第5話
「仕方がないね、来週、定期券を買ってあげるから通学証明書を貰っておいで」
土曜日、お昼過ぎに帰ってきた僕に向かって母はそう言い、僕はこくんと頷いた。学校にも警察にも届けたのだけど、定期券は百円玉と同じように時空のポケットに吸い込まれたのだろうか、どこからも出てこなかった。
昼ごはんは冷麦だった。まだその頃は土曜日も半ドンと言って仕事があったので父は会社に行っていたのだと思う。
母のつけ汁には刻んだ茗荷が入っていて、僕のには何も入っていなかった。茗荷なんて辛くて変な味のものを僕はいつか好きになることがあるのだろうか、そう思いながら僕はちらちらと茗荷入りの冷麦を美味しそうに啜る母の姿を眺めた。
冷やしたガラスの器に浮いた一本のピンクの麺を慎重によけながら、僕も冷麦をつるつると音を立てて食べた。一束に一本しか入っていないピンクや緑の色つきの麺は最後に食べるべき貴重なもので、母はいつもそれを僕の器に入れてくれるのだった。
「西尾さん、いらっしゃいますか?」
玄関の外で塩辛い声で誰かが呼んでいる声がした。僕と母は箸を止めると眼を見合わせた。
「誰だろうね」
不審げに立ち上がった母は、首を捻った。昼時に訪れる男の人なんて滅多にいなかったのだ。
「西尾さん、いらっしゃいますか」
という呼び声は二回目に少し大きくなった。
「はいはい、ちょっと待ってくださいね」
負けないくらい大きな声で答えながら母は玄関に小走りに走って行った。僕は最後に残ったピンクの一本の麺を慎重に箸で挟んで汁に付けて啜った。一本だけの冷麦はちっとも噛みごたえがなく、ぼんやりとした味がした。
しばらくひそひそと話す声が聞こえた。やがて玄関の戸ががたっと閉まる音がした。部屋に戻ってきた母は奇妙な表情を浮かべていた。
「どうしたの」
僕が尋ねると、母は表情を崩さないまま手元に持っているものを見つめた。汚れた封筒には見慣れない、でもきちんとした字で「西尾様」という宛名が書かれていた。母はその封筒を静かに横にすると、何かが滑り出てきた。あっと、僕は思わず声を上げた。それは僕が無くした安物の定期券入れだった。
「駅の向こうにいたお貰いさんがね、亡くなったんだって」
「え?」
定期券が見つかって少し弾んでいた僕の心は冷水を浴びせ掛けられたように萎んだ。その上、定期券が見つかった事とお貰いさんの死が僕の頭の中では結びつかなかった。
僕の驚きようが普通でなかったのに、母は気づいたようだった。どうしたの、とでも言うように僕の眼を見詰めて、母は話してごらんと微かに頷いた。
「あの日、定期券を無くした日、歩いて帰る途中でお貰いさんに会ったんだ」
何か悪いことをしたのを見つかったような気分がして、僕は下を向いてそう言った。
「そう」
母は頷いて僕を促した。
「お貰いさん、僕を見ていたんだ」
「そうなのかい」
そう言いながら、母は定期入れをじっと眺めていた。
「この定期券お貰いさんが、持っていたそうだよ。袋に入れてポケットの中に入っていたんだって」
僕も母が持っている定期入れを見詰めた。まだ僕は事態を理解できていなかった。
「その時、お前に渡そうとしていたのかもしれないね」
母の言葉で突然、すべてがかちりと音がしてつながった。あの時、お貰いさんは・・・。
「え、だってお貰いさんが僕の定期だって分かる筈がないよ」
それでも僕は抗った。
「だって、お前の名前が書いてあるじゃないか」
と母は答えた。確かに定期の片隅に僕が書いた掠れた字で
「西尾 諒」
と自分の名前が入っている。
「え、だって」
お貰いさんが僕の名前を知っているはずがない、そう思い込んでいた。いや、思いたかった。
