第2-31話 現実に夢を見たい

「なんとか脱出できたね」

「ええ。でも、ここも安全じゃないわ。早く離れ──」


 そうして、振り返ると、息のかかる距離に──真っ黒な顔があった。そこに穴が開いているかのように、顔が全く見えない。ただ、それが人であることと、こちらを見つめていることは、本能が理解した。


 私は思わず息を止めて、全身を硬直させる。血管が早鐘のように打つ。驚きだけでは説明のつかない、より強い感情が、血液を駆け巡る。しかし、それは、不安や恐怖では決してない。私自身、その正体が何であるかは分からなかった。強いて言うなら──高揚だろうか。敵ではないような気がする。


 私は一歩退いて、咳払いをした。少し離れると、それが、見覚えのある人だと気がついた。


「近いです。えっと、れなさん、でしたっけ?」

「うんそう!覚えててくれたの?れなの人生史上最大に嬉しいんだけど!ヤバイんだけど!激ヤバなんだけどー!」


 早口でまくし立て、迫ってくるれなから逃れようと、私は後ろに移動する。テンションが高すぎて、気後れしている感は否めない。


「あのー、れなさん? その、まなちゃんが押されてるからさ……」

「出たな恋敵!てか、あたしのお姫ちゃんをさらっていった上に、簡単に連れてかれるって、どゆこと?許されなくね?しかも、レックスに負けるとか、ウケる通り越して無なんだけど。何事?」

「いや、色々と込み入った事情が……」

「し、か、も!あたしの、大事な、大事な、まなちゃまで危険な目に合わせるとか、その上、牢屋の固い床で寝かせるとか。何事?まなちゃはあたしにとっては世界の命運よりも大事なわけ。まなちゃのためなら、世界をひっくり返してもいいわけ。まなちゃ愛してるアイラービュー!」


 抱きついてこようとするれなを、私は半身で避ける。このテンション、それから、まなちゃという呼び方。該当する人物は、私の記憶上、一人しかいない。


「あんた、あたしのストーカーね? 毎日毎日、紙切れをポストに投函してきて。ゴミはゴミ箱に捨てなさいって、習わなかったの?」

「ストーカーじゃないよ!?しかも、ゴミじゃないじゃん!れなの手紙じゃん!ラブレターじゃん!つまり、あたしのまなちゃへの愛じゃん!」

「重いわ」

「重い!?」

「あんたがあたしを知ってる、っていうのはよく分かったわ。でも、あたしは思い出してない。つまり、あたしにとって、あんたはただの他人なわけ。あたし、知らない人とは距離を置けって言われてるから」

「真面目!めっさ真面目!さすがまなちゃ!れなが世界一愛するまなちゃ!」


 私が下がるのに合わせて、れなは私に近づいてくる。距離が少しも離れない間に、私の背中は壁についた。


「はいはい、あたしに会えたのが嬉しいのね!」

「うんうん! 伝わったなら、あたしの人生、悔いはないわ!」

「安いわね……」


 少し話しただけで、体中から元気を吸いとられたような気がして、私はげんなりする。彼女はまゆの倍以上元気だ。あかりすら、このテンションにはついていけないようで、ソファに座って安全地帯からこちらを見ていた。薄情なやつだ。


「それで、えっと──」

「れなは見ての通り、まなちゃたちの味方だよ。投獄されたとしたら、きっとここから逃げてくるだろうって、予知してたわけ。だから先回りして驚かせようと思ったの。驚いた??ねえ、驚いた??」

「驚いた、驚いた、って、近い……!」

「おっとっと、ごめんごめん。いやー、まなちゃが好きすぎて、体がそっちに吸い寄せられちゃうっていうか?もはや、離れられない磁石で引き寄せあってるっていうか!?」

「とんだストーカーね……」

「だから、ストーカーじゃないって!」


 とはいえ、脱線さえなければ、話はわりと早く進みそうだ。


「とりあえず、れなについてきて。寝床を用意してあるから」


 それ以来、振り返らずに外に出たれなを見送り、私はあかりに小声で話しかける。


「……信じていいと思う?」

「れなさんは絶対にアイちゃんの味方だから、大丈夫。これはほんと」


 あかりを信じてろくな目に合ったことはないが、信じてはいるので、疑ったりはしない。裏切られたらそのときだ。


「そ。じゃあ、もう一つ。なんであたしが投獄されたこととか、マナのこととか知ってるわけ? またなんか、すごい人なの?」

「──まなちゃんって、本当に何も知らないんだね。さすがの僕でも感心するよ」


 あかりの珍しい呆れ顔を見て、私は少しくらい勉強しようかという気になってくる。しかし、覚えていて何の役に立つのか分からないものを、覚えておく気にはなれない。


「……そんなに有名なの?」

「大賢者レナ。──さすがに聞いたことはあるんじゃない?」


 大賢者という単語は、私の記憶にも引っ掛かった。童話でよく出てくる、行き詰まった主人公に助言を与える人物のことだ。そして、現実の大賢者が、これだ。


「──あたしは、今日から、現実に夢を見るのをやめるわ」

「……きっと、まなちゃんに会えて、めちゃくちゃ嬉しかったんだと思うよ。いつもはもうちょっと落ち着いてるって」


 こんな奴らが、勇者だったり、女王だったり、大賢者だったりするわけだ。だとすれば、美しく童話を書くのがどれほどの苦労か、想像もつかない。過去の歴史も、きっとこうして美化されたものがいくつもあるのだろう。


 そうして外に出ると、れなの姿はもう、かなり遠くに見えた。


「もうあんなところまで歩いてるわ。人を待つって発想がないのかしら……」

「見失わないうちに追いかけよう」


 そうして、私たちはれなを追いかけた。

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