第2-55話 指輪をあげたい
それから、ものの数十分で辺りは落ち着きを取り戻した。屋台も再開。城の前では、ハニーナから分け与えられた樽一本分のボイスネクターを百倍に希釈したものを、無料で配布している。それを飲んだ人々は、一様に腰が砕け、満足してその場で眠った。何人か死んでいそうだ。
「それで、これがボイスネクターの原液ってわけ?」
「はい。薄めていないやつです」
「馬鹿なの? こんなの飲んだら死ぬわよ」
そこには、一口分のボイスネクターが、小さな器に三つ用意されていた。
「ハニーナの目を盗むのは大変で。三つしか用意できませんでした」
「あんたね……」
いけしゃあしゃあと、よくもそんなことが言えたものだ。確信犯のくせに。
「お姉ちゃん、飲んでいいわよ」
「んーん。わたしは十分幸せー」
まゆはマナの歌の余韻に浸っているらしかった。もうあれから一時間は経っているけれど。ちなみに、迷子の少年の親は、あの後、すぐに見つかった。
そして今、私たちは、れなの家にお邪魔していた。マナはあまりにも目立ちすぎる。なのに、なぜ城に帰らないのか。
それは、マナが屋台を見たいと言い出したからだ。
こんなに人が多い中、出歩かせるのはどうなのかと思ったが、あかりいわく、エトスに許可を取ったらしい。多分、置き手紙一つとかだろう。許可を取ったという言葉は、もう信じていない。
「えー、れなも飲みたいー」
「あたしのやつ飲む?」
「んーん。さすがに、まなちゃから取り上げるつもりはないけどぉー」
「けど……何?」
「まなちゃ以外の誰かがくれたりとか……」
「──乾杯」
私たちは杯を交わし、一口分の蜜を、一気に飲み干す。口内が旨味で満たされ、脳内麻薬が体内にドバドバ溶け出し、死にそうなくらいの幸福に包まれて、すべてがどうでもよくなってくる。
「ふにゃあー」
「……ボイスネクターって、お酒じゃあなーよねん?」
「はい。ただの蜜ですよ」
幸せすぎる。踊り出したい、何でもできる、歌いたい、何もしたくない、このまま眠りたい。
「まなちゃー、おいでー」
「んにゃ……?」
「あーもう、可愛いねー! よしよーし」
呼ばれた方に向かえば、誰かに頭を優しく撫でられる。全身、溶けそうなほどに心地がいい。
「あかりんも一瞬で寝てるけど、お姫ちゃんはへーきそーだね?」
「ああ、はい。私、味を感じないので」
「何それ、れな初耳なんだけど!?」
「以前、ドラゴンの血を飲んだときに、味覚が消えました。まあ、言ってないので、知らないのも仕方ないかと」
「そりゃそーだ!」
ふわっと、何かが背中にかけられる。暖かい。眠い。
「さすがシニャック、気が利くねー」
「二人とも、疲れてたんだろうね、きっと」
「だろうねー。でもでも、この様子じゃ、お姫ちゃん、屋台行けないかもよん?」
「まなさんの幸せそうな寝顔が見られれば、満足です」
「お姫ちゃんは、本当に欲がないねー」
「そんなことはありませんよ。このために、蜜を盗んできたんですから」
「手段を選ばない系だった!」
「私に効かないことは計算済み──」
「さすが──」
「──」
「──」
そうして、私の意識は深い眠りの底に沈んでいった。
***
屋台の賑わいはいまだ衰える様子を見せず、騒ぎは夜まで続いた。
「それにしても──くくっ、あの女王、やはり侮れんな。甘美なる歌声に、余でさえ、意識を奪われてしまった。そちも、そうは思わぬか?」
「は、はい。余もそう思います」
男に手を繋がれた少年が、そう返事をすると、男は不気味に顔を歪めた。
「そうかそうか──くくっ」
「あなた、ユタが怯えていますよ?」
少年と反対の手を繋ぐ女の言葉で、男は不可解そうな顔をする。
「怯える? 何に怯えると? 世界最強の魔法使いである、魔王カムザゲスがついているのだから、恐れることなど何もない。そうだろう?」
「は、はいっ!」
「はあ、まったくあなたという人は──こほっ、けほっけほっ!」
「ママ! 大丈夫!?」
少年がうずくまって咳き込む女の背中を、優しくさする。これだけの人混みだが、彼らの周りにだけは空間があり、まるで、避けられているかのようだ。立ち止まることができるという意味では、ありがたい話だが。
「ええ、ありがとう。もう落ち着いたわ」
「もう、帰る?」
少年の心配そうな、問いかけを受け、女は優しく頬笑み、少年の頭に生える角の間に手を差し込み、黒髪を優しく撫でる。
「次はどこに行きたい?」
「……! えっとね! んー、あ! カタヌキ!」
少年は目を輝かせて、女の顔を見上げる。女がそれに答えるより先に、男の方が笑みを漏らす。
「なかなか渋いな、くっくっくっ……」
「あなたのその笑い方──いえ、なんでもありません」
「なんだ? 申してみろ」
「──さあ、ユタ。カタヌキを探しましょうか」
「うん!」
「……はぐらかされたな」
男女の手をぐいぐい引っ張り、先に先にと進む少年に、女は苦笑し、男は先の言葉の続きを気にしてか、思案顔を浮かべる。
