第5-30話 私を責めたい
いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。縫いかけの布が視界に入った。洗っても洗っても、白くならない、乾いた血のこべりついたワンピース。継ぎ接いで継ぎ接いで、縫い目ばかりが増えていって、とても、元に戻りそうにない。時を戻せたらいいが、これは、魔法が効かないのだ。そういう魔法がかけてあるから。
「──なんか、静かだな」
時計を見ると、いつもの起床時間をとっくに過ぎていた。マナの目覚ましボイスを聞き逃したのは、いつ以来だろうか。一晩経ってもこの感情が落ち着くはずはなかったが、昨日よりは冷静だった。
「マナ、入るよ」
僕は隣の部屋の扉を開ける。マナは、いつものように床で寝ていた。
「風邪ひくよ。起きて」
揺すると、マナはゆっくりと、体を起こした。そして、目を何度か瞬きして、体を伸ばした。
「まなさんは?」
「いないみたい。いつもの一人会話も聞こえないし」
「そうですか──」
マナは何かを考えている様子だった。僕は、邪魔をしないよう、静かにしていた。
「もしかして……!」
マナはまなちゃんの部屋の扉をノックする。インターホンはついているが、知り合いしかいないので、ほとんど使わない。
「──まなさん? 入りますよ」
鍵などついていないかのように、マナは返事のない部屋へと入る。
入ると、なんとなく、部屋が寂しいように感じた。ふと、本棚から本が消えていることに気がついた。よく見ると、教科書もない。食器もない。指輪の入った箱もない。マナが開けた洋服棚を見ると、服もきれいになくなっていた。そしてマナは、机の上の紙に目を留め、動きを止める。
「──退学届」
マナの呟きを拾い、僕は机の上を見る。そこには、マナの言った通り、退学届と書かれた変な折り方の紙が置かれていた。その横に、付箋が貼られていて、「出しておいて。それから、ユタをよろしく」とだけ、書かれていた。
「どうして……っ」
マナは階段を急いで降りていった。僕は、理解が追いつかないまま、それに続く。そして、彼女は、珍しく朝から座っていたルジさんに詰め寄っていた。
「どういうことですか、説明してください!」
「あの子は、日が昇る前に、ここから出ていった」
ルジさんは封筒をぴらぴらと見せつけるようにしていた。中にはお金が入っているようだった。
「どうして、そんなもの受け取ったんですか!」
「返すと言ったが、受け取らなかった。罪滅ぼしのつもりだそうだ」
「どうして──」
「決意は堅かった。わそが何を言っても聞かなかっただろうよ。それに、本人が決めたことだ。他人が口出しできることじゃない──殴りたきゃ殴れ」
マナは、拳を震わせていた。ルジさんが悪いわけではないことを理解しているから、殴れなかったのだろう。だから、僕は、彼女の代わりに差し出された頬をはたいた。
当然、ルジさんは、僕がまなちゃんの監視を命じられていることも知っているはずだ。魔王の臣下なのだから。それを、なんの報告もせず行かせたとは、一体、どういうつもりなのだろうか。
「なんで行かせたの? 何も知らないなんて、言わないよね?」
「お前が、それを言うのか……っ!!」
ルジさんは僕を下から、憎悪を込めた眼差しで睨みつけた。掴みかかりたい衝動を、押し殺したような声だった。僕は、少し待って、心当たりを思い出した。
「あれは──!」
「話は終わった。終わったんだ! 残念だったな、榎下朱里! 望みを叶えられなくて!! どうせ、望みなんてのも、大したもんじゃねえんだろ!? はっ、ざまあねえなあっ!!」
ルジさんの豹変ぶりに、僕は驚いた。その言葉の裏に隠された感情が分かっていたから、僕は、説得しようとは思わなかった。本当のことを言うことも、やめた。きっと、僕の言葉なんて届かないから。
「……そんなの、僕が一番、分かってる」
大した望みじゃない。叶えたところで、いいことより悪いことの方が多いくらいだ。それでも、それが叶うまで、マナとは婚約できない。だから僕は、いつまで経っても馬鹿なのだ。
「ごめん、マナ。僕、捜してくるよ。──あーあ、魔王にも報告しないといけないなあ。怒られるかなあ」
最強の魔法使いが、国内にいるであろう、たった一人の少女を捜す。簡単に聞こえる話だが、実際に見つけるのは、かなり難しい。まなちゃんの身柄のこともあり、大規模な捜索はできないからだ。
