第4-19話 嫌われたい

「私には、四月以前のあなたの記憶がありません」

「……うん」


 何度、言われても、やはり、受け入れがたい事実だった。それでも、僕は、もう一度、マナの口から、説明がなされるのを待つ。


「より正確には、今年の四月二日を含む、それ以前の記憶です」

「そうだったね」

「なぜ記憶がなくなったのかは不明です。しかし、私の記憶には、あなたという存在が欠落している。それは、今でも変わりません」

「……そっか」

「私が今後、あなたを思い出すことは決して、ありません。私はあなたを忘れたのではなく、私の記憶から、あなたのことだけが、跡形も残らず、消えたのです。誰かに記憶を覗かれたとしても、その痕跡すら見つけ出すことは不可能です」


 わずかな望みもなかった。マナと過ごした二年間の思い出は、もう僕の中にしか残っていない。マナの顔を見るたびに、そのことばかりが思い返される。


 でも、王女が記憶をなくしているなんて、誰にも言えなかった。それに、僕たちは城から逃げてきたのだ。だから、マナの家族にすら、言うことができなかった。それを、この間、蜂歌祭のときに、やっと、打ち明けられた。


「蜂歌祭のとき。私には、女王になる覚悟がなかった。そこで、初めて、欠落しているものの大きさに気がつきました。──あなたという存在が、私にとって、いかに大きかったかということです」

「……え?」

「少し、照れますね。えへへ」


 ──こっちが照れてしまいそうなほどの笑みだった。僕には彼女が何を言いたいのか分からなかったが、そんなこと、どうでもよくなるくらいの美しさだった。いや、でも、マナの言うことは出来る限り理解したい。


「でも、あのとき、マナを後押ししたのは、まなちゃんと、れなさんで──」

「あなたも来てくれた。そうですよね?」

「ぁ……」

「あなたが外で戦っているのが見えたから、私は勇気を出せたんです。あなたの前でカッコ悪い姿を見せたくなかったから」

「そんなこと、今まで一度も……」


 言われたことがなかった。少なくとも、記憶を失う以前の彼女には。彼女は、どこまで、カッコいいのだろうか。


「いつも、だらしないところばかり見せているのに、なんだか不思議ですね」

「マナ……」

「もう一度、言います。──私と、婚約してくれますか?」


 いつまで経っても、マナには勝てそうになかった。いいところも、全部持っていかれて。前も、こうやって、婚約しようと言ったのは、彼女の方だった。僕は、彼女のようになりたかった。


 そして、やっと、僕は、気がついた。


「それとも、もう、私のことは嫌いになってしまいましたか?」


 記憶を失った彼女に、僕は一度も、思いを伝えていないのだと。ずっと、思いを伝え続けていたから、伝わっているとばかり思っていた。


 そして、それが、どれほど、彼女を不安にさせていたのかということを。その顔を見るまで、気がつかなかった。


「嫌いになんて、なるわけないじゃん……」


 嫌う理由が見つからなかった。彼女はいつでも、完璧だった。優しかった。僕にとっては、もったいないくらいの存在だった。欠点と言えば、口笛が吹けないところくらいで、嫌なところと言えば、完璧すぎるところと、僕より少し、背が高いところくらいだった。