そんな彼らに向けられる周囲の視線は、冷ややかで、冷たいものだった。
***
「お祝いは、指輪がいいです」
マナがそう言った。私は一瞬、何のことだか思い出せずに、反応が遅れた。そして、エトスに伝言を頼んだことを思い出す。
「……あの人、本当に伝えたのね」
「指輪がいいです。結婚指輪がいいです」
「アイちゃん、色々すっ飛ばしちゃってるよ??」
「い、いくらのやつ、買えばいい……?」
「いや、本当に買おうとしなくていいからね!?」
「そうですね……。お気持ち次第ということで。最低でも、魔力が込められるものをお願いします」
「トンビアイスいくつ買えるかなー?」
「トンビアイスじゃ、単位にならないわよ……」
わたしは、思い浮かびもしない指輪の相場を、頭に思い浮かべる。そして、ひとまず、忘れることにした。あかりが本気で慌てていたのが、少しだけ面白かった。
「そういえばあんた、どうやってあたしを助けたの?」
王都の外に向かいながら、私はマナに尋ねる。マナはかなり目立っており、屋台に行かなくても色々なものをもらっていた。それにいちいち立ち止まって、丁寧にお辞儀を返すのだから、さすがだ。カタヌキ(魔力板)だけ、比較的人の少ない中央の屋台でやってみたが、あかりだけ失敗していた。景品は、昔の珍しい硬貨だった。一応使えるが、売る方が高くなるだろう。
「いつの話ですか?」
「爆発したとき。しかも、あたしの姿、見えてなかったでしょ?」
「あれですか。簡単なお話です。風同士をぶつけて、上昇気流を起こしたんですよ」
「なるほど、小さい竜巻ってわけね。──は? それって、すごく難しくない?」
「私に不可能はありません。まなさんのご要望とあらば、月にだって連れて行きます」
「あたしを殺す気……?」
魔法で生み出した風を利用して、空気の渦を発生させ、上昇気流を起こす。回る風は魔法だが、上昇気流は魔法の副作用なので、私を受け止めることもできる。なんとも、ややこしい話だが。
それにしても、相当の風圧でないと、人間なんて支えられないと思うのだが。
「わあ、頭良さそうな会話だなあ」
「わたしも、なーんにも分かんない!」
「理解する気もないでしょ……」
魔法そのものなのか、その副作用なのかは、判断がつきにくいところだ。例えば、木材を燃やすとき、最初に火をつけるのは魔法だが、そこから燃え広がれば、それは魔法ではないということになる。そうなると、私も魔法が効かないからといって、安全だとも言い切れなくなる。そういうわけで、一番怖いのは火だったりする。
「じゃあ、帰りは駅までマナに運んでもらうわ」
「……そういえば、行きはどうされたんですか?」
「鞄に掴まって、こういう感じで、あかりに──」
「なるほど」
すると、あかりの耳が倍くらいに引き伸ばされた。よく伸びる耳だ。
「いだだだだ! 痛い痛いちぎれる!」
「そんなことをしてまなさんに怪我でもあったら、どうされるおつもりですか?」
「いや、そうじゃないと王都までたどり着けなかったからさ……」
「言いたいことはそれだけですか?」
マナは氷の剣をあかりの喉元に突きつけ、顎を上げさせる。
「ま、待って! 往来のど真ん中で殺さないで! せめて、静かにひっそりと……」
「死に方を選べる立場だとお思いですか?」
「思ってます!」
夜明け前とはいえ、通りすがる国民たちの注目の的となっているにも関わらず、よくもまあ、これだけ自由に騒げるものだ。むしろ、尊敬する。
「はあ……置いてくわよ?」
「まなちゃん、助けてよ! 第一、一人じゃ駅まで行けないでしょ! どうせ魔法使えないんだしさ!」
私はあかりの髪に全体重をかける。首をへし折る勢いで。
「ギャー!」
「なんて無神経なんですか、死んでください」
本当にその通りだ。こっちがどれだけ気にしているかも知らないで。
「まーまー、その辺に──」
まゆが仲裁に入ろうとして、
「だって事実だし! 僕が、足遅いって言われるのと同じじゃん!」
見事に遮られていた。
「まなさんとあなたを同じ尺度で考えないでください。耳を切り落としますよ?」
「やめてあげ──」
「アイちゃんごめんって!」
二度も遮られたまゆが、頬をぷくっと膨らませる。
「──もう! いっつも、私ばっかり無視して! 知らない!」
「あかり、最低ね」
「あかりさんの評価には、底というものがありませんね」
「僕が悪かったです! はい! ごめんなさい!」
みんなであかりを責めながら、私たちは、わちゃわちゃと人目も気にせず歩いていく。そうして、門番に注意されるまで、自分たちがいかにうるさいか、気がつくことはなかった。
このときは、学校に行くために、始発の新幹線に乗ろうとしていた。つまり、まだ、早朝だった。
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