと、元に戻せるよ。私は──」


 気がつくと、マナは私をベッドに押し倒して、口を塞いでいた。


「──っ!」


 あと少し、少しで、願いが叶う。それなのに。


 どうして、言わせてくれない。

 今すぐに、まゆを元に戻せるのに。

 やっと、手の届くところに、願いが見えたのに。


 なぜ、邪魔をする──!


「そんなことのために、願いを使わないでください!」


 そんなこととは何か。私が今まで、人生のすべてを捧げてきたものを、そんなこととは。


 何を知っている。何が分かる。何も知らないくせに!


「一度しか使えないんです! 人生で、たった一度きりなんです! もう二度と、願いは叶わない! 時計塔が見ている限り!」


 何の話か分からない。そんなことはどうでもいい。今は、願うことの方が大事だ。まゆを、早く、忘れないうちに、元に戻してあげないと──、


「まゆみさんは、死んだんです!」

「んーッ!」


 死んでない。私は死なせてなどいない。私のせいじゃない。こうして、ここにいる。ちゃんと、あのとき、手を掴んだから。死んでなんかない。


「現実を見なさい! あなたは手を掴めなかった、自殺を止められなかった、まゆみさんは、もう、死んだんです!」


 現実なんて、何もいいことはない。どうせみんな死ぬ。みんな傷つく。みんな、まゆを忘れる。私も忘れる。私のせいで、私の、私の、私のせいで。みんな、みんな、死んでいく。


 そんな現実、耐えられない。残酷なのが現実ならば、私はそれから逃げる。向き合う勇気も、戦う度胸も、受け入れる強さも、苦しまないと手に入らないのなら、何一つ、私はいらない。


 だから。逃げて、何が悪い。目を背けて、何が悪い。知らないふりを続けることの、何が悪い。


「いいですよ、嫌なら、逃げても。私から逃げてください。それがあなたの選択なら、私はそれを肯定します」


 言っていることと、やっていることが、まるで違う。私を逃がす気など、マナにはない。わけが分からない。


「でも、逃げるということは、何かを捨てるということです。……そんなことが、まなさんにできるんですか? あなたは、まだ何一つ、捨てられていないじゃないですか!」


 違う、と、叫びたかった。まゆのために、私はすべてを捨ててきたのだと。


 なのに、言えなかった。


 ──昔は、もっと楽だったはずなのに。


 同じように逃げているだけの今が、辛くて仕方がない。


 大切なものが増えては、どんどん、こぼれ落ちていく。


 向き合うのが怖い。何も知りたくない。聞きたくない。見たくない。


 だから、私は、逃げ続ける。


 それでも。何も持たないまま、あの狭い場所で過ごしていれば良かった。彼らの言う通り、あの場所にいた方が幸せだった。何も知らない方が、ずっとましだった。


 最初から、逃げたりしなければ良かった。一度逃げたら、逃げ続けるしかないのだから。


「その願いは、今、使うべきではありません。もっと、よく考えてください。そうでないと──本当に、すべてを失うことになりますよ」


 私には、まゆしかいない。だから、これ以上、失うことは、怖くない。


 それ以外がもう、手遅れだったとしても。

 まゆだけは、まだ、救える。


「それでも、もし、逃げるというなら。──私を、殺していってください」

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