第5-28話 段ボールを開けたい
頭を乾かし終わった頃、扉がノックされる音が聞こえた。時計を確認すると、夜の十一時頃だった。私は覗き穴すらない薄い扉をそっと開けて、様子をうかがう。そこには誰もいなかったが、代わりに、扉に何かが当たる音がした。足下を見ると、そこには、段ボールが置かれていた。
「段ボール? こんな時間に? ──いいえ。それより、この宿舎は他の人から見えないから、ル爺の家に届くようになってるはずだけど……」
しかし、ル爺の姿もなかった。段ボールは、ワンホールのケーキでも入っていそうな大きさだったが、持ち上げてみると、綿でも詰められているかのように軽かった。これまで私の元には、れな以外から何かが届いたことがなかった。
下に降りると、ル爺が椅子に座っていた。視線は床の向こう側をさまよい、背中は丸く曲がっていた。
「ル爺、この箱、二階に届いてたんだけど、誰にもらったの?」
「──んば? だーりも見とらんち」
「え? じゃあ、誰か二階に来なかった?」
「んだでん。あかりさんば、まで帰っつれんどなー」
「あかり、また出てったの?」
「いえそ。……めでなごぞぼ」
「……なんて?」
「なんっちもあらーばし。ぞーより、人間の女王ば、出てこっからち」
「マナのことね。とりあえず、部屋に行ってみるわ」
「ぽっころー」
「ぽっころ」
ノックすると、確認もせず、すぐに扉が開いた。
「まなさん──。申し訳ありません、先ほどは、失礼なことを」
「いいえ。こっちこそ、キツい言い方になって、悪かったわね」
それを聞いたマナは微笑を浮かべて、私を引っ張って、部屋に招き入れる。そして、膝を伸ばし、手で叩いてそこに座るよう催促してきた。私がわざわざ、床に座ったのに、マナは座った姿勢のまま、私を抱き上げ、子どものように膝に乗せた。乱雑に散らかった部屋だが、足を伸ばすだけのスペースはかろうじて確保してあるようだ。
「何があったか、お聞きしてもいいですか?」
「──あたし、魔王に、ハイガルがタマゴを持ってたこと、言わなかったの。ハイガルに、誰にも内緒だって言われて」
「……言わなかったんですか?」
「え? ええ、そうだけど」
なぜか問い返されて、私は困惑する。まゆをあんな目に合わせた父に、言うはずがない。驚くことでもないと思うけれど。
「そうですか。──そうですよね。まなさんは、あの人のことが好きですもんね」
「……は?」
混乱する私を差し置いて、マナは話を進めていく。
「実は、私は、ハイガルさんのことは、嫌いでした。まなさんが私よりも先に、あの人のことを頼ったからです」
「それは、お母さんのときの話?」
「はい。私が尋ねても答えてくれなかったのに、ハイガルさんには、あっさり教えてあげたじゃないですか」
マナは私の頭をゆっくりと撫でる。確かに、私は母が亡くなるまで、マナにもあかりにも、ユタが私の実の弟であると言わなかった。ハイガルにだけは、相談したけれど。あのときも、あかりやマナは、どこかから、見ていたのだろう。私は二人に監視されているのだから。
「別に、トンカラっていう借りができたから、話しただけよ」
「それは建前です。まなさんは、明らかにあの人を特別視しています」
「……嫉妬?」
「はい。嫉妬です。……それから、寂しかったです」
「あんたって、意外と面倒な性格よね」
「それでも、私はまなさんを愛しています」
「……その理由を聞かせてくれれば、あたしは、あんたを、素直に頼れるかもしれないわね」
わけの分からない、狂信的な愛。見返りを求めない、純粋な善意。明らかに他人と違う、私への態度。
こんなものを、押しつけられて、どうやって頼れというのだろうか。私は、マナに、何もできていないのに。返したいと、ずっと思っているのに。正直、つらくてたまらない。
「──本当に、理由なんてないんですよ」
「そうだとしても、この距離感は、あんたとあたしの距離感じゃないと思うわ」
抱きついたり、頭を撫でたり、膝に座らせたり。それは、本来のマナの距離感とは違うと、常々感じる。少なくとも、友だちの距離感にしては近すぎる。あかりに対するあの態度こそ、マナの親しい人に対する接し方ではないだろうか。
「──あたしは、誰かの代わりなんじゃないの?」
