第2話
地面に座ったまま空を仰いだ僕の前を荷台が空っぽの大きなトラックがものすごいスピードで走りすぎて行った。巻き上げられた埃を吸い込んで僕は激しく
その石の横をゆっくりと肌色のスバル360が走って行った。僕はポケットの中に残っていたガムのおまけの自動車カードをそっと取り出して眺めた。
キャディラック。おまけについていたガムと同じ大きさの外車のカードだ。アメリカの車は赤い色、イギリスの車は青い色。フランスの車は若草色。
定期券は落としてしまったのに、なぜかその赤い色のカードだけは僕のポケットの中にちゃんと残っていた。一度も眼にしたことのない外国の車の格好は、さっき目の前を通り過ぎて行ったスバル360と同じ種類のものとはとても思えなかった。カードに描かれている物体はどちらかと言えば宇宙とか地中深くとか、そんな場所で出会いそうな形をしていた。
いつか、こんな空を飛びそうな格好の車を眼にすることはあるのだろうか?
こんな片田舎では永遠にお目に掛かれないに違いない。きっと外国の豪華なホテルの前とか、広い庭のついたお屋敷とかそんな場所でしか見ることはできないんだろう。ポケットにカードを戻し、僕は僕の未来に何が待っているのか考えてみた。でもわくわくするというよりも、逆になんだか心細くなっただけだった。
日が暮れる前に家に帰りつかなければならない、切実にそう思った。日が暮れた後の闇の中を一人で歩くのは恐かった。ひと月も前だったらもうとっくに日が落ちてしまっていただろう。空を見上げると遥か向こうに棚引く紫色の雲の手前を鳥の群れが横切って行く。
ひとりぼっち。
今まで歩いてきた道を僕は再び歩き始めた。人とすれ違うことはなく、遠くの田んぼや畑で仕事をしているおじさんの影が時おりポツンと遠くに見えるくらいだった。
俯いて、目の前のアスファルトと土の境い目を跨いで、その境目だけを見詰めながら、考えるのを止めてとぼとぼと僕は歩を進めた。ランドセルが揺れて歩くたびにコトコトと音を立てた。黒い革製のランドセルは次第に肩に食い込むように重くなっていた。
僕はちょっと前に図書館で借りて読んだ大ヤマメの童話を思い出していた。川漁師が釣ったヤマメを背負って家に帰ろうとするとそれがどんどんと重くなっていくのだ。漁師がおかしいな、不思議だなと思いながら黙って急ぎ足で歩を進めていく漁師に背中のヤマメが突然話しかけ、びっくりした漁師が釣った魚をすべて放り出して逃げ出す、そんな話だ。読み終わった時は、重くなったんじゃなくて、漁師のおじさんが疲れただけじゃないか、と思った。当たり前だ、そんなこと。
でも、背中のランドセルは確かに歩き始めたときより確かに重くなっているように思えた。そろそろと後ろを振り返って、肩に掛かったランドセルの様子を僕は片目で確かめた。ランドセルが物を言うとは思わなかったけれど何か僕の思いも掛けないことが起こっているのかもしれない。でも担いでいたランドセルはいつものように無表情で、日に当たる肩の辺りが少し疲れたように色褪せていた。ほっとして僕は息を吐いた。
後を振り向いた時、僕の眼に、道の彼方から大きな音を立ててトラクターがやってくるのが映った。ふだん見慣れている小型の耕運機よりずっと背の高いトラクターの運転席に、大柄な男が座っている姿が夕陽を背にくっきりと映えていた。トラクターの影は道に長く伸び、僕の足もとのすぐそこまで届いていた。その影に飲み込まれそうな気がして、僕は思わず飛びのくとまっすぐ前を見て早足で歩き出した。
いくら早く歩いたからと言って、トラクターのスピードに子供の足がかなうはずはない。次第に大きくなっていく、タイヤが軋むように道を噛む音を背後に聞きながら僕は夢中で前を向いて駆けるように歩き続けていた。
やがてトラクターが僕の横に並んだ。トラクターのエンジンの音が変わり、スピードが緩んだのが分かった。どうして追い越して行かないんだろう。嫌な感じを抱きながらも、僕はトラクターの方を見て大男と目を合わせるのが怖かった。トラクターと僕はしばらくそうやって並走していた。
