第4話
闇の中からゆらりと姿を現したのは「お貰いさん」だった。昼間、とぼとぼとこの辺りをうろついているその「お貰いさん」を僕は何度となく見かけたことがあった。今の言葉で言えば、路上生活者というやつだ。でも、今この年になって見る彼ら「路上生活者」と「お貰いさん」はどこか纏う雰囲気が違っていた。
どう言えばいいのだろう。「お貰いさん」は同じような境遇の人とつるむこともなく、孤独に生きることを受け入れた一匹の野良犬のようだった。今思えば、社会から零れ落ちたのではなく毅然と自ら外へ出ていった、そんな雰囲気がその「お貰いさん」にはあった。いや、もしかすれば今の路上生活者の中にもそうした人はいるのかもしれない。よく・・・分からない。
みんなは彼を乞食とか、おこもさんとかお貰さんと呼んでいた。いつもは駅の向こう側で欠けた白いプラスチック製の茶碗を前に日がな通りを眺めている。時折通行人が、といっても年寄りや地元で商売をしているような人が多かったのだけれど、その茶碗に小銭を投げ込んでいくのだ。子供たちに
「やーい、こじき」
とからかわれてもさして気にする様子もなく、お貰いさんはいつもの場所にずっと座り続け、夕方になるとどこかにふっと姿を消すのだった。そんなお貰いさんが闇から姿を現したのだ。いつもなら視線を落としながら歩いている「お貰いさん」がこちらを睨みつけているように窺っていた。
「どうしてお貰いさんって言うの?どうして、さんって付けるの?」
僕がそう尋ねた時、母は
「どうしてだろうね」
と、考えるような顔をした。
「でも、お貰いさんって言う名前は私は好きだよ。乞食なんて、なんだか失礼な呼び方じゃないか」
「そうなの?でも、食べ物を乞うから乞食っていうんでしょう」
同級生より漢字が得意だった僕が自慢げにそう言うと、母はその言葉の真意を探るかのように僕の眼を覗きこんだ。なんだかつまらないことを言ってしまったような気がして僕は怯んだ。
「なんだかこじきっていう響きが嫌なんだよね。こじきさんっていうのはしっくりこないしね」
母は呟くようにそう言うと僕から眼を逸らした。僕は黙った。
それでもしばらくしてから僕はもう一度尋ねてみた。
「でも乞食って働いていないんでしょう。働いていないのはいけないことだって先生が言っていた」
僕は母に対して少し意固地になっていたのかもしれない。
「そんな・・・お前」
僕は母親の眼を見た。その目が悲しげだった。
「世の中には働きたくても働けない人とか、他の人とうまく付き合っていけない人だっているんだよ。そんな人がみんな悪い人っていうことがある筈がないじゃないか」
でも・・・。母にそう諭されたけれどもやっぱり僕はお貰いさんのことを好きにはなれなかった。傍に寄ると不思議な甘ったるい、
しかしお貰いさんは母親の眼には違って映っていたようだった。
「かわいそうに、運がなかったんだろうね」
ある日、近所の小さな公園で朝早くお貰いさんが本を読んでいたと僕に話してから、母は溜息をつきながら言った。僕には良く分からなかったけれど、外国の人が書いた政治の本だったそうだ。熱心に本を読んでいたせいで母に見られているのにしばらく気が付かなかったお貰いさんは、ようやく母が本を読んでいる自分の姿を眺めていることに気付き恥ずかしそうに薄っぺらい本を慌てて、でも大切そうに着古したコートのポケットにしまい込んだそうだ。そして母に一つお辞儀をしてからその場から離れて行った。そう母は僕に話した。
そんなお貰いさんがついに、いつも自分をからかっている子供の誰かに闇にまぎれて復讐をしようとしているのかもしれない、そう僕には思えた。
僕自身はお貰いさんに悪戯なんてしていないのに。でもお貰いさんには子供たちの顔なんか区別はつかないに違いなかった。
僕の足は自然と震えはじめた。都合の悪いことに、一週間ほど前、僕のすぐ脇に居た見知らぬ子供が「お貰いさん」に小石を投げつけた風景が脳裏によみがえった。
「やーい、乞食」
そう叫びながら投げた石はお貰いさんには当たらなかったけれど、飛んできた石がガードレールにぶつかった音にそれまでは緩慢な動きだったお貰いさんが鋭く振り返ったのを僕は見た。それはうらぶれた路地裏の痩せた猫が犬や子供に襲われた時、
「卑怯者」
お貰いさんがそう呟いたのを僕は確かにこの耳で聞いた。それは子供に投げつける言葉としてはあまりに辛辣で断定的な響きを帯びていた。それが石を投げた子供に向けられたものなのか、それを見過ごした僕に投げつけられたものかは分からなかった。
「お貰いさん」は呆然としたまま眺めていた僕の方を鋭い目付きのまま振り向いた。走って逃げていく子供の代りに僕がお貰いさんは眼を合わせてしまった。お貰いさんは硬い表情をすると、向きを変えると早足で歩き去って行った。その時のお貰いさんの暗い目付きを僕ははっきりと覚えている。今、闇の向こう側からお貰いさんはそんな眼で僕を見詰めているのかもしれない。
僕らは息を殺すようにして互いを見つめあった。どれだけ時間が立ったのだろう、僕には長い時間のように感じられたけれど、きっとほんの数十秒、いや数秒のことかもしれなかった。
僕は闇に潜む野獣に塀の片隅に追い詰められた鼠のような心境だった。「お貰いさん」のほんの僅かな動きで張り詰めた心の糸が切れそうな気がして、背筋の毛がざわざわとした。「お貰いさん」が決心したかのようにゆっくりと僕の方に向かって歩き出したのはそんな緊張に僕が耐えられなくなりかけた時だった。
