【4章 EMOTHION(S)】『寒くて、どうしようもなく孤独で、不自由な世界』

「××××!」

 ヘリから、ドロシーが何かを叫んでいる。だが、聞きとれなかった。

 ヘリは飛んで行った。

 遠ざかって光の点になる。雪に混ざって、なにやら白い塵が舞った。

 婚姻届だ。

 ……婚約解消ってことだな。

《めりー? 今 背中ニ……》

「背中? 大丈夫だ! ……んなことより、それどこじゃねぇ!」

 息をつく間もなく、後ろから階段を上る音が聞こえてくる。

 それも複数。この騒ぎを聞きつけて、誰かが様子を見にきたんだ。

 まずい。今捕まったらなんにもならない。

 最高の作戦は潰れちまったけど、何か活路を見いだすしかないんだ。

 まずは塔を出る。おれはPの手を引いて、階段へと向かう。

《ナァ》

「なんだよ」

《サッキノ服 着テミタイ 白イひらひら》

「ウエディングドレスか? 今はそれどころじゃねぇだろ!」

 階段は一つしかない。

 その踊り場に、警備員が2人いる。オカマの警備員。

 あいつら、丸太みたいな腕してやがんだ。まともに殴りあいしたって、勝てるわけがない。

「ちょっとぉ、なにしてたのよぉ」

「わけをきかせてもらえるかしらぁ?」

 今捕まるわけにはいかない。おれとPは、一生会えなくなるだろう。

 おれは世界を変えたいと思った。

 でも今は違う。

 世界のことなんかどうでもよくて、おれ自身のことで頭がいっぱいなんだ。

《我ニ 秘策 アリ》

 Pは言うなり、地面に寝転がった。そして、

《ダハハハッハハ》

 階段をゴロゴロと転がり落ちて行く。

 ガシンガシン。激しい金属音を立てる。警備員に向かって、丸太のごとく突撃する。

『おひゃあ!』

 屈強な男2人をなぎ倒す。

 無理もない、鉄柱が階段から転がってきたのと同じだ。おれはあんまり間抜けな光景なんで一瞬呆気にとられ、固まった。

 だけど、それどこじゃない。

「行くぞ! ついてこい!」

 おれは階段を2段飛ばしで駆けおり、男たちを後目に走った。Pも後に続く。

 エレベーターにたどり着いた。これで一階まで行く。

 しかし、エレベーターはまだ半分も来ていない。後ろから、男たちが騒ぐ声が聞こえる。

 どうしたらいい?

 どうしたら……。

『あん、あん♡』

 ……あん?

 どこからか聞こえる、あまりに場違いな嬌声。くぐもって濡れた声。

 みんなで、シリアスになっているおれを笑おうとしている。

 どこから聞こえるんだ?

 いや、そんなのはどうでもいいんだ。早く来い!