やがてこらえ切れなくなって、僕はそろそろと、横を走っているトラクターの運転席を見上げた。背の高い髭面の男の人が高い運転台から二重瞼の奥から表情を消すような眼で僕のことを覗きこんでいた。赤い布切れのようなものがちらりと僕の視界の隅を過った。
「坊主、競争しているつもりなのか?」
突然、表情を崩してニヤッと笑いながら男がそう僕にしゃべり掛けた。トラクターの上から僕を見下ろしている赤銅色に日焼けしたその男の視線には、クマのような迫力があって、僕は慌てて目を逸らした。心臓がビクンと揺れた。こんな大きなトラクターに踏み潰されたら、きっと僕は車に引かれたアマガエルのように道路に紙のように押しつぶされてしまう。そんな僕の恐怖を知らないかのように平然とトラクターのハンドルに手を置いたまま
「どこに行こうとしているんだ。もう遅いぞ。すぐに陽が暮れる」
男のからかうような野太い声に僕の首筋が縮こまった。トラクターの後ろに続いていた車がクラクションを鳴らした。男は面倒くさそうに後ろを振り返ると、先に行けと言うように車に向かって乱暴に手を振った。
車がトラクターを追い越していくのを眼で確かめてから、もう一度おそるおそる運転席を見上げてみた。その男はまた僕をちらりと見やった。その口元がもう一度にやりと笑ったように見えた。
さっき視界の隅に見えた赤い布きれは頭に巻かれているのがはっきりと見えた。今ならバンダナだと分かるけれど、それまでそんなものを見たことのなかった僕には不思議な飾りに思えた。まるで鶏の鶏冠みたいだ、そう思った。ポカンと口を開けたまま見上げている僕に向かって男はざらりとした声で尋ねた。
「どうした、定期でも無くしたか。歩いて帰ろうとしているんだろう」
図星だった。大人には子供のことなんかお見通しなんだな、と思いながら僕はバカみたいにコクリと頷いた。髭の濃い口を曲げるようにして笑うと男は
「仕方ねえな。冒険みたいなもんだ」
と呟いた。
「あのう、寺尾ってこっちの方向ですか」
思い切って僕は男に尋ねたけれど声が届かなかったのだろう、その男の人は、うん、と眉を顰め、少し歩道側にトラクターを寄せるとエンジンを切った。バタバタと鳴っていたモーターの音が止んだ。
「なんだ?」
僕も歩みを止めた。そして声を限りにして叫ぶようにして言った。
「あの、寺尾ってこっちの方向ですか」
「ああ、そうだ。でかい声だな、小さいの」
顔を顰め、耳を塞ぐような仕草をしてから唇の端を少し歪めるようにして笑うと男は頷いた。
「俺の家も寺尾だ。良かったら乗っけて行ってやろうか」
男の親切な申し出に僕の心は揺らいだ。あの運転台から見えるであろう景色にも心が動いた。けれど僕は首を振った。子供を誘拐する事件があったばかりで、僕らは知らない人の車に乗ったりしてはいけないと周りの大人たちからきつく言われていたのだ。青天井のトラクターは車じゃないかも知れないな、とも考えたけれど僕は大男に最初に抱いた恐怖心も忘れていなかった。
「大丈夫です。駅まであとどれくらいで着きますか」
男は眼をしばたいて、少し考え込んでから
「そうだな、男の子の足ならあと五分か十分くらいだろう」
と、答えた。男の子と言われたのが少し嬉しくて僕は鼻の下を擦った。
「ありがとうございます」
そう言って僕が歩き始めるのを見ると、男の男は切っていたトラクタのエンジンをまた掛けた。エンジンの音が苦しそうにダ・ダ・ダと鳴ってからまたバタバタと軽快な音に戻っていった。
僕を追い抜いて去っていくトラクターの後ろからもう一度僕は叫んだ。
「あの、有難うございました」
男はびっくりしたように振り返って、それから髭を少し震わせるようにして笑うと、僕にゆっくりと手を振った。僕はその後ろ姿に向かってできるだけ丁寧にお辞儀をした。あと、十分も歩けば駅に着く、その思いが再び歩き始めた僕の足取りを軽いものにしていた。心なしかランドセルも軽くなったように思えた。道を行きかう車が次第に増え、ヘッドライトを灯した車もちらほらと混じりだしていた。
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