もしかしたら、二度と、見つからないかもしれない。きっと、長い旅になるだろう。
「私も一緒に行きます」
それは、いつか、彼女が記憶を失う前に言った言葉と同じだった。──それが叶えば、どれほどいいだろう。
「ダメだよ。マナは女王になるんだから」
「三年以内に見つけて帰ってきましょう」
「見つけられなかったら?」
「それなら──」
王位を捨て、捜し続けると言うだろう。マナにとっても、あの少女は大切な存在で、僕にとっては、望みを叶える唯一の手段だ。
それに、二人で王都から逃げ出して、旅をしていた時間は、とても楽しかったから。だから、僕は、その先を言わせなかった。
「マナはきっと、僕を選ぼうとするよね。それが怖いんだよ。だから、お願い。──今度は、僕を信じて、待ってて」
「……一緒に来てって、言ってくれないんですね」
「エトスとギルデに怒られちゃうからさ。ここにいてあげてよ」
「私がいなくても、平気なんですか?」
確かに、この世界に来てから、一度も、ろくにマナと離れたことがない。数日会わないことはあったが、本格的に離れるのは、初めてだ。
「一回、離れてみてもいいんじゃないかな。ま、マナは、僕がいないと寂しがるかもしれないけどさ、ははっ」
茶化してみせたが、マナは怒りも否定もしなかった。代わりに、とても、寂しそうだった。離れたくなかった。今すぐ、抱きしめて、安心させてあげたかった。胸が締めつけられる心地がした。
それでも、僕は、彼女を選べなかった。だから、一緒にはいられない。
僕は自分より少し、背の高いその頭を、ぽんぽんと撫でる。
「大丈夫。すぐに戻ってくるからさ。その頃にはきっと、背ももう少し伸びてるから」
見つかる保証はない。そして、数年もすれば、マナは別の誰かと結婚することになるだろう。
それに、いつかまた、僕のことなど、きれいさっぱり忘れてしまうかもしれない。──それは、嫌だったけど。
「別に、死にに行くわけじゃないんだからさ」
「あと数年もしたら、戦争が起きます。勇者であるあなたを失った人間たちは、魔王に対抗する術なくして、敗戦することになるかもしれません。そうすれば、戦争に参加しなかったあなたのせいだと、責められることになるでしょう」
「──僕には、難しいことは分かんないよ」
「敗戦して飛ぶのは、王である私の首です。そして、その責任を負うのは、あなたです。世界に勇者が二人いるということは──」
「ははっ!」
僕はマナの言葉を笑って、遮った。難しいことは分からない。分かりたくもない。でも、
「僕たちの未来が、戦争の勝ち負けで決まるなんてさ、なんだか、僕たち、世界の中心にいるみたいだね」
そう言うと、マナは、心底、呆れたという顔をして、ため息をついた。
「──あなたは、本当に愚かですね」
「馬鹿でごめん。面倒な手続きとか、代わりにやっておいて」
「それくらい自分で──」
「僕にはもう、あの子しかないんだよ。だから、すぐに行かなきゃ。望みを叶えるために、立ち止まってる暇なんて、一秒たりともないから」
マナはなんとか、別の言葉で引き留めようとしているように見えた。だから、僕は背を向けた。そして、
「さようなら、マナ。幸せになってね」
「──」
震えそうな声を、なんとか抑えて、そう言った。足が止まってしまいそうだったから、僕は彼女が何かを言う前に、その場を去った。
***
まゆの手を引き、私は歩く。
「まな、これからどうするの?」
「そうね。まずは、見つからないよう、遠くに行きましょう。それから、また、昔みたいに、ギルドで稼ぎながら、色んなところを旅して。ちょっと、お金が余ってるから、カルジャスに行くのもいいかもしれないわね」
「なんで、逃げたの?」
「あたしと一緒にいたら、みんな、不幸になるでしょ?」
「わたしはいいの?」
私は足を止めて、まゆの方を見る。
「お姉ちゃんだけは、幸せにしてみせるから。……それに、これ以上、お姉ちゃんを不幸になんて、できないわよ。もう、どん底でしょ?」
「酷いなー。でも、それもそうだねー」
まゆは、にへらと笑った。そして、私たちは手を繋ぎ、再び歩き始めた。
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