第3-21話 代わりに泣きたい

 その日の夜。私はまた、散歩でもしようかと、まゆを部屋に残し、暗い夜へと足を踏み入れようとしていた。


 しかし、よく考えれば、私は夜が苦手だった。それにも気がつかないほど、私の心は病んでいるらしい。


 つまり、今、私は宿舎の入り口の手前で、足をすくめていた。よく、こんなに暗いところを歩きたいなんて思ったものだ。


「……まあ、さすがに、そう都合よく誰か来たりしないわよね」


 行くか止めるか。優柔不断な私は、またしても、決めかねていた。そこに、背後から遠慮がちに背中をつつかれて、私は振り返る。


「マナ──」

「どちらへ行かれるか、お聞きしてもよろしいでしょうか?」


 淡々とした口調も、人形のような表情も、ずいぶん、久しぶりな気がした。


「ええ。少し、散歩にでも行こうかと思って」

「ご一緒しても、よろしいでしょうか?」

「ええ、もちろん」


 そうして、少し歩いていたが、一向にマナが話す気配がないと見えて、私から問いかけをする。


「──マナは、どうしてこんな夜中に?」


 そう尋ねると、マナが少しだけ目を見開いたような気がした。かなり、珍しい表情だ。指輪に保存しておきたいくらいに。


「まなさんの様子が気になって、と言ったら、信じますか?」

「こんな時間まで? もう夜中の二時だけど……」


 私はロビーに設置された壁掛け時計を見て、時間を確認し、困惑する。だが、マナの表情は、真剣そのもののように見えた。いつもと変わらないようにも見えたけれど。


「まあ、信じるわ。マナって意外と優しいし」

「……優しくないですよ」


 私は少しだけ違和感を抱く。誉められたことに対して、もっと、素直に喜ぶタイプかと思っていたのだが。


「じゃあ、優しくなくても信じるわ。木から落ちそうだったときも、結局、助けてくれたし」


 あかりとマナには、まだ事情は話していない。ここ数日、バタバタしていて時間がなかった、というのは言い訳だが。ただ、マナは妙に察しがいいところがあるし──と考えていると、


「……え?」


 急に、マナが立ち止まって振り返った。


 すると、街灯に照らされて、頬を涙が伝っていくのが見えた。


 その急変に、私はここ最近で一番の驚きを覚え、目から鱗が落ちそうになる。本当に何か飛び出るんじゃないかと思った。


「な、なんで?」

「マナさんが、泣いてくれないから……っ」

「ええぇ……わけ分かんないんだけど……?」


 そして、マナは前を向き、すすり泣きながら歩き始めた。泣かせたみたいになっている。まあ、本人は、私のせいだと言っているのだけれど。


「歳を取ると、涙腺が緩んで、仕方ありませんっ」

「いや、あんたまだ十五か十六でしょ……?」

「十六です」


 マナは形の整った鼻をすすり、顔面を悲しみの色で満たしていた。元の美しさがあるため、泣き顔を見ていると、妙な罪悪感に駆られる。それすらも美しいというのは、罪な話だが。


「まなさんは、いい人です」

「今度は何?」


 急に誉められて、嬉しさと恐ろしさが半々だ。ともかく、素直には喜べないし、そもそも、いい人じゃない。


「なんで泣かないんですか。そんなに泣きそうなのに」


 私は立ち止まって、星を見上げる。この辺りは街灯が比較的少なくて、星がよく見える。


「……そう、なのかな。あたし、そんな顔してる? 自分じゃ分からないわ」

「私には分かります」


 マナに手を引いてもらって、私は星を見上げながら歩く。


「──良かった」


 私がそう言って笑みを向けると、マナは再び、涙を溢した。


「あんた、そんなによく泣く子だった?」

「まなさんが、いじめるからです……っ!」

「いじめてるつもりはないんだけど……」


 顔を覆ったマナは、近くの公園を指差した。


「あそこに行きたいです」

「公園? 別にいいけど」


 特別、大きな公園でもない。そこは、以前にも、ハイガルと立ち寄った公園だった。


 ブランコで揺れながら、私はマナに事情を説明していた。


「──そうですか」

「そうなの。だから、すごく、悲しいのよ。でも、悲しすぎるからか、一滴も、涙が出なくて。──お母さんの遺体を見たときから、ずっと。まるで、心が凍っちゃったみたい」

「まなさん……」

「まあ、お母さんって言っても、ほとんど関わりのない他人だし。だから、……本当はあんまり悲しくないのかなって。よく、分かんなくなってきちゃって。どう考えても、悲しいはずなのに」


 丸く大きな月に問いかける。何が正解なのか。私はこれで間違っていないのか。本当は、私はどう思っているのか。自分の心も分からない。私の心を照らして、もっと見やすくしてくれないだろうかと、そんなことを思う。


「……誰にもそんな顔、させたくなかったの」


 マナは私と同じように悩んでくれる。悲しみを理解しようとしてくれる。それはとても、尊いことだ。やはり、彼女は優しい人だ。私にはもったいないくらいに。


 この上なくありがたいからこそ、感謝よりも罪悪感が上回る。なんと、贅沢なことだろうか。


「でも、話したら、少しだけ、すっきりしたような気がするわ。ありがとう、マナ。だから、笑って?」


 ──やっと、少しだけ分かった。私が上手く泣けない代わりに、マナはこうして涙を流してくれているのだ。


 それは、なんと、尊いことだろう。


 それにしても、泣きすぎだけれど。私はマナの涙を指ですくい上げる。


「まったく、子どもみたいね」

「ふぇええん……」


 ぴゃんぴゃん声を上げて泣くマナの頭を、私は撫でる。背丈的に、立ち上がらないと手が届かなかった。


 そんな風に感情をむき出しにしているマナを見ていると、なんだか、おかしくて、笑えてきた。


「あははっ、マナって、変な子ね。普通、この状況で、そんなに泣かないでしょ」

「だってぇ……っ」


 私にここまでの涙があるだろうか。私の分も持っていってしまったのではないだろうか。そんなくらいの、大泣きだった。──こちらが釣られて泣いてしまいそうなほどに。


 その背中がとても小さく見えて、私は彼女を後ろから、そっと抱きしめた。

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