【7章 ラスト・ジャンプ】『陽気なトナカイ』

 はは、徹夜のテンションみたいに、まるでなんだってやれるって気分で、おれは血が沸騰するのを蒸発しないぎりぎりに抑えて、走り始めた。

 治療室に着いた。

 そこでは副総統とマムが、なにやら辛気臭い顔で話しているんだ。

 ずいぶんと湿っぽいじゃねぇの。

「動くなぁぁ!」

 おれは出来る限りの声を張り上げた。

 2人は目を丸くして、おれと佐藤に視線をやった。

「どうしたの、メリーちゃん?」

 マムは、強張った笑顔を作っておれに近づいてくる。佐藤が、おれに負けないくらいの大声を張り上げる。

 そして、コートの前をはだけさせた。

「近づくな! これがあれば、ここのフロアすべて吹っ飛ばせるぞ! 今までやってきたことすべて、台無しにしてやる!」

「くふ、くふふ。どうしたの、君たち? 反抗期かな?」

 副総統サマは、ガキが駄々こねているのを微笑ましく見るように、小首を傾げた。

 しかし、マムにたしなめられる。

「あなたは黙ってて下さい!」

「はいはい……」

 副総統は、わざとらしく肩を竦めてみせた。

「ちょっと佐藤君? どういうつもり……」

「我々は要求する! 今すぐ、Pちゃんの記憶を元に戻せ!」

 マムは眉を下げて、おれに甘えるような表情を向けた。

「どうして、そこまでするのよぉ? ママだけじゃ、いけない? 寂しいのよね? お仕事ももうちょっと減らせば、もっともっとメリーちゃんと一緒にいられるわ。ね?」

 さっきみたいな怒りはなく、ただマムに言わなきゃいけないことが次々と生まれていった。

「マムにはすごく感謝している。そのオッサンからきいた話だって、マムがおれがアンドロイドだって事前に知らせてなかったら、きっとショックを受けてたよ」

「……」

「こないだは心配かけてごめん。おれは、外の世界に初めて触れあった。この塔の中が、いかに居心地がいいかよくわかるよ。清潔で、温かくて、愉快な仲間までいやがる。外の世界は雪ばっかりで寒ぃし、ゴミやらなんやらでくせぇし、なによりおれには想像できないくらいのバカがうじゃうじゃいたんだ」

 トト。テルコ。

「でも、すげー楽しかったんだ。手がかじかんで死ぬほど寒ぃって思ったとき、おれはすごく生きてるって感じがした。それも全部マムのおかげなんだ。今までおれを護ってくれてたからそう思えたんだよ」

「メリーちゃん。あたしね、今すごく嬉しいわ。メリーちゃん。変わったわね」

 マムは笑う。涙目になって、肩を震わせて。

「Pの存在は、マムにとって疎ましいのかもしれない。でも、マムのありがたさに気付いたのも、Pがいたからだ。だからお願いだ。Pは仲間なんだ」

「メリーちゃん」

「頼むよ」

 マムは目を瞑った。

「……ダメ。ママは、メリーちゃんが考えているほど簡単じゃない。すごく醜い感情を持ってる。メリーちゃんを、私だけのものにしたい」

「マム」

「だから、それは聞き入れられないわ」

 マムは、佐藤の方を向いた。

「佐藤君。そんな脅しがきくと思う? あなたくらいの人が、どうしてこんなことを……」

「うるさい! この年増ババア」

 佐藤は叫んだ。マムは一瞬眉根を寄せるが、すぐにシリアスな表情に戻った。

「おれたちは、屈しない」

「お願い、メリーちゃん。ママの言うこと聞いて。『お願い』」

『お願い』。

 今のおれなら、そんなことに屈服しないと思った。根拠のない自信で。

 能天気で日和見的だったんだ。

 でも、ダメだ。頭がぼんやりする。

 頭の中で、何かのボタンが押される。沸騰寸前の血が、一気に凍りつく。

 体が冷たくなる。北極の氷の下の世界みたいな、穏やかな気持ち。

 おれはやっぱり、何も変わっていなかったのだろうか?

 マム。

 ごめん。ごめん。ごめん……。

 マムはにっこり微笑んだ。

「今度ママと一緒に島の外に行ってみましょう? 本土にはね、メリーちゃんが好きそうな洋服屋さんもあるわよ。おいしいアップルパイのお店もあるわ。ね? きっと楽しいわ!」

 マムがおれを抱きしめる。

 もうどうでもいい。

 イランイランの香り。

 マムがおれの肩を抱き寄せる。

 腕の銃創が、チクチクと痛んだ。歯を食いしばる。

「……っ」

「ごめんなさい! 右腕だったわよね? 大丈夫?」

 なんだ?

