第4-20話 父に会いたい
宿舎の壁は薄かった。私は部屋で勉強をしていたから、瞬間移動か何かで戻ってきた二人の会話から、逃げるタイミングを逃した。防音の魔法がかかっているのかもしれないが、私には効かない。胸がかきむしられるような、マナの泣き声が、いつまでも止まなかった。
あそこまで言われて、本当に、どうしてと思わずにはいられない。首を突っ込みたくはないけれど、黙っていられない。あまりにも、マナが可哀想だ。
「……集中できないわね」
私はそっと、部屋を抜けて、下の階に降りる。ロビーには、ギルデとハイガル、それから、ル爺がいた。マナの泣き声は、ここにまで響き渡っていた。
「あんたたち、これ聞こえてんの?」
「ああ。どうやら、防音魔法を、かけ忘れたようだな」
「本当に、なんであいつなんだ……!」
ギルデルドは机の下で、拳を固く握りしめていた。言っても仕方のないことと、分かっていても、そう口にしないと、やっていられないのだろう。
「みんなで、散歩にでも行かない? 聞いてるだけで、こっちが辛いわ」
「そうだな。俺は行くが、ギルデは?」
「僕は、ここに残ろう。また、マナ様がどこかに逃げ出さないとも限らないからね」
ル爺に目をやると、首を横に振った。ギルデが暴走しないように見張るのだろう。
「結局、あんたと二人なのね」
「すまない」
「別に、謝れって言ったわけじゃないわ。ただ、あたしも会話が得意な方じゃないし、なんだかこっちが申し訳なくて」
「そうか。別に、気にする必要はない。沈黙もまた、悪くない」
「それもそうね」
私は一度、階段の方を振り返り、外に出た。
そして、何を話そうかと考える。だが、本当に、何も話すことがない。あまり、話したい気分でもないし。
「……クレイア、いるか?」
「ええ、もちろんいるわよ。でも、そうよね。あんた、あたしが見えないものね。そう思って、今日はこれを用意してきたわ」
私はハイガルにその片端を手渡す。
「……紐?」
「そう、紐。ペットの散歩みたいな感じね」
私とハイガルで、紐の両端を持つ。これで、ハイガルは魔法が使えるし、私がいるかどうかも分かる。
「はは。ペットか。クレイアはウサギだな」
「は? なんであたしがペットなのよ。あんた、鳥でしょ」
「言えてるな」
ハイガルが私を元気づけようとしてくれているのは、なんとなく感じた。確かに、私が落ち込んでいても何にもならない。マナを慰める必要があるかもしれないし。しっかりしなくては。
そうして、なんでもない会話をしながら、私たちはギルドに向かっていた。依頼の取り消しをするためだ。
あれでは、あまりにも、マナがいたたまれないので、私は二人で、カルジャスにでも行こうかと考えていた。
「クレイア。夏休みに予定は空いてるか?」
「わりと、ぎっしりつまってるわ。何日?」
「八月二十五日。少しばかり、頼みたいことが、あるんだが。……無理そうか?」
私は記憶に検索をかける。
「ええ、大丈夫よ。その日は何もないわ」
「よかった」
「それで、何をすればいいわけ?」
「当日になったら話す。それまで、楽しみにしててくれ」
「あんたが言うと、何企んでるか分かんなくて、怖いわね……」
「それから、誰にも、このことは、内緒にしてくれ。構わないか?」
「ええ。分かったわ」
そうして、ギルドで手続きをして、私はバイトをキャンセルした。キャンセルできない分は、二十五日のお礼だと、ハイガルに代わってもらえた。
帰ってきて、宿舎の扉を開けると、行きとは異なり、静寂に包まれていた。ル爺の姿はなく、ギルデがロビーで酒を飲んで、眠っていた。床にビールの缶が散らばっていて、お酒臭い。
「ギルデ、部屋に戻りなさい」
「くーすか……」
顔が真っ赤になっていて、起きそうになかった。
「俺が運ぶ」
「ええ、あたしは片づけておくわね」
部屋から適当な袋を持ってきて、缶を拾い、床と机に零れたビールを拭く。
これだけのことがあっても、まだ昼過ぎだ。ユタはそろそろ帰ってきているだろうか。この光景は教育上、よろしくない。ロビーで酒は禁止にした方がいい気がする。わざわざ部屋から持ってきて開けたということだろうし。まあ、ル爺がそんな面倒な規則を作るはずもないのだけれど。
なにせ、女子は上の階、男子は下の階と分けているくせに、あかりを上の階の真ん中に入れるような人だ。そもそも、同じ宿舎に年頃の男女を同居させる時点で、常識からずれている。何も起こらないとは言い切れない。
手早く掃除を終え、私はユタの様子を見に行く。すると、いつものように、ボーリャさんが出た。
「あら、まなさん、どうしたんですか?」
「そろそろ、ユタが帰ってきてるかなと思って」
「まあ、それは残念でしたね。先ほど、お友だちの家に行くと連絡がありましたよ」
「そう──」
まだ、あの泣き声が耳から離れない。だから、別のことに意識を集中したかった。ハイガルと話しているのは、気が紛れたが、今はギルデの介抱をしているだろうし、あまり時間をとってしまうのも申し訳ないし。
「あ、そうそう。まなさん、先ほど、かっちゃんから連絡がありましたよ」
「なんて?」
「すぐに会いに行く、だとかで──」
「久しいな。会いたかったぞ、マナ」
重苦しい声が後ろから聞こえて、私はゆっくり振り返る。不敵な笑みと、真っ赤な瞳と黒い髪に、私は自分が少しだけ、安心したのが分かった。とはいえ、すぐと言っても、さすがに急すぎるだろう。
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