第2-2話 監視したい
扉を開けると、床に桃色の毛玉が転がっていた。私はその場に硬直する。
「あ、マナちゃんだ。おはよー!」
「おはよう、ございます」
「怖いんだけど……!」
全身に鳥肌を立たせる私に、マナはのっそり立ち上がって、もたれかかる。
「ちょっ、重い……っ!」
「どこかに、お出かけ、ですか?」
「ええ、ボールペンのインクが切れたからっ……うわあっ!?」
私はマナを支えきれずに、床に倒れる。ごーんという鐘のような音が聞こえて見ると、マナが床に額をぶつけていた。その上、私の頭はマナの手でガードされている。
「痛い、です、ガクッ」
「マナー!!」
私は急いで隣の部屋のドアをノックする。
「あかり、開けなさい! マナが!」
すぐに扉が開いて、中からあかりが出てくる。全身猫のような寝間着を着ていた。耳までついている。
「可愛いわね……じゃなくて。とりあえず、来て!」
私は咄嗟にあかりの手を掴んで引っ張ろうとしたが、その手は宙を切った。私を追い越して、あかりは開け放されている私の部屋へと向かう。続いて私も部屋に戻る。
「うわー、痛そー」
むき出しの赤くなった額を、まゆは指でつついていた。あかりが仰向けにしたのだろう。あかりはすぐに、額と手の甲に手をかざし、魔法で治療する。
「アイちゃん、大丈夫?」
「ま、な、さん」
「……なんでこんな空気になってるわけ?」
そんなに深刻な怪我でもないだろう。魔法ですぐに治るだろうし。しかし、マナはもうすぐ死ぬかのような言い方をしていた。相当打ち所が悪かったのだろうか。
「いか……」
「イカ?」
それきり、マナは何も言わなくなった。私は肩を強めに叩くが、返事がない。
「マナ、どうしたの? マナ?」
「これは……寝てる、みたいだねえ」
「え、寝てるの? 嘘でしょ?」
「アイちゃん、朝、弱いんだよね。休日のこの時間に起きてるの、めちゃくちゃレアだよ」
「この時間って、もう十時だけど……?」
「いつもなら、三時くらいまでは寝てるね」
あかりはマナの体を起こして、腕に抱える。軽々と持ち上げたので、少し驚いた。
「まなちゃん、どっか行くの?」
「ええ。ちょっとそこまで」
「そっか──」
あかりは私とマナの顔を見比べると、少し悩むような素振りを見せる。私はそれに構わず、まゆの手を引いてその場を去った。
***
マナを僕の部屋のベッドに寝かせ、僕は窓からまなちゃんが出ていくのを、ただ、眺めていた。
「それで、マナ。気絶したふりなんて、どういうつもり?」
「──」
「あれ、マナ? え、ほんとに寝てるの?」
なんと、マナは本当に寝息を立てていた。これは、予想外だ。
「マナ? マナー、起きてー。まなちゃん、出ていっちゃったけど、良かったの?」
赤い瞳の少女の名前を出すと、マナはぱっちり目を開ける。
「……起きました」
マナはベッドから降りて、うんと伸びをし、手で口元を隠しながらあくびをした。
「意外と痛かったです」
「だろうね! すごい音だったもん!」
まなちゃんが呼びに来るより先に、音でなんとなく、察していた。ここの壁は薄い。
「……追いかけなくて、良かったんですか?」
まなちゃんの姿は、もう見えない。それが分かると、僕は窓の外を眺めるのをやめる。
「追いかけないって、分かってたでしょ?」
「しかし、あなたは、まなさんを監視していますよね?」
僕は言葉につまった。気づかれないようにしているつもりだったからだ。
実際には、そうするように命令されているのだ。これは、そういう契約であり、破らない限り、僕の願いは、叶う可能性が保証される。だからこそ、木から落ちそうになったところをタイミング良く助けられた。ネコに話しかけているところもバッチリ見ていた。
「ラー」
「ああ、シーラ。おいでー」
「ラーガブ」
「痛いっ」
飼いネコのシーラに手を噛まれた。厳密に言えば、シーラはネコではなくノラニャーであり、つまりモンスターだ。
まなちゃんに助けられそうになったのも、地図を盗んだのもこいつだが、それ以前から、僕の飼いネコだった。彼女の巣はこの部屋であり、倒しても戻ってくる。もともと、あの群れには属していなかったのだ。
「シーラさん、今日もお美しいですね」
マナに撫でられると、シーラはお腹を見せて、もっと撫でろと要求していた。どっちも可愛い。
ともかく、まなちゃんは、お人好しで首を突っ込むから、何かと巻き込まれやすそうだ。まあ、首を突っ込むような事件を作ったのは僕なのだが。
「……監視してたのは事実だけどさ」
これだけ長考して、やっと絞り出せた言葉が、その一言だった。いつものように軽口でかわせばいいものを、どういうわけか、上手い言い訳が思いつかなかった。