「おい、そこの・・・」
そんな声を掛けられたような気がした。僕はその声を最後まで聞かずに一気に灯りの下から駆け出した。知らず知らずのうちにワーと大きな叫び声が喉から
街の灯りがぐらぐらと揺れながら目の前に迫ってきた。「お貰いさん」が追いかけて来ないことを背中の気配で悟るとようやく僕は足を止めた。見上げると目の前であの黄色い信号機が点滅していた。ざわざわと人の気配がした。
男の人と手を繋いだ幼稚園の年長さんくらいの女の子が、息をきらして走って来た僕を驚いたように見詰めていた。父親は、大丈夫だよとでもいうようにポンポンと女の子の肩を叩くと、僕の方を見むきもせずに歩き始め、女の子の顔はびっくりしたような表情をしたまま闇に溶けていった。肩で息をついている僕を、横道から出てきた、重そうな自転車に跨ったお巡りさんが、こんな時間まで何をしているんだと言うように、咎める眼付きでちらりと僕を見たけれど僕が肩を縮めると、無言で自転車を漕いで行ってしまった。
僕は駆けてきた道をこわごわ振り返った。「お貰いさん」は遥か向こうの電灯の下でこちらの方を向いて、まだ佇んでいた。だが近づいていくお巡りさんを見ると、すっと闇の中に姿を消した。
裸電球の点った家の玄関の前に僕はひとり腰かけていた。辺りは夕闇に沈んでいる。僕の家と同じ造りの社宅が四軒並んでいて、どの家にも同じような電球が心許なげに玄関を照らしていた。入り口には自転車や、家に入りきらないバケツや如雨露ががらくたのように出しっぱなしになっていて、それらは暗がりの中へひっそりと形を消し始めていた。
空を見上げると一面にばらまいたような白い星が輝いていた。心許なく点っている自分の家の電灯よりも星の方が遥かに力強く僕を照らしているように思えた。
突然、一軒からがらがらと戸を引く音がして渡辺のおばさんが出てきた。渡辺のおばさんは所在無げに座っていた僕を見ると一瞬息を飲むような表情をした。僕が姿を隠す暇もなかった。
「あら、諒ちゃん、どうしたの?なんでそんな所に立っているの?」
僕は慌てて下を向いた。でもそんなことで渡辺のおばさんが黙ってくれるはずもなかった。
「ほらほら、早く家に入らないと。もうこんな時間。お母さんが心配しているわよ」
思わず体をひいた僕の腕を構わずに渡辺のおばさんは掴むと僕の家のガラス戸を叩いた。僕は俯いたまま、戸の下縁を見ていた。戸の縁が白っぽく擦り切れかかっているのが見えた。
「はーい」
と母の声がして、擦り減ったその戸ががらがらと音を立てて開いた。母は、
「あら、渡辺さん」
と驚いたように言って、それから横で項垂れている僕を見た。
「諒ちゃん、おうちに入らずに玄関の前で座っていたのよ」
渡辺のおばさんは、
「ねえ、どうしたのかしらねぇ」
と僕をちらりと眺めてから、それはそうと、と母に向かってお向かいの家が今度引越をするらしいという話をし始めた。
「どうやらおうちを買うらしいのよ。関谷の方ですって。良いわねえ。お金持ちは。うちなんて一生かかっても家なんか買えないのに、ねぇ」
僕はおばさんの脇に立ったまま、どうして僕と向かいの家族が引っ越しをすることが「それはそうと」で繋がったのか、じっと考えていた。ひととおり引っ越す家についてのやっかみを話し終えると渡辺のおばさんは急に自分の用事を思い出したらしい。
「じゃあ、私、夕食の買い物があるから。ごめんなさいね」
そう言って突然話を打ち切るとおばさんはあたふたと、駅の方へ駆けだして行った。母はその後ろ姿を眺め、微かに笑ったようだった。それから
「どうしたの」
と、俯いたままの僕に優しく声を掛けた。
「定期券、なくしちゃったんだ」
母は僕の頭に手をやった。暫く時間をおいて母は僕に尋ねた。
「それで?どうやって帰ってきたの」
「歩いて」
そう言った途端に鼻の奥がつんとした。
「そう、大変だったね。頑張ったね」
「ぼく、明日探すから」
「そうね、明日は電車賃を持っていきなさい」
「うん」
「もううちへ入りなさい」
黙って、僕は家に入った。大きな蛾がブーンと羽音を立て、玄関の裸電球の横にとん、と音を立てて止まった。
「ほら、早くお風呂を焚いたらいいじゃないか」
母はそう言って僕を見た。
「うん」
僕は焚き付けにする新聞紙を取りに物置に走った。古くなった炭はきれいに掃除されて新しい石炭がかまどの前に綺麗に並べて置かれていた。
「ごめんね、定期無くして」
種火をつける準備をしながら僕は後ろに立った母の気配を感じ、呟くように言った。
「まだ、無くなったと決まったわけじゃなかろう?ちゃんと探すんだよ。学校でも、交番にも行って」
「うん」
僕は素直に頷いた。マッチを擦って新聞紙に火をつけると赤い炎が立ち上り、ばらけて置いた薪にゆっくりと燃え移る。ぱちぱちと音がして、火の粉が舞い上がった。見計らって僕がシャベルで放り入れたコークスはしばらくすると暗い炎色を燈し出した。やがてその奥底に青い静かな光がにじむように輝き出し、じっと見詰める僕と母の顔を照らした。
それから三日が過ぎた。僕の無くした定期券はどうしても見つからなかった。「もう少し待とうじゃないか」と母は言い、僕はその間切符を買って学校に通った。駅員から切符を買うと定期券を無くしたことを見透かされてしまうようでなんだか恥ずかしかったけれど仕方がなかった。
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