「お貰いさん、私の名前を知っているんだよ。ときどき余った小銭をお貰いさんの前の茶碗に入れると、西尾の奥さん、有難うございます、と言ったからね。誰に聞いたんだろうかね」
「そうなの?」
知らなかった。お貰いさんは僕の事を知っていたかもしれないけど、僕はお貰いさんの事を知りたくもなかったし、知ろうとも思っていなかった。
「お前と一緒に歩いているところだって、しょっちゅう見ているだろうから」
僕は黙った。それからおずおずと反論した。
「でも、僕、定期を落としたのは学校の近くだよ。お貰いさんはあんなところまでいかないよ」
母は静かに言葉を返した。
「お前、知らなかったのかい?お貰いさんはいつもあそこに座ってばかりいるわけじゃないよ。内野の駅の近くでも、小針の駅の近くでも見かけたよ。きっとあの日のお前と同じように歩いているんだよ」
僕は混乱していた。あの時、僕が恐怖に身を硬くしていたあの時に、お貰いさんは本当は親切に定期券を返してくれようとしていたのだろうか。
人生の定期券を失ってしまったお貰いさんが、僕の定期券を拾ってあの長い道を僕を追ってとぼとぼと歩いていた様子が脳裏に浮かんで、消えた。
「お貰いさんはどうして死んじゃったの」
そう尋ねると、母は小さくため息をついた。
「交通事故だったそうだよ。ライトをつけずに走って来た車を避けきれなかったらしいよ。ひどい話だよね」
母は静かに言った。
「猫の子を轢いたのとおんなじだよ。お貰いさんには身寄りがないからね、賠償もしなくて済むんだ」
「その轢いた人、罪にならないの?」
僕がそう聞くと、母は少し微笑んだ。
「そうだね。それはやっぱり捕まるんだろうね。それにいつまでもあんな可哀想な人を撥ねて殺してしまったことを後悔するんだろうね」
うん、と僕は頷いた。
「神様はきっと見ていらっしゃるだろうからね」
母は、そう言って僕の額を撫でてから、大切にするんだよ。もう無くさないようにね、と言って定期券を僕に手渡した。僕は黙ってそれを受け取った。なんだか、自分のものではないような重さがした。
その晩、会社の人と飲みに行くから遅くなると電話のあった父のいないまま、僕らは夕食を食べ始めた。天井の四隅に薄暗い影を作る白熱電球の下で母と僕は黙って夕食の鮭の切り身を箸でほぐして食べていた。母を僕は時おり盗み見た。静かに黙ったまま母はお味噌汁を口に運んだ。
母も父の転勤に伴って東京からこの街にやって来たのだ。社宅では同じような境遇の人もいたとはいえ、やはり地元の人と違って色々と近所づきあいに苦労があったのかもしれない。そんな中で自然と、同じ街に住みついたお貰いさんにも共感する気持ちが湧いたのだろうか。
「お貰いさん、どうなるの?親戚の人がいなかったら誰がお葬式を出すの?」
沈黙に耐え切れなくなってそう僕が尋ねると、母は静かに目を上げた。
「さあ、どうだろうね。お葬式は町の方でやるって言っていたけど」
「かわいそうだね」
家族に看取られることもないお貰いさんの葬式を思い浮かべるとなんだか悲しくなってきた。そんな風に最期を迎える人がいるんだ。そう思った途端、僕の目尻から涙が一つ零れた。母はそんな僕をじっと見つめていたが、黙ったまま席を立った。僕はしばらくの間、箸を動かさずにお貰いさんのことを考えていた。
母はしばらく戻ってこなかった。やがて、薬缶のしゅんしゅんとなる音が聞こえて、母はお盆に茶碗を二つ載せて戻ってきた。
「ちゃんとお食べ」
僕の目の前に湯気を立てている茶碗を母はそっと置いた。
「お前が気にすることじゃないよ。お貰いさんだって亡くなってしまえば、そんなことは気になんかしないさ。それにあの人はもうこれからこの世の中で生きていても幸せになれなかっただろうからね。いいことをして、ちゃんと天国に行って、次は幸せに生まれ変わるだろうよ」
