第3話
僕が物を失くすのはこれが初めてではなかった。いや、実際のところ、その頃の僕は物を無くす名人だった。
その前の年、もうあまり目にしなくなっていた鳳凰銀貨の百円玉を僕は母の財布の中に見つけた。普通の百円玉と交換してもらいポケットに入れて、大切に持ち歩いていたはずなのに、二日後にはいつの間にかその百円玉はどこかに消え失せてしまった。細かい模様の網目が黒く錆びついていたあの百円玉はいったいどこに消えてしまったのだろうか、今も分からない。ポケットをひっくり返し、ランドセルを逆さにして教科書をバサバサと床に空け、そして部屋を這いずり回って懸命に探しても、まるで時空のポケットにでも転がり落ちていったかのようにその百円玉はどこにも見つからなかった。
ゴムに結わえたパッチ(転校してきた隣のクラスの子によると東京ではメンコというらしかった)を夕方、つい遊び場に置き忘れて、慌てて取りに戻ったらもう誰かが持ち去ってしまっていたこともある。
水に濡らして反らして作ったエイトマンの絵柄の”無敗のパッチ”(と僕が勝手に名づけていた)も一緒に消えてしまっていた。他のものはともかく僕が一所懸命に作りこんだ、その”無敗のバッチ”だけは返して欲しかったのだけれど。
恨めし気に夕暮れの日の中で僕は砂場の砂を思いっきり蹴った。
でもまあ、悔しい思いはしたけれど、それらは自分が我慢すれば済むことだった。親にも話す必要はなかった。
しかしさすがに定期券はそういう訳にはいかない。毎朝、毎夕この道を親に隠れて歩きとおすと言うのは僕にはとてもできそうになかった。定期券を失くしたと言ったら母はどんな顔をするのだろう。それを思うと一度軽くなった足取りはいつの間にか再び重くなっていた。
自分の家がさほど裕福でないことに、何時の頃か僕は気がついていた。どちらかというと”中”のちょっと下くらいなような感じだったと思う。
海からほど近い、初夏になると庭のところどころに薄緑色のハマヒルガオの茎が顔を出す高台に建てられた社宅は、こんなに土地が余っている場所に建てられているにもかかわらず動物小屋のように狭く、風呂は薪をくべて焚く旧式のものだった。海からの風が強く吹くとなんだか三匹の子ブタのお兄さんが作った藁の家の様にどこかへ吹き上げられてしまいそうな気がした。風の強い日、塩気の混じった砂は窓枠のどこかの隙間から部屋に入り込んで僕の勉強部屋の畳の上で、いつのまにか白くまだら模様を作った。
生活はそんなふうな質素なものだったけど、僕の母は世間一般の母親よりも子供の教育に熱心だったと思う。あまり余裕のない家計から無理にピアノのレッスン代を捻りだし、僕は毎週水曜日にピアノの先生のもとに通っていた。
けれども家にあったのは近所の中学生の女の子が譲ってくれた中古のカワイのオルガンで、同じように鍵盤が並んでいるとはいっても、本物のピアノとはタッチや打音が全然違っていた。プラスチックでできたキーはピアノの象牙製の鍵盤とは違って、軽く、滑りやすくて僕の指の下で間抜けな、どことなく物悲しい音を立てた。
「ほら、そこは叩くように、指を立てて」
そうピアノの先生が教室で教えてくれても家に帰って練習をすると、弾き方に関係なく単調な音が同じ強さでしか出てこない。楽譜に描かれている精妙な音色を、僕の指が色の欠けた面白味のない音に変えているような気持ちがして僕は家で練習するたびに憂鬱になった。
子供心にどうしても欲しかったラジコンカーはデパートで値札を見ただけで潔く諦めた。自転車は去年、ようやく買って貰うことができたけど僕の友達のもう半分以上が持っていて、はじめのうちうまく乗れなかった僕は良く友達に置いてけぼりを食らって悔しい思いをした。
辞書とか図鑑とか教育目的のものは別として、僕の年代の子供のうち半分が持ち始めると、「買うことが検討される」というのが僕の家の基準だったような気がする。
とはいえ、公立学校に通っていた僕の周りには(その頃、新潟に私立の学校があったのかは良く知らないけれど)裕福な家庭は数えるほどしかなく、プロパンガスで風呂をたくところはまだそんなに多くはなかったし、音楽教室の生徒の中で、家ではオルガンしかないんだ、と教えてくれた子供も一人ではなかった。僕らは互いに自分たちの置かれた「あまり裕福ではないのにピアノを習わさせられている」という微妙な立場を同情し合い、なかなかバイエルから先に進めないのはちゃんとしたピアノがないせいだと音楽教室の隅でひそひそと話し合った。ピアノが家にあるかないかは僕らの演奏能力と親の収入と強い相関関係のある重要なことだと考えられていた。
僕らより一つ下の齢の髪の毛を三つ編みにした女の子の家にはグランドピアノというものがあるらしく、グランドという響きは圧倒的な豪華さを持っていて、僕らはその響きだけで三つ編みの年下の女の子に劣等感を感じてしまったものだった。その子が僕らと違う時間に変わって、しばらくするとどうやらソナチネという段階に進んでいることを知って僕らは顔を見合わせて、やっぱり、と頷きあった。
