第8話 幸運
お茶の時間に、紅茶のカップを傾けつつノエルは語った。
「引退して、ここに越してきてからずっと家を任せていたミセス・マロウが辞められると決まって、ひどく動揺しましてね。長く生きていると、変わらないものなんてないと承知しているはずなのに、ふしぎなものです。……それで、歌う花のことをふと思い出して、次に雇う方に手伝ってもらおうと考えたわけです。前に、あなたが音楽について触れなかったから採用したと言いましたが、魔術の学校に通っていらしたのも大きかったんですよ。まったく、幸運でした。いえ、悪事に勧誘しているのですから、喜んではいけないのでしょうけど、私の求める条件にここまで合致する方がいらっしゃるなんて思ってもみなかったものですから。それでも、相性については来て頂くまでわかりません。もし性格的に合わなければどうしようかと、ずうっとびくびくしていたんですよ」
実際どうでしたか、とは尋ねずとも、にこにこ顔こそが答えだ。
僕も、あの採用通知を運命だと思ったんです、などと応じるのも気恥ずかしく、ジリアンは頷いてクレープクッキーに手を伸ばした。
甘いものに目がないノエルは、お茶の時間のお菓子を楽しみにしている。混ぜて焼くだけのクッキーやスコーン、カップケーキならジリアンが作るが、マーケットに並ぶ新商品の魅力に抗えず、あれこれと買い込む日もある。
ディディエのドーナツも、ノエルはいたくお気に召したらしい。あのときはノエルがシナモン生地を、ジリアンがレモングレーズを食べ、おまけに入れてくれた「穴」をふたりで分けた。さっくり揚がったリングドーナツ生地、ふんわりと、しかし存在感のあるイースト発酵の生地、どちらもチェーン店のものとは違ったおいしさがあって、ふたりしてすっかりファンになってしまった。また見かけたらぜひ買っておいてください、と言われているが、「また」の機会がなかなかない。
そんなことを考えていたからか、無性にドーナツが食べたくなってきた。ベーキングパウダーもドライイーストもストックにあるが、今こそ、ディディエのあのドーナツが食べたい。それ以外のドーナツならない方がましだ。
「ちょっと、買い物に行ってきます」
買い物は朝のうちに済ませているから、歌う花からの逃避にほかならないのだが、ノエルは快く見送ってくれた。
ディディエが近くで出店しているとは限らないし、場所の心当たりもない。一度車を停めて検索しようか、しかし遠方での出店ならどうしようもない、などと考えているうちに辿り着いたのは駅前のマーケットだった。駐車場の脇に見覚えのあるキッチンカーを見つけ、思わずハンドルを握りしめる。
ミルク色の車体にチョコレート色の文字、「DD's DOUGHNUT」が躍る。紙袋やカップのスリーブにはゼラニウムの赤が差し色に使われていて、夜に見るのとはずいぶん印象が違った。
ロゴはシックともポップとも判断しづらく、ナチュラルテイストのおしゃれさとも違う。勤め人向けと言うよりは、この時間にマーケットを訪れるようなひとやファミリー向けなのかもしれない。
ディディエがふと顔を上げ、目元を緩めた。鳥の巣めいた髪がひょこりと揺れる。あの髪のなかで卵を温めていると言われても疑いはしないだろう。
「やあ」
ジリアンは会釈し、ラッキーだった、と口の中で呟く。
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