第1-3話 早く帰りたい

「待ってください」

「うっ……」


 先ほど同様、桃髪の少女が、私の腕を掴んだ。ホームルームが終わり、廊下はざわついているし、窓から見下ろした校庭には人の姿がある。加えて、すでに何人かの生徒は教室を出ていった後だ。今度はよく確認したため、間違いなく、帰宅していい状況である。


「今度は何? あたし、暇じゃないんだけど」


 明日でいいなら、明日にしてほしい。今日は色々と予定がつまっている。どうしても今日と言うのなら、考えなくもないけれど。


「急に話しかけてしまって、申し訳ありません」


 少女はわざわざ起立して、丁寧に頭を下げる。私の背が極端に低いのもあるが、それを抜きにしても、彼女は平均より背が高い方に見える。


 それから、彼女は深呼吸をすると、黄色の瞳で私の目を真っ直ぐ見下ろし、


「改めまして、私はマナ・クラン・ゴールスファと申します」


 そう名乗った。続く言葉は、私の名前を尋ねるものだと判断し、


「あたしはマナ・クレイア。こっちは、まゆみ。それじゃ、さよなら」


 そう名乗り、素早くその場から離れようとする。


 自己紹介は先ほど全体で済ませたはずだが、クラスには三十人ほどの生徒がいるため、覚えきれていないのも仕方がない。とはいえ、名前が同じなので、少なくとも、私は彼女を覚えていたけれど。


 そのマナが無言で見つめると、視線の先にいるまゆは、ニコニコと楽しそうに微笑んだ。ともかく、大した用でなくて良かった──、


「うぐっ」

「少し、お時間よろしいですか?」


 私に視線を戻したマナがそう尋ね、三度、私の腕を掴む。どうやら、用事は別にあるらしい。


「少しってどのくらい? 何分?」


 できる限り相手をしてあげたいとは思うけれど、なにせ、時間がない。私は急いでいるのだ。


「ご返答次第では、一分も取らせません。──この後、何かご予定がおありですか?」

「あるけれど」

「どんなご予定かお伺いしてもよろしいですか?」


 ついさっき知り合ったばかりの相手に、なぜそんなことを聞かれなければならないのだろうか。怪しいけれど、まあいい。そんなことより、早く帰りたい。


「とりあえず、買い出しね。引っ越してきたばかりだから」

「そうですか。お店の場所は分かりますか?」

「……言われてみれば」

「もちろん、わたしも知らないよ!」


 恥じる気配を見せないまゆの態度と、自分の想像力の低さに、私はため息をつく。一ヶ月前、住む場所を見に来ただけなので、この辺りの地理には疎い。まさか、そんなことにも気づかないとは。


「お気づきにならなかったんですか?」

「今、ちゃんと気づいたけど? それに、あと数分もしたら、どのみち、気がついてたけど? なんか文句ある?」


 内心では反省しているのだが、人から指摘されると、なぜか認めたくない。そして、


「いや、気づくの遅くない?」


 そう指摘してきたのは、マナの隣で頬杖をついている、制服のスカートがよく似合う少年だ。


 腰に達するほど長く、頭の高い位置で一つにまとめられた琥珀色の髪は、窓から射し込む陽光に照らされて宝石のように輝いている。切れ長の瞳は、漆のように真っ黒で、私は吸い込まれそうな不気味さを覚えた。


 とはいえ、今は、指摘されたことへの苛立ちしか感じない。一番嫌なタイミングで一番嫌なことを言われた。まあ、事実なのだけれど。


「僕も名前言ったほうがいい?」

「尋ねる暇があったら、名乗った方が早いと思うけど? でも、その必要はないわ。榎下朱里でしょ」


 他人の自己紹介など、ほとんど覚えていないが、彼と私の後ろの少女と、まゆの名前だけは覚えている。変わった名前と同じ名前、それから馴染みのある名前だ。担任の名前は、忘れてしまった。


「その通り。僕が榎下朱里だよ。ちゃんと覚えておいてね?」


 あかりは笑顔でそう微笑みかけてきた。そんなに嬉しいのだろうか。こちらもマナとは異なる理由で、感情を読み取ることは難しい。


「こんな変な名前、よっぽど忘れないわ」

「本当に、変な名前だよねー」

「え? ……いや、変な名前ってすごく失礼じゃない?」

「どこで区切るの? えの、したあかり? エノシタア・カリ?」

「えのした、あかり! 名字、名前ね!」

「ふーん。ま、興味ないけど」

「酷っ!?」


 元気がいいのは結構だが、いつ終わるのだろうと、教室にかけられている時計を確認し、マナに問いかける。


「もういい? あたし、忙しいんだけど」

「分かりました。近くのスーパーまでご案内します」

「え、本当に? すごく助かるけれど、さすがにそこまでは……」


 非常にありがたい申し出だが、頼ってしまうのも申し訳ない。彼女が忙しいとは到底思えないが、完全に暇ということもないだろう。


「いえ……むしろ、ご案内させてください。まな様」


 ピカピカと星のように光る黄色の瞳に、私は気圧され、思わず頷いた。


「え、ええ。……でも、様はやめてくれる?」

「はい、まなさん」

「ねえねえ、僕、まなちゃんって、呼んでいい?」

「勝手にしなさい。あたしもマナとあかりって呼ぶから。行くわよ」

「はーい」


 名前の呼び方は、私にとって、非常に重要なものだ。だから、このときのことは、思い返すと、少し不思議に思う。


 とはいえ、このときの私はそれを大して気に留めることもなく、まゆの小さな手を取り、二人と共に買い出しに向かった。

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