だって、グランドだものな。うん、グランドには敵わないよ。そう言って僕らは納得しあったのだ。でも、まあ本当のところ、ピアノはどうでも良かったのだ。
僕が本当に欲しかったラジコンを持っているクラスメートは一人しかいなかった。それは僕にとってはピアノよりも遥かに心を惹かれるものだった。でも、一人しかいないということは、僕と同じ境遇の男の子の方が多いということを意味していた。外に出れば僕らは貧しいなりに中古のグローブを手に三角野球をやっていたし、ラジコンを持っているクラスメートも、目立つのが嫌なのか、新品のグローブをわざと汚していた。もっともボールを受け取った時の新しい革だけが立てるピシッという音は、どんなにグローブを汚しても隠しようがなかったけれど。
その子に僕は一度ラジコンの操縦をさせてもらったことがある。壊して弁償するのが怖くてその子の家の庭で僕はそろりそろりと操縦した。最初は心配げに眺めていたその子はしばらくすると呆れたように
「なんだか、ダンゴ虫みたいな動かし方だね」
と言った。それでも勢いよく操縦されて壊されるよりはましだと思い直したのか、その子はそれ以上何も言わなかった。今思えば、その頃の僕たちは、圧倒的に数の多かった貧しい家庭の子供たちに皆が水準を合わせるようにして遊んでいたような気がする。
野球に飽きるとみんなで缶けりをしたりパッチで遊んだ。普段は封筒から古切手を剥がして集めていたけれど、時おり少ない小遣いの中から記念切手を買い、そうやって集めた切手を眺めながらにんまりとしながら時を過ごすのもそれはそれで楽しかった。金持ちではなかったけれど僕は別にさしたる不満もなく小学生の生活をそこそこ楽しんで暮らしていた。
そんな暮らしの中で、二か月も期限を残している定期券をなくしたと言う事実は心に石を
きっと母は僕を叱りとばしたりははしないだろう。その代り、母はもう少し夜遅くまで洋装の針仕事をし、良く気をつけなければ気が付かないほどに夕方の御飯から食材が少なくなり、そんなことが一か月ほど続くのだろう。
僕の歩みはいつの間にか止まっていた。僕の先、道のくらがりの向こう側には明るく照らし出されている場所が開けていた。あたりの景色には見覚えがなかったけれど、黄色く瞬いている明りはきっと駅前にある信号に違いない。
あんなに辿り着きたかった駅舎の辺りを眺めながら僕は立ち竦んでいた。電柱に取り付けられた蛍光灯が辺りを照らすことに疲れたように時おりチチっと音を立てて消えてはまた力なく点った。夕陽は空のはるか彼方にあかね色の雲を残し沈んでいた。コールタールがところどころまだらに黒く染みを描いている細い木製の電柱に背をもたらせ、僕は母に何て言えば良いのか考えていた。
無くしたと言う事実は隠しようがなかった。どうやって説明し母に謝るのか、僕の頭はまとまりがないまま申し訳なさと悲しい、悔しい思いでぼんやりと包まれていた。街灯の灯りに惹かれて集まってきた羽虫が弱い光の中で踊っているのを見つめ、時は少しずつ刻まれていった。僕の心は次第に冷たく乾いた風に吹かれているみたいに萎んでいた。
そのとき、ひそひそと話す男女の声が道の角から聞こえてきた。僕は電柱の陰に慌てて体を隠した。どうして隠れようと思ったのかは分からない。でも、そうしたのは正しかったのだ。角を曲がってくる二人の影が現れ、街灯の暗い光が顔を照らし出した。その一人の顔を見て僕はどきりとした。僕の知っている顔だったのだ。牧山の小父さん。僕のクラスメートの女の子の父親だった。
去年の運動会の時に僕と母の隣で牧山はそのお父さんと仲良さそうに並んで座っていた。僕の父は運動会にはやって来なかった。
牧山は何をするのにも控えめな女の子で、クラスの図書委員をしていた。放課後、僕らが野球をしている運動場の横のベンチに座って牧山は良く本を読んでいた。そして時々、本を閉じると遠くを見るような眼で、ボールと戯れている僕らを眺めた。
僕は牧山のことを格別意識している訳ではなかったけれど、ベンチに座って僕らのことを眺めている牧山に気が付くとなんだか眩しく恥ずかしくなった。だから一人きりでベンチに座って僕らを眺めている彼女に気づくたび、一塁手だった僕はベースの上で、相手チームのランナーや一塁ベースコーチ(ランナーが確実にアウトなのにいつも手を広げてセーフだと言い張るだけの役目だった)と顔を見合わせてこそこそと笑いあった。
体育祭が後半に入り、運動場で下級生の遊戯が始まってしばらくすると、牧山の小父さんは競技に急に興味を失ったかのように僕や隣にいる母に話しかけてきた。不動産屋の社長をしているためか、話の上手な人で差しさわりのない程度に、店に来るお客さんの奇妙な依頼を牧山の小父さんは僕らに面白おかしく話してくれた。