 ――腕の痛みが、おれの熱をゆっくりと起き上らせる。冷たい血を急速に加熱する。

 赤く煮えたぎる。

 イランイランの香りが、生ゴミの臭いに変わっていく。

 おれの意識が、マムの腕をするりとぬけ出すんだ!

『君は自由になれる。その力を持っている』

 おれは、跳べるか?

『とべるさ』

 トト。

 お前は言った。

 おれは、自由になれるって。おれはもう羊飼いなんかじゃない。

 おれはトナカイだ。

 サンタの手綱で、空をとぶんだ!

 おれは何のためにいるのか。そのこたえをずっと求めていた。それがなくちゃ、いけないような気がしていた。

 でも、違う。

 おれは、お前Pとだったら、どんな世界でもいいんだ!

 だから。もう一度、おれと手を繋いでくれ。


「メリーちゃん? どうしたの?」

 震えるおれに、マムは怯えたように声をかけた。マムの腕を振りほどいた。

 腕がズキズキする。傷から血がにじむ。

 おれは生きてる。

「おれはもう、羊飼いじゃない」

「……?」

「陽気なトナカイさ。誰のものでもない」

 おれはもう、糸の繋がったお人形ちゃんじゃねぇ。

「ね、ねぇ。何を言っているの?」

「今までありがとう。でも、いつまでもマムのおっぱい啜ってるわけにはいかねぇんだ」

 佐藤は笑った。口を横にグッと広げて、笑ったんだ。

「はははは! よく言った! メリー、さすが私のライバル!」

「……だから、ちげーって」

 マムは、ぼんやりとおれの顔を見た。絶望に満ち、すべてを諦めた顔だった。

 マム。ごめん。ごめん。

「もういいんじゃない? あ、拍手とかした方がいい? ボスっぽくさ」

 それまで黙っていた副総統サマがへらへらと口を開いた。

 そして、Pの背中に手をまわした。

「こら、なにやって……」

「いや」

 おれは佐藤を制した。

 副総統は言う。

「よーし。Pちゃんの記憶を元通りにしよう。ただし、何日かはかかると思うけどね」

「……いいさ。それくらい」

 おれは、叫び出したいくらいの喜びでいっぱいになった。

 P、早くお前と話がしたい。

 くだらないことでいい。いや、くだらないことがいい。

 なんだかその方が、お前と話している感じがするから。

 佐藤は喜びが溢れるのを持て余すように、コートをその場に脱ぎ捨て、駆け出す。

「どこに行くんだよ?」

「わからん! どこかだ!」

 はは。お前も随分、バカになったもんだな。

 佐藤はいなくなると、副総統が口を開き始めた。

「ねぇ。メリーくん。いや、別の名前で呼んだ方がいいのか……」

「いいんだ、おれはおれだから。あんたにとっては、おれはメリーだろうよ」

「……そうか。じゃあ、メリーくん。君の記憶のことなんだけど」

「もう、いいよ。おれはここで作られたアンドロイドだ。それは、疑いようもない」

「君には、深刻な過去が植え付けられているようだ。それを取りのぞくこともできるんだよ。もっといい記憶に書きかえることも。Pちゃんの記憶を戻すついでに……」

「遠慮しとくよ。おれはおれでいたいからさ」

 シフォンは、本当はこの世にいない。もしかしたらもう、お前のことを思い出さなくなるかもしれない。それでも。おれの中から消したら、本当にいなくなっちまうもんな。

「そうかいそうかい」

 副総統サマは笑顔を浮かべ、おれの頭にそっと手を置いた。

 よくできました、ってか?


 ――バリバリ。


 なんだ?

 あの音だ。おれの頭を軋ませる「治療」の音。血が醒めていく。

 最初、どこから音がするのかわからなかった。近すぎてわからなかった。

 おれの、頭の中だったんだ。

「……はは、なんだよ、こりゃ」

「私はね、えこ贔屓はしない。犯罪者は罰されるべきだよ。君は私に牙をむいたんだ。つまり、我が国にね。それがどういうことか、わかるかな?」

 ――バリバリバリ。

「君はこれから色んな疑問を持ち、悩み、噛みつく。それでいいと思う。ただし、私の手のひらの上から飛び出るのは得策じゃないよ。ジャンプするには、足場が必要なんだ。世界がね」

 ――バリバリバリ。

「生まれたのがどんな世界でも、恨んじゃいけないよ。ここが君の世界だ」

 じいさんはてぶくろをはずした。

 ? どういう、ことだろう?

「下々の気持ちを知ることが、民政の基本だよ」

 おれはたおれる。だれかのこえがする。マムのさけびごえ。血がかかる。じいさんがあたまから血をながしている。マムが血のついたイスをもって、たっている。またふりかぶる。

 なにもかんじないんだ。

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