【6章 助走】『バカ』

 翌日。おれは治療室にいた。貧乏ゆすりをしながらちらちらと入口を窺う。

 もう約束の時間のはずだ。

《落チツケ 焦ッテモ 意味ネージャン》

 ドアがノックされた。大柄の看守が二人、顔をのぞかせる。

 おれの顔を見ても、にこりともしない。おれは塔に戻ってきて以来、誰からも声をかけられなくなったんだ。

 はは、こいつに関わると面倒だって、だれしもが思ったんだろうよ。

 2人が、『迷える子羊』を部屋に招く。おれは息を飲んだ。

 顔をのぞかせたのは――。

「久しぶりだな、ホントに会えるなんて」

 トトが手を顎に当てて、斜に構えて立っていた。髪を弄って、おれとPに向かって微笑む。囚人服が、タキシードに見えちまうくらいなんだ。

 トト!

《ダカラ ウマクイッタッテ 言ッタロ》

「……あぁ!」

 おれとトトは向き合って座る。トトが握手を求めるが、おれは手を握らなかった。

 男の手なんか、握らないってぇの。

 トトは興奮した様子で言う。

「すごいな、本当にこんな風に会えるなんて。なぁ、トナカイくん!」

「……はは、それ、やめてくれ」

 数年来の友だちに会って戸惑っているような、奇妙な照れくささを感じた。あんときは緊急事態で濃い時間を過ごしたような気がしたが、おれたちはまだ1回しか会ってないんだ。

 それでも、すごく懐かしかった。

「なら、どう呼んだらいい?」

「名前くらい、後から考えるさ」

 そうさ。今はおれの名前なんか問題じゃない。

 この島を出たら――そんときは晴れて、いかした名前をおれ自身につけてやりゃあいい。

《オ前 ダレ?》

「えぇー? 嘘だろぉ? お茶目だな。久しぶりだね、サンタさん。トトだよ」

《ソッカ》

「……なんか調子悪い? こないだと様子が違うな」

 Pは歯切れ悪く言う。

《チョットナ 胸ガ苦シイ》

 Pがすっきりしない理由はわかっている。ただ、その話は後回しだ。

「大丈夫さ。よくあるんだよ、こいつ古い型だからさ」

《年増扱イ スルナ》

 トトは、少しシリアスな顔で言う。

「……しかし、この塔ってのはすごいところだな」

「まぁな。衣食住から夜のお悩み解決まで、なんだって揃っているからな」

「大半の人間はここを不満に思うことはないだろうね。多分、ぼくでも」

 そう言って物珍しそうに部屋中を見渡す。トトもやはり、治療を恐れているのだろうか。

「入るのにも色々チェックを受けたし……よく出れたな、こんなところを」

「不思議なんだよ。おれにもわからないんだ。どうしてあんなことができたかわからないし、もう一回やれって言われても、不可能に思えるくらいだ」

 そうだ。トトの顔を見てから、おれの中に新たな感覚が生れていた。

 ついさっきまで、トトを治療し次第、またここを出てやろうと決めてたんだ。

 だけどこいつの顔を見た瞬間、おれの中から熱い気持ちは――この世界から飛び出せる――そんな衝動は、水をかけられたみたいにおさまっていた。

 それは達成感だ。

 トトにこうして会えたことで、カタルシスを覚えてしまったんだ。それでも気持ちは冷え切るわけでもなく、体温と同じ温度で、腹の中にたゆたうだけ。

 おれを突き動かそうとはしない。

 牙が抜けて、健康的な丸みを帯びた歯に生え換わった狼みたいな気持だった。

 自由とかそういうものは求めていない。

 ここで、再び償いをしなくちゃならない気がしたんだ。

「何を弱気になっているんだ? 君は、何かを悔やんでいるんだろう。それを償いたいという気持ちもわからなくはない。でも、それはここを出るのをためらういい訳だよ」

「いい訳? ふざけんなよ!」

 どうして、トトとこんな風に言い争わなきゃいけないんだ?

