第10話 誰かさん

 ディディエの口から「斜塔」の名が出たせいか、久しぶりに魔法を使ってみようかという気になった。魔術、ではなくて、魔法を。

 ジリアンの専攻は、要素魔術エレメンツと呼ばれるうち、大地に属する魔術群だ。要素魔術は、以前は属性魔術と呼ばれており、いわゆる「四大属性の魔法」としてフィクションの世界で活躍してきた。

 もちろん、魔法を行使するひとびとは古くから実在しているが、フィクションに登場する魔法使いたちが、古今東西の叡智を有し、杖を振りかざして呪文を唱えるだけであらゆる活路を拓く、偉大な存在として描かれてきたがために、誇大表現を含まない市井の魔法使いたちはみな、体を縮こめて一般人のふりをしてきたのだった。

 魔法の才能は天賦のもので、備わった力の大小や、目に見えるかたちで結実しやすい、しにくいはあれど、本来は型にはめて分類することなどできない。それなのに系統立てた「魔術」が編み出され、呪文や魔方陣として一般化され、魔術専門の学校が存在するのはひとえに、その力の濫用と暴走が恐れられたからだ。

 今は、枕として有用な専門書を読みこなし、座学と名づけられた睡魔との戦いに勝利した者のみが実践的な魔術を教わり、魔術師の免状を授けられる。魔女狩りの歴史を例に出すまでもなく、神秘は迫害の対象でもあったから、免状という言い訳と首輪は、善良な魔法使いたちが世間に交じって生きてゆくために必要だったのだ。

 ジリアンが籍を置いていたソーンネル魔術学院は国内最高峰の魔術師養成機関で、「斜塔」すなわち魔法省の役人を多く輩出していた。何事もなく――目を閉じ、声を潜め我慢に我慢を重ねて卒業していれば、「斜塔」の役人になっていたかもしれない。そして学院に便宜を図り、教授に媚びへつらい、世を渡っていたのかもしれない。

 辞めて良かった、と思う。

 勉強は好きだったし、魔術の研究は興味深く、新しい発見ばかりで飽きなかったが、そこにいるのはジリアン・ハーシバルでなくても良かったのだ。便利に使える駒であるなら。若くて世間ずれしていない学生であるなら。

 せっかくのドーナツと幸運が、嫌な記憶に呑み込まれてしまいそうで、ジリアンは考えるのを止めた。公園の傍らに車を停め、ぶらぶらと歩きながら周囲を見回す。

 杖はない。呪文もなければ経験もない。もぐりの魔術師であるジリアンにとって、頼れるのは魔力の源である第二の心臓セカンドハートの強さだけだ。けれども、空想に親しんだおかげか結果をイメージする力が飛び抜けて強く、事象を変化させる魔法は子どもの頃から得意だった。おもちゃを宙に浮かべたり、絵本の光景を幻として展開したり。

 えいやと指を振ると、落ち葉はひとかかえもある山になり、両手のひらからこぼれるほどのどんぐりが集まった。子ども達が歓声をあげて飛び回るのに付き合っていると、すみません、と呼び止められた。

「なんでしょう」

 まさか、公園内で魔法を使ったと咎められるのだろうか。身構えたジリアンに、トパーズ色の杖をついた老爺は、はっとした様子で息を呑んだ。

「突然すみません。あなたが魔法を使う様子が、知り合いの音楽家に……そのひとが指揮をしているところによく似ていたものですから。あなたのような若い人ではないのですが、どうしてでしょうね、似ていると思ったのです。ああ、引き留めてしまいました。老人の戯れ言だと思って、忘れてください」

「……いえ、お気になさらず」

 車に戻ってアクセルを踏んでしばらくしてから、音楽家の名前を訊いておくべきだったかと、苦い後悔が兆した。

 ――まさか、そんな偶然はないだろうけれど。

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