「すみません」
「え、なんで謝るの? 僕が勝手にそうしただけだし、気にしないでよ」
「気にしますよ。あなたはどこまでいっても、愚かですから」
「酷い言いよう……」
「あら、愚かの意味を知っていましたか」
「そりゃあ、あれだけ何回も言われればね!」
難しい言葉でも、何度も聞いていれば調べもする。さすがの僕も、それは調べた。
それはともかく、彼女は僕が言葉にできなかったことを、知っているのだ。僕が監視対象から目を離した理由を。
だからこそ、彼女は謝ったのだろう。むしろ、こちらが謝りたい気持ちになる。
「僕こそごめん、気を使わせて」
「いつものことです」
いつも迷惑をかけてばかりだ。反省はしているが、なかなか僕も学ばないらしい。
「それで、これからどうするの?」
「……どうしましょうね」
「まさかのノープラン!?」
なかなかに良くない状況だ。まさかノープランとも思うまい。マナが何も考えていないはずがないと、僕は過信していたのだ。つまり、本当に、睡魔に負けてしまったということなのだろう。
「おそらく、まなさんはアルタカに行ったと思われます」
「ああ、近場のショッピングモールね。でも、なんで?」
「ボールペンのインクが切れたと仰っていました」
「確かに、文房具屋を探すよりよっぽど簡単か」
それだけでも情報としては十分だ。魔法が使えないまなちゃんを魔力探知で探すことはできないが、行き先さえ分かっていれば、なんとかなるだろう。多分。
「でも、せいぜい、三十分で帰ってくるでしょ」
「徒歩で十分ですからね」
それきり、マナは静かになった。僕に見せる表情は、あの日から一貫して変わらないが、今だけは、なんとなく、落ち込んでいるように見える。
「紅茶でも飲む?」
「お菓子も食べます」
「いや、三十分じゃ無理だって」
「お菓子と紅茶」
彼女が譲らない性格なのは知っているので、僕はお湯を沸騰させながら、クッキーを焼くことにした。
それから、一時間後。
「いや、まなちゃん、全然帰ってこないんだけど?」
「帰ってきませんね」
「だってさ、あのまなちゃんだよ? 絶対に寄り道とかしないじゃん。どう考えてもおかしいよね?」
「もう少し、待ってみましょう。すぐに帰ってくるかもしれませんし」
「まあ、マナがそう言うなら……」
そして、さらに一時間後。
「絶対におかしいって!」
「でも、行き先はショッピングモールですよ?」
「だとしても、あのまなちゃんが、二時間近くも時間潰せるわけないって!」
「それに関しては、私も同感ですが」
まなちゃんは、遊びと無駄を省いたような女子高生だ。そこに何が残るのか、果たして、一体、何が楽しいのか、僕としては疑問でしかないが。本人は至って平気そうだ。
「探しに行こう、マナ」
すると、マナは少し、考えるような素振りを見せて、
「私が見てきます。入れ違いになるかもしれませんし」
彼女が譲らない性格なのは知っているが、それにしても、今回は違和感がある。
「マナさ、僕を行かせないようにしてない?」
「そんなことありませんよ」
「そのくらい分かるって。何か知ってるんだよね?」
「知りません」
「マナ──」
「行かないでください」
立ち上がって行こうとする僕の袖を、彼女は掴む。知っていること自体を隠す気はなく、ただ、何を知っているかは隠し通す決心をした目だった。
「それは、君の立場が関わってるとか?」
「そうです」
冷えきった瞳から、彼女が感情を悟らせないことのみに集中しているのが分かった。だから僕に、その言葉の真偽を確かめることはできなかった。
「私が見てきます。だから、あかりさんは、ついて来ないでください。私からのお願い、聞いてくれますよね?」
それはお願いではなく、命令に近いものだった。他の誰でもなく、彼女にそう言われてしまっては、僕はそれを無視するわけにもいかない。
「……なぜ、そんなに心配そうな顔をするんですか?」
「気のせいじゃない? マナにそう見えてるだけだよ」
「そう、ですか。分かりました。はい。もし、私が出てから十分、連絡がなかったら、この紙を見てください」
ただ、分かったと返事をして黙って送り出すこともできたが、僕は、どうにかして、彼女を引き留めたかったのかもしれない。
「……あーあ。結局、僕って、いつもマナの言いなりだよね」
「それはこちらの台詞です」
「どこが!」
それだけ聞くと、マナはいつもと変わらない表情で、自分の部屋から出ていった。
それから十分が経っても、彼女から連絡はなかった。
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