「ふざけてなんかいないよ。君は、やり遂げたじゃないか。だから、ぼくがここにこうして座っていられるんだ。そうだろ?」

「おれはずっと、誰かのことなんか考えもしないで生きてきて、でも今こうしていられるのが、すごく嬉しくて……。すまん。おれも、自分で何言ってるかわかんねぇ」

《……》

 Pは黙っている。細かく息を吐くだけ。

「君は何に縛られているんだ? 何を恐れているんだ?」

 トトは声の温度を上げ、おれに詰め寄る。

「ぼくは君に感謝しているんだよ。だからこそ、ここでくすぶっているのなんか見ていられないんだ。君は自由になれる。その力を持っている」

「おれは、跳べるのか?」

 おれは言った。口が勝手に動いていた。

 そうだ。おれは、跳べるのか?

「とぶ?」

「そうだ。誰かのために」

 Pのために、ヘリコプターから飛び降りたときみたいに。

 あんな勇気が、おれの中にまだ残っているんだろうか?

「とべるさ。君はトナカイなんだから」

 トトは当然とばかりに言った。

 そして、続けた。

「もちろん、トナカイだけじゃ空はとべない。でも――。サンタがいれば、トナカイだって冬の空を駆けることができるさ」

 トトのエネルギー。

 おれを強く動かす。

 おれはまた、Pのために――そしておれ自身のために「跳ぶ」ことができるんだろうか?

「……あんまり話していると怪しまれるな。さっさと治療をしよう」

 おれには一つ考えがあった。トトの願いを叶える方法。

「トト。お前、役者志望だよな」

「志望じゃない。完全に役者さ」

「……一世一代の演技だ。やれるか?」

「どういうことだい?」

「今から、治療をする。ただし、

 Pにはもう伝えてある。

 本来の治療は、長時間激しい電気ショックを与えることにより、脳の一部の機能を弱らせる目的がある。つまり電気を与える力、量が足りないと治療はうまくいかないんだ。

 今から、

 Pによって治療させることで、治療し損ねるんだ。Pは電流のパワーを調整することが可能らしい。

「無気力なふりをすればいいんだ。科学的なテストもなくはないけど、もっとも優先されるのはカウンセリングだ。結局は心の問題だからな。カウンセリングで医者を騙せさえすれば、素面のままここを脱出することができる」

《……》

 Pは何も言わない。Pは治療を嫌がるようになっていた。人間より、人間らしい感情だ。

 いつか、泣いたいり笑ったり、本当にできるようになるかもしれない。

 おれだって、こんなことはさせたくない。

 でも頼む。

 今回だけはお前じゃなきゃいけないんだ。調整できるのはお前しかいなんだから。

「なるほどね」

「……よし! それじゃあ、始めるぞ」

《……ワカッタ》

 Pは立ち上がり、トトの頭に手を置いた。

 ブリキの手。冷たい、手。

「でも、いーや」

 トトは優しくPの手を除け、おれに向かって能天気に笑う。そして、治療用の椅子に腰をかけた。自ら拘束用の革ベルトをつけていく。

「さぁ、始めてくれ」

「何言ってんだよ! うまくいかなかったらどうするんだっていいたいのか? 大丈夫だ。ここの医者たちのチェックはいいかげんだ。仕事に対してまともにやる気がないんだよ」

「君たちは? もしこの嘘がばれたら、君たちはどうなるんだ?」

「……しらねぇよ。こんなこと、やったこともない」

「だとしたら、頷けない。ぼくは、アクション俳優としては一流だけど、表情やセリフとなると……ちょっとね」

 そう言っておどける姿は、おれをたまらなく焦らせた。

「冗談言ってる暇ないんだ。お前が大丈夫って言ったって、それは精神論だ。気合や心意気だけじゃどうにもならないこともある。トト。お前はすごいやつだ。でも人間だ。腹も減るしクソもする。そういう機構まで、気持ちで誤魔化すことはできないんだよ」

「いいから――。はじめてくれ」

 クソ、どうしてこう頑固なんだ!