僕には母が本心からそう言っているのか良く分からなかった。でも母が僕を気遣ってくれたのは分かった。もう一度のろのろと食べ始め、冷めかけたお椀の底に残ったご飯をお味噌汁と一緒に無理やり呑みこんだ。母は僕のそんな様子を見て穏やかにほほ笑んだ。僕は母の持ってきた沸かしたばかりのほうじ茶の入った茶碗にそっと触ったけれど、それはまだ僕の幼い手には熱すぎた。
翌々日の月曜の朝、玄関で僕が学校に行こうと仕度をしていると母に突然呼びとめられた。
「おまえ、今日は学校を休みなさい」
「なぜ?」
「今日はお貰いさんのお葬式なんだよ。役場に聞いたから」
「でも」
僕は躊躇った。どうして朝になってから母がそんなことを言いだしたのかと、不思議に思った。昨日のうちに言ってくれればよいのに。だって・・・。今日は牧山と一緒に帰る約束をしているのだ。
僕と一緒の駅から電車に乗る牧山は僕が定期じゃなくて切符を買っているのを見て僕が定期券を失くしたことに気付いた。僕は彼女に駅と駅の間を歩いたことを話した。赤いバンダナのおじさんが乗ったトラクターの事や、お貰いさんに会ったときの恐怖を。そうしたら牧山は一緒に歩いて帰ってみたいと言い出したのだ。きっと何か冒険のように思えたんだろう。僕はちょっと困った。もしまた牧山のお父さんに出会うようなことがあったらどうしよう。
だから、牧山には学校が終わってすぐ帰るんならいいよ、と答えた。牧山は、そうしよう、ってちょっと嬉しそうにした。その嬉しそうな顔を裏切るのは残念だった。
「お貰いさんが一人で行ってしまうのも可哀想なんだろう。学校には風邪で休むと電話をしておくさ」
僕は少し考えてから頷いた。最後にお貰いさんが声を掛けたのが自分かもしれない、そう思った。その声を僕が逃げるようにして振り切った。その罪悪感がしこりのように残っていた。
「お世話になったことがあるんで、参列したいって言ったら、大丈夫ですよ、いらしてください、と言われたよ。行けばきもちがすっきりするよ」
そう言って、母はご霊前と書いてある封筒を取り出して僕に渡した。表に僕の名前が細いサインペンで書かれていた。裏を見ると、五百円と小さな字で金額が記してあった。
母は本当に僕が葬式に行った方が良いのかどうなのか、その朝までずっと考えていたのだと思う。
その母は三年前に鬼籍に入った。なので、その時の母の思いはもう永遠に母に聞くことはできない。
だがたとえもし、聞いたとしても
「そんなことがあったかねぇ。おまえ、良くそんなことを覚えているね」
と皺の寄った眼の奥から僕を眺めただけかもしれない。
葬式は町の北の奥にある小さな葬儀場で行われた。近くのバス停で降り、歩いて十五分以上も掛かった。初夏の日差しが降り注ぎ僕の腕にも母の額にもうっすらと汗が浮いていた。母は葬儀場の近くまで付いてきてくれたけれど、なぜかそこから
「お前一人で行っておいで。私はそこの公園で待っているから」
と言った。大人ばかりのいる葬儀場に子供が一人で入っていくのは何だか心細く、僕はいく度も母の方を振り返った。母は微笑んだまま、それでも一歩も僕の方に近寄ってこようとはしなかった。
その時間には二組の葬儀が行われるようだった。片方の組にはおじさんやおばさんたちがたくさん集まっていた。もう片方には、しかめっつらをしたおじさんたちが二人と、若い女の人がひっそりと立っていた。きっとこっちの方が「お貰いさん」の葬式なのだろうと僕は思った。お貰さんは「佐藤純一」という名前だったらしい。真新しい字で書かれたその名前はお貰いさんが持っていた物の中で何よりも立派なもののように思えて、僕は少し悲しくなった。
その三人に近づいていくと、びっくりしたように三人は僕を見て、その中の女の人が、ああと気が付いたかのようににっこりと笑い僕に近づいてきた。
