第1-6話 地図を買いたい
結局、まゆが小一時間ほど寝ていたせいで、思ったように行動できなかったため、地図の購入を後回しにせざるを得なかった。
ともあれ、食事を終え、風呂に入り、支度をして、私たちはマナに教えられた場所へと向かっていた。
春の夜はすっかり熱を失っている。寒がりの私は、上着を羽織っていたが、それでも腕に鳥肌が立っていた。一方、まゆは半袖のワンピース一枚で平然としている。
「寒くないわけ……?」
「ぜーんぜん? 暑くもないし、寒くもないよ?」
そんなまゆに、私は呪うような、羨むような視線を向ける。しかし、まゆは、そんなこと露ほども、いや、露よりも気にしていない様子で、空色の瞳に紺青の星空を映していた。私も空を見ようと、足を止める。星を見るのは好きだ。
「遠くの星とか、広い空をじっと見てるとさ、色んなことがどうでもよくなってこない?」
「あたしたちがいかに小さい存在かってこと?」
「ううん。わたしにとってまなは、すごく大切で、大きな存在だよ」
「……ありがと」
「あれー、照れてるのー?」
「照れてない!」
いつもは私の様子なんて気にもしないくせに、変なときだけ勘が鋭い。執拗にからかってくるまゆの瞳から逃げるようにして顔を背け、私は先を急いだ。
──そうして、しばらく歩いて。
「あれ……」
「ん、どうしたの? もしかして、道、間違えちゃった?」
「……お姉ちゃんって、本当に嫌な人ね」
またしても図星だ。まゆを見ないことに専念するあまり、何も考えずに歩いてしまった。見慣れている道ならともかく、まだ来たばかりの道でこんなことになってしまっては、お手上げだ。後悔は大きいが、ここで立ち往生していてもどうにもならない。
「とりあえず、今来た道を戻りましょう」
完全に迷ってしまった以上、分かる道まで戻った方がいいというのが、私の経験則だ。何度となく同じことを繰り返してきて、こういったトラブルには慣れてしまった。不本意ではあるが。
「う……ひっくちゅん!」
「大丈夫? 本当に風邪引いちゃった?」
まゆの心配そうな瞳を受け、私は自分の額に手を当ててみる。
「自分じゃ何とも言えないけど……熱はなさそうだし、少し冷えただけじゃない? しゃっこいっ」
「ならいいんだけど」
そうして来た道を戻っていると、突然、まゆが立ち止まった。
「どうしたの?」
「あそこ──」
まゆが指差す先には、一本の木があった。この通りに並んでいる街路樹のうちの一本だ。他と比較しても、これといった特徴のない木だが、問題はその上のネコだ。ずいぶんと高い枝にいる。
「降りれなくなっちゃったのかな?」
「ネコは高いところから降りても平気って言うけど?」
「でも、よく見てよ」
観察してみると、前足を動かして、その場で降りられずに足踏みしているようにも見える。
「可哀想だねー?」
まゆの空色の瞳が、私の真っ赤な瞳を映す。私にはそれが、助けてやらないのかと、そう訴えているようにしか思えない。
「お姉ちゃんのそういうところがあたしは嫌い」
「えー、酷いなー?」
そう言いながら、まゆは楽しそうな笑みを浮かべる。絶対に、酷いなんて思っていないだろうに。
仕方なく、私は木の下から、ネコを見上げ、光る瞳に目を合わせる。
「言っておくけど、あたしは善意だけで動いたりしないわ。恩返し前提で助けてあげる。後は、ちょっと、木登りがしたい気分だっただけだから」
言葉が通じるはずのないネコにそう告げて、私は木の全体を見渡し、登る場所を決める。こう見えても、木登りは慣れている。ただ、見たところ、少しばかり枝が細いような気がするけれど。
「がんばれー、まなー!」
「まったく、他人事ね……」
突起に足をかけて登り、枝を渡っていき、ネコがいる枝までは問題なくたどり着けた。あとは、そのネコを拾って帰るだけだ。
少しずつ、枝の先の方に近寄って──と、体重で枝がガサッと大きく揺れる。
「ハーッ!」
それに驚いたのだろう。ネコは私に威嚇すると、腕をひっかいて枝から飛び降りた。自分で降りられて良かった──などと、言っている場合ではない。