『早く治療を始めなさい』

 天井のスピーカーから、イカレポンチの科学者の声がする。クソ、これ以上もたついていると何か企んでるって感づかれちまう。音声が伝わってなくても、動きでバレる。

「ぼくを信じてくれ」

 トトは言った。

「ぼくはあのとき、君を信じたよ」

 あの日。朝日を背に、トトは笑った。あのときおれは言った。

『おれを信じてくれ』

 トトは迷いなく頷いた。一瞬の不安もなく、頷いた。

 その日出会ったばかりのおれを、信じてくれたんだ。

 ……ダメだ。こいつは本当にバカなんだ。

 自分を特別だと思っている。自分なら、常人にはなしえないことができると思っている。

 はは。負けたよ。

「ほれ」

 トトにマウスピースを投げ渡す。トトはカッコつけてそれを受け取って、口にはめた。

 おれは言う。

「……トト。約束してくれ」

「なんだい?」

 おれは笑った。塔を出たときは、島の外に出てどうしたいか、わからなかった。

 でも今、理由ができた。トトに会いに行くんだ。

「結婚するんだろ? 式やるときは、絶対呼んでくれ」

 トトも笑った。マウスピースをして、不格好に歯ぐきをむき出して笑ったんだ。

「愛の集う場所で、また会おう」

 おれは頷いた。


 おれとPは外に出た。

《男ッテ ばかダナ 気ガ 合ウンジャネーノ》

「はん。あんなやつとあってたまるか」

《……ホント 素直じゃネーノナ》

「あー、もううるせぇ!」

 おれはスイッチを押した。

 問題はいつだって、スイッチを押すか押さないか。

 この選択を後悔する日が来るんだろうか?

 わからない。でも、今は信じるしかない。

 おれはあのバカに賭けたんだ。脳味噌がいかれたくらいじゃ負けやしないって、賭けたんだ。

 トトの叫び声が聞こえる。おれの背中を追いかけるように、聞こえてくる。

 エレベーターに乗る。

 ずいぶんと疲れた。今はただ、眠るしか出来ない。

 トト。また、会えるよな?



 3日後の朝。おれは目覚めるなり、メールでトトが解放されたことを知った。

 瞬間、これまでの不安は吹き飛んだ。

 トトならきっとうまくやる。治療の無気力なんかにくじけず、また立ち上がる。

 ドロシーの妹を、カッコつけて攫って見せるさ。

 おれは何度も心の中で唱えた。

 ――おれは正しいことができたんだ!

 あとは、おれがこっから出るだけだ。

 まずはキャンディに話をして、ダストシュートを開けてもらわなくちゃいけない。

 定期船がくるまでにはまだ時間があるが、どうにかテルコにもコンタクトを取ってみよう。

 作戦の決行まではまだ少し時間がある。たっぷり作戦を練って、今度は危なげなくこの世界から出てやる。

 Pはぼんやりと立っている。

 ここんところ、よくぼんやりしてたんだ。きっと、トトのことが気がかりだったんだ。

 でも、心配いらないさ。むしろおれたちは自分たちのことを心配しなきゃな。

「おい、P! こっから脱出する作戦立てるぞ!」

 おれが意気揚々と言うと、Pは右手を上げた。


《早ク 人間ニ ナリターイ♪》


 ……なんだって?

「そんな冗談いいって」

《早ク 人間ニ ナリターイ♪》

「……嘘だろ!」

《早ク……》

「おいって!」

 おれがなんと声をかけても、Pは、同じ言葉を繰りかえすだけだった。

 初めて会った日と、同じように。

 なんだってんだよ?

 どうして、こうなったんだ?

 目の前が真っ白になった。

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