「なにしろ、六畳一間にトイレが二つある部屋はないかって言うんですからね」
若い奥さんが引っ越し先を探しに来た時さすがに困ったんですよ、と言いながら小父さんは笑った。
「どうやら旦那さんと一緒なのが嫌みたいなんで。はっきりはいわないんですけどね。何で結婚しちゃったんでしょうね」
笑っていい話なのか分からずに僕は母を見た。母は口に手を当てて微笑んでいた。無口で愛想のない自分の父と引き比べると牧山のお小父さんはにこやかだし、話題もたくさんあって遥かに素敵な父親に思えた。牧山は時おり父親の顔を少し誇らしげに見て、それから僕の方をちらりと見た。僕が見返すと慌てて視線を逸らすのだけど、そんな牧山のいつもと違う仕草や表情が僕には新鮮に思えた。お父さんのこと好きなんだな、牧山は。僕はそう思った。
牧山の小父さんは僕らのそんな様子を眺めながらにこにこしていたが、自分の弁当箱からひょいと骨付きの鶏の唐揚げを一つ取り上げると僕に渡して呉れた。
「うまいぞ、食べてごらん」
母は恐縮し、僕はなんだか牧山の前で物を貰うのが恥ずかしかった。でも口に入れてみると、こんがりときつね色をした唐揚げは僕の知らない香辛料が入っているらしくてとても美味しく、大人の味がした。
「おいしい」
僕がそう言うと、おじさんは
「そうか、それは良かった」
と言って僕の背中を軽く叩き、横に座っていた牧山は安心したかのように微かに笑った。
運動会の時に牧山の隣に座っていた物静かな牧山のお母さんは、少し白髪があって、優しそうな眼をしていた。その目が牧山にそっくりで、きっと牧山も大人になったらこんな静かで優しそうな人になるんだろうなと僕は思ったのだった。
でも・・・今、牧山の小父さんと腕を組んで歩いている女性は牧山のおばさんよりもっとずっと若く、赤い唇がなんだか派手でいやらしくつやつやと輝いていた。僕は電柱の陰に身を潜めたまま、二人が目の前を通り過ぎるのをやり過ごした。牧山の小父さんが女性の黒いドレスの細い腰のあたりに手をまわしているのが見えた。
しゃがみこんで隠れていた僕に二人は気づくことなく、何か小声で話していたが突然、牧山の小父さんが女の人の腰に手を回し抱くと、唇を寄せ合った。僕は思わず自分の口を塞いだ。
駅の灯りの影になって抱きあう二人のシルエットが鮮やかに浮かび上がって、僕は眼を見開いたままそんな二人を眺めていた。息をすると気づかれそうで、止めていたらしまいにはなんだか頭がくらくらしてきた。二人はやがて体を離した。夜の風は生温く得体のしれない生きものの匂いがした。
牧山のお小父さんはゆっくりと手を振って駅の方へ歩き出し、しばらく歩いてから女性の方を振り向いた。白く浮き上がった顔に笑みが浮かんでいるのが遠くからでも分かった。女の人は体の前で小さく手を振った。
小父さんの姿が闇に消えるまで若い女の人は手を振り続けていた。手を振るのを止めた女の人の横顔はどこか寂しげだった。闇の中からなぜだか小さなため息が一つ聞こえ、そして女の人はやってきた道を戻って行った。
バカみたいにそこにしゃがみ込んだまま、牧山の小父さんの唇に赤い口紅がべっとりと移っているのではないかと思って、背筋がざわりとした。
睫の長い牧山が時おり見せる淋しそうな横顔がさっきの女の人の横顔とどういう訳か重なった。あの小父さんは女の人を淋しそうな顔にしかできないのだろうか。そう思うと無性に悲しかった。大きくなったらそんな大人にはなりたくない、そう思った。
もし、牧山の家族がこのことを知ることがなければ、その方があの運動会で幸せそうに見えた家族にとって良いことなののだろうか。それとも真実を知るべきなのだろうか。
僕は頭を振った。牧山が悲しむのを見るのは嫌だった。牧山のためにこのことは牧山自身どころか誰にも言ってはいけないことだ、そう思った。たとえ、僕の母にでも、話してはいけないこと。
もちろん母に話をしたところで、母が他の人に話すとは思わなかった。でも秘密は誰かに気取られる。誰よりも牧山自身にいつか気が付かれてしまうかもしれない。いっそ見なかったことにしてしまうしかないんだ、そう決めると僕はのろのろと立ち上がった。
駅の方角の一つ先の街灯の下に影がちらりと動くのが見えた。その人影が街灯の真下から少し外れた所にあったから気が付かなかったのだろう。
誰だろう。
目を凝らしたけれど相手の顔は良く分からなかった。怖れと好奇心に付き動されたまま、僕はそろそろと僕はその人影に近づいて行った。人影の方も近づいて来る僕に気が付いたらしく重たげに体を動かすと灯りの下に出た。
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