「あなたなのね、佐藤さんに定期を拾って貰ったのって」
僕は小さく頷いた。それから表にご霊前と書いてある封筒を慌ててその女の人に渡した。
「確かに預かっておきますよ」
と女の人は言うと、
「でもお渡しする相手もいないから、これでお花でも買って供えましょう」
と言った。僕は急いで首を縦に振った。葬儀は簡素なものだった。火葬をする部屋に連れて行かれ、そこでちょっとだけ棺桶に納められた「お貰いさん」の顔を見た。「お貰いさん」は生きていた時よりずいぶんと立派で穏やかな顔をしていて、きちんと髭も剃られていた。眠っているようなその顔に苦痛の陰は見られなかった。僕は小さく手を合わせて、「お貰いさん」が今度は運の良い人生を送れるように祈った。そうでなければ不公平だ。それから僕らは部屋を出て、しばらく待った。さっきの女の人が僕に喋りかけてきた。男の人二人はじっと黙ったままだった。
「本当に来てくれたのね。お母さんは?」
「外で待っています。一人で行ってきなさいって」
僕がそう答えると、女の人は少し不思議そうな顔をして
「そうなの」
と呟くように言った。それからにっこりと笑うと、
「そうね、佐藤さんにお世話になったのはあなただものね」
と僕に言った。僕は頷いた。
でも、母が僕一人を来させたのはそれだけではないような気がした。僕が抱えた罪の心・・・声を掛けられたのに逃げ出したこと、彼に謂れもない恐怖を抱いたこと。それが巡り巡って彼が死んだのではないかという因果のようなものを僕は漠然と感じていたのだ。それを何もしないまま抱えていれば、そこから僕の心は腐っていったのかもしれない。心は傷を負うだけではない。傷を負ったままにしておけば心は腐るものだ、と今の僕は知っている。
一人で「お貰いさん」の葬式に出ることで、感じていた心の痛みは強くなったような、弱くなったような不思議な感じだった。でもこれが今「お貰いさん」に対して僕にできる最後のことなんだ。それをきちんとするのがきっと大切なことなのだ。そう母は言いたかったのだと思う。うじうじ悔やんでいないで、お前のできることをちゃんとやりなさい。そう言ったのだ、と考え僕は心を込めて、目を瞑り「お貰いさん」の白い大きな骨壺にお祈りをした。女の人の手がそっと僕の肩に触れるまで、ずっと。祈りを終えた僕を優しい眼で見た女の人に僕は尋ねた。
「お墓はどうなるんですか」
「え?」
「お墓はできるんですか」
「そうねぇ」
お姉さんはまたにっこりと笑った。笑顔のとても素敵な人だった。
「そういう人たちにもちゃんとお墓はあるの。みんな一緒にそこで眠るのよ」
「そうなんですか」
家族に看取られることなく死んでいった人たちにとってそれが幸せなことなのかどうか、それさえ僕には良く分からなかったけれど、ひとりぼっちで埋められてしまうよりはずっとましのように思えた。
僕と母は公園から火葬場の方を眺めていた。灰色の煙突からときおり溜息をつくように吐き出された煙が、薄く空に消えて行くのが見えた。
それが「お貰いさん」のものであるかどうかは分からなかったけれど、僕にはあの夜、闇の中にすっと姿を消した「お貰いさん」が、あらためて僕に別れを告げているように思えた。そう言うと、母は小さなため息をつき、その方向に向かって手を合わせた。僕は目を閉じ、心の中で小さく「さようなら」と呟いた。
それが済むと僕らは公園を出た。母は、
「さあ、デパートの食堂にでも行って、昼ご飯を食べるかね」
明るく言った。僕は、母を見詰め、そしてうんと勢いよく頷いた。デパートの食堂で食べる昼ご飯はその頃の最大のご褒美だった。
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