それに驚いた私は、今、足だけでなんとか枝にぶら下がっている状態だった。
「ああ、あああああ、ああ……!」
言葉にならない叫びを上げる。足の方に空があり、頭の方が地面だった。とはいえ、いつまでもこうしているわけにもいかない。私はなんとか頑張って、枝に手を届かせる──と、柔らかい枝が、ぐにゃんとしなった。
「うわーっ!」
「まなー、大丈夫ー?」
「大丈夫に見えるなら、お姉ちゃんの目はガラスでできてるのね!」
「よく分かんないけど、大丈夫くないんだねー。可哀想に、あはは」
「笑ってる場合じゃないっ!」
まゆと話していても、無駄に体力を使うだけだと判断し、私は無言になる。なんとか、近くの枝を使って下に降りようと動くと、枝からミシミシと音が鳴った。
「──折れないでよ?」
「マナ、誰と話してるのー?」
ふざけた様子のまゆに、何か言おうと地面の方を見──、この場所の高さに気がついた。私はしばし硬直する。落ちたら──いや、想像したくもない。私は地面から目を背け、空を見上げる。
「冗談いいから! 誰か助けてー!」
近隣に助けを求めてみるが、こんな夜更けだ。みんな寝ている頃だろう。こんな夜中にわざわざ地図を買うためだけにコンビニに向かっている私たちがおかしいのだ。
しかし、そんなとき、偶然にも、話し声が聞こえてきた。下を見る勇気がなかった私は、空に向かって叫ぶ。
「そこの人! 助けて!」
緊急事態だと気がついたのか、走ってくる足音が聞こえる。
「大丈夫ですか?」
声に釣られて下を見ると、街灯に照らされて、その姿がくっきりと浮かんでいた。そこには、琥珀髪と桃髪の──、
「やあ、まなちゃん。新しい遊び?」
「今から丸焼きですね」
まさかの、見覚えがありすぎる二人だった。──あかりとマナだ。
正直、知り合いにこんなところを見られるなんて、恥でしかないが、背に腹は変えられない。たまたま通りがかったのが彼らだったのだから。
「降りれなくなったの! なんとかして!」
それを聞くと、二人は木の上の私と地上にいるネコとを見比べる。
「なんでそんなことになったの?」
「ネコが降りられなくなってて、助けようとしたらひっかかれて──って、いいから、先に助けてってば!」
「ああ、なんと、おいたわしい……。強く生きてくださいね」
「見捨てないでくれるっ!?」
呑気に尋ねてくるあかりと、からかってくるマナ。なぜよりにもよって二人なのか。とはいえ、言葉通り立ち去る気は、おそらくないだろう。だか、ふざけ合っている体力と心の余裕はない。
「お願いだから、早く、ここから降ろして……」
「ふーん、まあ、助けるからには、当然、何かしてくれるんだよね?」
「……あんた、もしかして、さっきの聞いてた?」
「ん? 何の話?」
あかりは白々しく見えるような、本当に知らないようにも見えるような様子で、頭に疑問符を浮かべた。確かに、ネコに向かって見返りを求めると言ったのは私だ。同じ目に合って、同じことを要求されても文句は言えない。
そういえば、まゆはと、高さを無視して下を見ると、完全に飽きたらしく、先ほどのネコを追いかけて遊んでいた。相変わらず、心がない。
「私にも、何かしてくださいますか?」
「助けてくれたらね──あっ」
瞬間、手足の力が抜け、重力に引っ張られる。上も下も分からないような状態に、私は咄嗟に目をつぶる。──しかし、その落下が、痛みもなく突然、止まり、直後、背中に感触を得た。私は恐る恐る目を開ける。眼前には、黄色の瞳があった。
「お怪我はありませんか?」
少しずつ、噛み砕くようにして、状況を理解した。手足の力が抜け、木から落ちた私を、マナが何らかの方法で落下から守り、腕で受け止めた、といったところか。
「……心に深い傷を負ったわ」
「元気そうで何よりです。それでは、約束通り、手伝ってくださいね」
その笑顔に、私は何か、とんでもない約束をしてしまったのではないかと、後から気づいた。もう遅いけれど。
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