 ここで、うなずけば、きっと、僕たちは幸せになれる。僕はただ、うなずくだけでいい。それを問う勇気は、マナに任せているから。


 それでも、ダメだった。うなずこうとした瞬間、目の前が真っ暗になって、動けなくなってしまう。あがいても、その先へと進めない。


「──巻き込みたくないんだ。マナには、光の当たるところにいてほしいから」

「私があなたを、その妄執から解き放って、光の当たる方へと、連れ出します」

「無理なんだ……。僕は、君と一緒にいていいようなやつじゃない」

「魔王と手を組んでいるくらいでは、私はあなたから離れませんよ」

「知ってる。……でも、マナには、きれいなままでいてほしい。何も知らないでいてほしい。関わらせるわけにはいかない」


 そう言って、今までもずっと、監視を手伝ってもらったりしていたけれど、魔王との契約については語ったことはない。どうしても、それだけは、知られたくない。


「どうしても、ですか」

「どうしても。だから僕は、君と別れたんだよ、マナ」

「そんなに辛そうな顔をしてまで、やらなければならないようなことなんですか」

「……そうだよ。だから──」


 マナは僕を抱きしめた。マナだけは、不思議と、触れられても平気な存在だった。出会ったときから。


「許します。全部」

「全部って……、許されるわけがない。僕が、何をしてきたかも知らないくせに」

「知ってますよ」


 マナは僕の背を指でなぞった。本当に、すべて知っているような気がして、僕は望みを抱いてしまう。そんなこと、あるはずがないと、分かっているのに。


「すべて、受け入れます」

「嘘だ。だって、君は──」

「偽物だと、そうおっしゃるんですか? 先ほどのように」


 僕がそう言ったから、マナは走って出ていったのだ。そんな風に、まったく思っていないとは言えないけれど、まったく、本心ではないのに。ただ、マナの中に、僕の記憶だけがないことが、どうしても認められなくて。


「……そうだよ。そう思ってる」

「本当に?」

「──」

「あかりさんは、嘘が好きですね」

「嘘なんてついてない」

「それなら、私が好きではないのだと、はっきり言ってください」

「それは……」


 マナが絡むと、すぐに、何も言えなくなってしまう。いつものように、あることないこと、並べておけばいいのに。


「それが優しさだとしても、突き放そうとしないでください。……寂しいです。それとも、本当に、私のことが、好きではないんですか」


 抱きしめる力が強くなる。不安が痛いほどに、伝わってくる。しかし、僕はマナを抱きしめはしない。彼女を受け入れることになってしまうから。


 そして、僕が何の反応もしないのを見て、マナは力を緩めた。


「あなたが思うほど、私はきれいではありませんよ」

「……嘘だ」

「本当です。それとも、穢れた私は嫌いですか?」

「そんなことない。でも、僕のせいで、そうなってほしくない」

「それなら、もうとっくに、手遅れですよ」

「そうかもしれない。でも、それ以上に、僕がやろうとしてることは、もっと、悪いことなんだ」


 僕の譲ろうとしない姿勢に、マナは呟いた。


「……私は、思い上がっていたのかもしれませんね」

「どういう意味?」

「あなたは、記憶の有無に関わらず、私を好きでいてくれると思っていました」

「それは……」


 記憶があってほしいとは思う。だが、そんなの、関係なかった。マナは、マナのままだったからだ。


 でも、僕はしきりにそれを否定した。彼女なら理解してくれるだろうと。そんな都合のいい話、あるはずがない。言われないと分からないに決まっているのだ。


「──もし、私が、取り返しのつかないことをしていたと知ったら、あかりさんは、私をどう思いますか?」

「例えば?」

「──人殺し」


 耳元でささやかれて、僕は動きを封じられたかのように硬直する。その声だけが、僕の心を支配していた。マナは、そんなことをするような人間じゃない。だが、冗談のようにも、聞こえなかった。


「やっぱり、嫌いになりますか?」

「ならない」

「嘘ですか?」

「嘘じゃない」

「殺した相手が、あかりさんだったとしても?」


 僕には、その言葉の意味が、考えなくてもよく分かった。もしかしたら、マナは、全部分かっているのかもしれない。いや、期待しすぎは良くない。マナが全能の存在でないことは知っている。


 ──だから僕は、その質問に、すぐに答えられなかった。


「……どうして、私を選んでくれないんですか?」


 その、泣きそうな声に、心が揺れた。ぐらぐらと、どこまでも、不安定で、簡単に、転がってしまいそうだった。


 それでも、駄目だった。僕は、弱かったから。手を離して、流れに身を任せて、転がっていくことができなかった。


「どうして……っ!」

「マナは何も悪くないよ。悪いのは、いつも、僕の方なんだ。ごめん、マナ。──許してくれとは、言わないから」


 痛いくらいに、マナは僕を抱きしめていた。ネコに噛まれるのなんて、比べ物にならないくらいに、ずっと、痛かった。


 でも。肩に滲む涙の熱さが。耳を刺すような嗚咽が。彼女をこんなにも、悲しませてしまったことが。何よりも、痛くて、苦しかった。


 それでも、今回も、マナを選ぶことは、僕にはできなかった。記憶がないとはいえ、同じ悲しみを、二度もマナに与えてしまった。


「──どうか、僕を、嫌いになって」


 いっそ、僕との記憶がないまま、僕のことを忘れて生きる方が、彼女にとっては楽だろうに。それができないなら、嫌いになって、拒絶してくれれば、それで済む話だろうに。だから僕は、直接彼女に思いを伝えなかった。


 マナは何も言わなかった。

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