 エレベーターのボタンを激しく叩く。無意味だとわかってても叩かずにいられない。

 問題は、ボタンを押すか、押さないかだ。

《見ーツケタっ!》

 Pはしばらく壁に耳をそばだてた後、ダストシュートの蓋を開けた。暗闇の中から、緑色の灯りがぼんやりともれてくる。

「あん、あふぅ♡」

 ……中から声がさらに漏れてくる。くぐもった声がクリアになった。

 エデンの園、ね。

 ダストシュートの中には、ハシゴにつかまって激しくキスをしているキャンディと……男がいた。男の顔は見えない。金のカフスボタンだけがキラっと光った。

 キャンディと目が合う。

「あら、メリー? ハロー♪」

 こんな情事を見られてさえも、いつものように微笑むキャンディ。飴みたいに、甘く笑う。

 お前、なんかカッコイイな。

「君は……」

 男は言う。聞き覚えのある声だったけど、忘れちまった。

「キャンディ! かくまってくれ!」

「どうぞ、王子様」

 おれはキャンディたちと入れ替わりで、ダストシュートの中に入る。ハシゴだけを頼りに闇に身を預けた。手が震える。細いハシゴ。頼りないんだ。

「下まで降りれば、に出れるわよ。回収業者用のドアがあるの。下にゴミがたまってるから、ゴミまみれだとは思うけど」

「どうして、おれが外に出たがってるってわかるんだ?」

? 冒険が好きなのよ」

 デリカシーのない足音がする。警備員たちだ。

「キャンディ。おれたちのこと黙っててくれないか?」

「いいわよ。貴方のこと訊かれたらこう答える。『彼らの行方は、神すら知り得ない』って」

「……はは、エデンの園なのにな」

「神さまの目の届かない場所も、一ヶ所くらいあっていいじゃない?」

「……だな」

「ただし、私たちのこと黙ってくれるならね?」

 そう言って、イタズラっぽく笑った。

「あぁ、いいぜ」

 おれは顔を出して、Pを呼ぶ。

「早くお前も来い! ここを降りるぞ! 一番下まで」

《アイヨ》

 言うとPはダストシュートの入り口をくぐり、そのまま――。

「おい!」

 そのまま、まっさかさまに落ちていった。

 いや、下まで降りるとは言ったけどよ!

「あ、誰か来たわよ!」

 キャンディがはしゃぐように言い、ダストボックスの扉は閉められた。

 鍵のかかる音がする。扉越しに、くぐもった会話がきこえる。

 Pのやつ、200メートル近くをまっさかさまに落ちたんだ。

 大丈夫か? 途中でハシゴに掴まれたのか?

 どちらにせよ、おれはハシゴを降りて行くしかなかった。

 黙々と降りる。手を滑らせないように。

 黴くさい。暗くて、どれくらい降りたかわからなくなる。寒さですぐに手が痺れる。止まって、片手を離し、手を握ったり開いたりして血を通わせる。

 ときどき上からゴミが落ちてくる。

「うべ」

 降りていくにつれ、鼻をつくにおいが強くなる。

 エントツを降りるサンタとは、ずいぶん扱いが違うじゃねーか。

 手を止めるな。何も考えるな。降りろ。手足を動かせ。同じことの繰り返しだ。

 時間の間隔が一切なくなった。ただ、まだ底には着かない。

 おれは底の方に向かって声をかけてみる。

「おい、大丈夫か!?」

《タブン》

 Pの声だ。とりあえず、ふざける余裕はあるらしい。無事みたいだ。

 それからまたしばらくして、一番下へとたどり着いた。

 底は少し明るい。ますますたまんねぇ臭いがする。足元のゴミは、生活ゴミが大半だろう。

 ときおり大きな影も見える。足場の悪い中、動いている影がある。

 Pだ。

「……大丈夫そうだな。お前、ホントに頑丈なのな。ぶっ壊れたかと思ったぜ」

《屁ノ かっぱ》

 はは、頼りがいのあるこって。

 ダストシュートの底は、どうやらかなりでかいらしい。底の平らなフラスコみたいな構造になってるようだ。わずかに光が漏れている場所がある。

 おれはただ、そこを目指した。誘蛾灯に導かれる虫みたいに。

 スチールのドアをPがぶっ壊す。とんでもねぇ馬鹿力。

 こいつがいなきゃ、おれはここで足止めを食らっていたかもしれない。

 おれは纏わりつくたまんねぇ臭いに顔をしかめながら、外に出た。

 外の世界。

 焦がれていた、世界だ。

「……」

 コンクリートの地面に、雪が積もっていた。目の前には、有刺鉄線付きのフェンスの囲いがある。

 吐く息が白い。骨の芯まで沁みるような寒さだ。

 空には、月が浮かんでいた。

 粉雪が幻想的に舞い、おれの頬を打つ。頬を触る。

 頬にヌルヌルするモノがついている。腐ったタマネギの皮。

 服も、生ゴミの匂いがする。

 そんなことも気にせず、おれは立ち尽くす。

 言葉を失っていたんだ。


 そうか。

 これが外の世界か。

 この寒くて、どうしようもなく孤独で、不自由な世界。

 それでも。

 夜中なのに、世界はキラキラと輝いて見えた。

 目が潰れちまいそうなくらい、眩しかったんだ。

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