「まなさんは、世界にまなさん一人だけです」
「そう」
嘘ではないのだろう。しかし、私とマナの間には、どこか、大きな溝があるような気がしていた。ずっと前から。
「……それで、あたしがハイガルを何って?」
「まなさんは、ハイガルさんが好きだと、言いました」
「そんなわけないでしょ」
「嘘です」
「あたしの言うことが信じられないの?」
「まなさんのことは、まなさん以上に、よく知っています。だから、分かるんです。──きっと、月日が経つごとに、もっと、つらくなりますよ」
「そんなわけないでしょ。それに、なんでそんなこと言うの?」
「きっと、それが、運命だからです」
「運命なんて、この世に存在しないわ」
「ありますよ、運命なんて、どれだけでも」
マナは私の髪を、手でとかし始めた。私はされるがままになる。これ以上、この話を続ける気はないのだろう。
「それで、なんのご用でしたか? この段ボールと何か関係がおありですか?」
「ええ。誰かが置いていったみたいなんだけど、ル爺に聞いたら、誰も二階に行ってないらしいの。あかりも出てるみたいだし、マナは何か知らない?」
「私も気がつきませんでした。──怪しい魔力は感じられませんし、開けてみましょうか」
「ええ」
封を切り、箱の中身を確認しようとしたとき、扉が外から勢いよく開け放たれた。そこにいたのはあかりだった。
「どうかされましたか?」
「いや、今帰ってきたら、二人の話し声が聞こえたからさ、何だろうと思って」
「ノックくらいしたら?」
「ああ、ごめんごめん、いつもの癖で。……ん、何その箱?」
「段ボールですよ」
「そっかそっか、段ボールか……じゃなくて! 中身の話ね!」
「まだ見てないわ。今から開けるところ」
「へー。……なんか、その箱、臭くない? ってか、これ、うっ、血の臭い……。マナはどう思う?」
「私も同意見です」
そういえば、二人は紅茶が趣味だと言っていたことがある。そう考えると、鼻が利くのかもしれない。言われてから遅れて、悪臭が漂っているのに気がつく。
「ま、悩んでてもしょうがないし、開けてみよっか」
「そうですね」
「えぇ……本当に開けるの……?」
「大丈夫ですよ。何があっても守りますから」
「命の心配はしてないけれど、ありがとう。……それで、なんで二人ともあたしに開けさせようとしてるわけ?」
「私はまなさんで手が塞がっているので」
「僕は箱を押さえてるから」
あかりにテープを切った箱を差し出されて、私は内心で悪態をつきながら、渋々箱を開ける。すると、血の臭いがむわっと漂ってきた。私は思わず、顔をしかめる。
──箱の中身は、多数の黒い布きれだった。
細かく切られた布が、箱全体に敷き詰められていたのだ。色は全体的に茶黒く、ムラがある。私がその中の一枚に手を伸ばそうとすると──あかりが、私の手を払った。私は驚いてのけぞり、放心して、ゆっくりマナにもたれかかる。
「あかりさん、大丈夫ですか?」
あかりは、その布をじっと見つめていた。まばたきする余裕もないほどに、彼が深く傷ついていることは、誰が見てもすぐに分かるほどだった。私はその中身が何であるのか、すぐには分からず、考えていた。
──そして、その布きれの一部に、見覚えがあることに気がついた。
「これ、あかりの服……!」
茶黒く、汚い、元は真っ白なワンピース。あかりが探していたそれは、血を塗りたくられた上、細かく切り刻まれていたのだ。
「酷いですね……一体、誰がこんなことを……っ」
あかりは段ボールを閉じて、それを、大事そうに抱える。いつしか、表情から驚きと悲しみは消え、彼は、真っ赤な怒りに支配されていた。
「──縫い直せばいいさ」
冷たい声だった。心を無理やり殺して、感情を凍らせているかのようだった。そうして抑えていないと、自分がどうなってしまうか分からないくらいに、心中が荒れ狂っているのが私でも分かった。こんなあかりを見るのは、マナが誘拐されたとき以来だった。
あかりは箱を持つと、それ以上、何も言わずに、部屋へと戻った。
「許せません」
「……ええ、本当にね」
マナと私では、きっと、許せない相手が違っただろうけれど。
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