第2節 女王即位と蜂歌祭

第2-1話 出かけたい

 夢を見ていた。草原を駆け回る、桃髪の少女。長い髪を揺らして、楽しそうに笑っていた。


 一年前の記憶の夢だということは、すぐに分かった。


「ちょっと、待ってって!」

「嫌です」

「速いんだって──うわあっ!」


 何もない草原で、足がもつれて転んだ。短い草が優しく受け止めてくれたので、怪我はないと思う。我ながら、カッコ悪いとは思うが。


「大丈夫ですか?」


 戻ってきた少女の手を掴み、僕は立ち上がって、膝の砂を払う。


「うん、ありがと。でもさ、僕が走るの遅いって知ってるよね?」

「知っています。毎日毎日、遊んでいるのか、と、怒られていますからね」

「え、見てたの!?」

「隣で訓練していますから。嫌でも目に入ります」


 それは知っている。問題は、彼女が僕を見ていたのかどうかの一点だ。まあ、口ぶりから察するに、たまたま視界に入っただけのようだが。


「どうしたら速くなるかなあ……」

「一年間、毎日走って、訓練もつけてもらって、やっとその速度ですからね。才能がないとしか、言いようがないです」

「むしろ、才能がない天才じゃない?」

「無能であることは誇れませんよ」

「無能って、めっちゃ刺さるー……」


 これで速くならない人はいない、と言われている訓練を一年ほど受けて、やっと、十八秒台から十五秒台までは速くなった。もちろん、距離は五十メートル。


「とはいえ、確実に進歩はしていると思いますよ。これ以上速くなるかどうかは分かりませんが」

「だよねえ。やっぱ、速くならないかなあ……」


 僕は女子のように細い足をぶらぶらと揺らす。


「別に、足が速くなくても、あなたは空を飛べるじゃないですか。それに、魔法を使えば、この草原の端から端まで、一瞬で移動することも可能でしょう?」

「そうなんだけどさ。魔法に頼ってばかりじゃいけない、って思うんだよね」


 自分の足で走りたい、というのは、ただのわがままだ。もちろん、速くなりたい理由はある。


「それに! もう三秒も速くなってるんだよ? もう三秒くらい速くなってもおかしくなくない?」

「十八秒から十五秒と十二秒の間には大きな差があると思いますが」

「じゃあ、十三秒!」


 絶対速くなってみせる。動機は単純だ。ズバリ、足が速い方がカッコいいから。魔法で速く動けるとしても、それとこれとは別だ。


「いつか、マナを追い越せるくらいには……」

「私は六秒で走れる上、伸び代がありますが、本気ですか?」

「それ、もはや人間じゃなくない!?」

「あなたの遅さの方が、人類として失格だと思いますけどね」

「人間じゃないとか言ってごめんなさい。ほんと傷つくからやめて……?」


 マナの言葉は棘がむき出しになっていて、よく刺さる。それも、鋭く長く、抜けにくい棘だ。かなりショックを受け、草原でしゃがんでいると、マナはこんなことを言った。


「人には向き不向き以上に、できるできないというものがあります。諦めなければなんでもできる、なんて嘘です。よほど恵まれた、私のような人間でない限り」

「いや、諦めなければ、いつか必ず──」

「夢を見るのは自由ですが、寝てばかりいるのは、あまりにも愚かですよ」

「……愚かって、何?」


 僕がそう尋ねると、マナはため息をついて、その場に腰かけた。走るのは止めたらしい。


「私にも、できないことくらいありますよ」

「え? なんでもできそうだけどなあ……。あ、そういえば、料理は苦手だったよね?」

「やったことがないだけです。苦手かどうか判断するには、経験が少なすぎます」

「んー、じゃあ……何? 全然分かんないけど?」

「分からなくてもいいです」

「いや、僕が気になるんだって。んー、それってさ、割と皆、苦手だったりしない?」

「少なくとも、あかりさんは得意だと思いますよ」

「ええ? そんなのあったっけ……?」


 マナといえば、なんでも器用にこなすイメージがある。足の速さもそうだが、運動全般が得意で、頭もよく回れば、楽器もたいてい弾ける。付け加えると、めちゃくちゃ可愛い。僕よりも少し背が高いところさえ除けば、完璧だ。


「まあ、せいぜい考えてみればいいと思いますよ」


 マナは立ち上がって服についた土を払うと、再び走り始めた。


「ちょっ!? だから、速いんだって!」


 ──そんな、懐かしい記憶の夢だった。


 夢から離れるようにして、僕は目を覚ます。今日は珍しく、すっきり起きられた。


「できないこと、か」


 本当に、彼女はなんでもこなしてしまう。足も速いし、魔法もできるし、普段はそんなに食べないくせに、大食いとなれば容赦なく食べる。そして、一年経った今でも、やっぱり、僕より少し、背が高い。


 ずいぶん、世界に愛されている。


「……いや、そうでもないか」

「おはようございます。朝ですよ。起きてください──」


 そう、マナの声が録音された目覚まし時計が鳴った。朝から、天使に優しく起こされているような、幸せな気持ちになる。


 繰り返される目覚ましを止まるまで聞き終えて、僕はベッドから降りた。


***


 ──今日は、かなーり災難な日だよ。何があっても、外出は控えるように! 絶対の絶対だよ? 約束だよ? まなちゃ、愛してるハアト


 今日は休日だった。だから、朝から勉強していた。


「ねえ知ってる? 休みの日は休むためにあるんだよ?」

「知ってるわ。だから、自分の好きな勉強をしてるんでしょ」

「好きでも勉強じゃんかー。つまんないつまんないつーまーんーなーいー!」

「あたしは暇じゃないの。分かったらお姉ちゃんは寝てれば?」

「起きちゃったから寝れないもん。ねえまなー、遊んでよー」

「面倒ね……」


 いつもだいたいこんな感じだが、今日はやけに食い下がる。そんな日もあると言ってしまえばそれまでなのだが。まゆの気分などいちいち気にしていられるか、という感じだ。


「遊んで遊んで遊んでー!」

「あたしが予定崩れるの嫌いだって知ってるでしょ?」

「そんなの知らないもん遊んでよー!」

「あーもー、鬱陶しい! お姉ちゃんって、なんでそんなんなの?」

「まなだって、わたしがこんなにお願いしてるんだから、聞いてくれたっていいじゃん!」

「絶対に、嫌」

「むうううう……!!」


 頬を膨らませるまゆを視界から外し、私は勉強に没頭する。怒ってますアピールをしてくるが、知ったことではない。何か用事があれば、出かけてもいいのだが、今は特にないし。


 そのとき、図ったように、ボールペンのインクが切れた。私は替え芯を探し、今使っていたのが最後の一本であったことを思い出す。


「……はあ、仕方ないわね」

「出かけるの!?」

「ええ。三十分くらいだけど」

「やったー! 早く、早く!」

「子どもか」


 はしゃぐまゆに目を細め、私は冷蔵庫の中身など、何か他にいるものがなかったか確認し、ボールペンのインクを買うためだけの旅に出ることにする。


 部屋から出る前に箱から指輪を取り出し、親指にはめた。この部屋のセキュリティは信用できない。


 ──よく当たる紙切れのことは、いつも通り無視した。

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