【3章 ホメオスタシス】『軽薄でいられたあのとき』
たった3日離れていただけなのに、自分の部屋がまるで他人の場所に感じられた。おれが戻ってくると、ドロシーは満面の微笑みを浮かべて、片手でハグしてくるんだ。
人肌に触れるとたまんねぇ気持ちになる。
これがどういう感情かは、うまく説明できないけれど。
Pが見当たらない。だが、ドロシーにそれを訊くのはご法度だろう。
「メリー、おかえり! ……もー、お口くさいよ? きゃはは」
「そういや、歯ぁ磨けなかったな」
「早くちゅくちゅくしよ?」
文句を言いながら、ドロシーは嬉しそうなんだ。
おれたちは、洗面所に向かった。
「ねぇ、熱っぽかったりしない? なんかボーっとしてるね」
ゆっくり歯を磨く。鏡越しにドロシーと目が合う。
むずがゆくて、何を話していいのかわからないような沈黙が流れた。おれの心は軽くなっていたけど、前とまったく同じようにはなれそうになかったんだ。
「メリー? やっといつも通りになったね?」
そうだ。いつも通りになれば、どんなによかっただろう。
おれたちはまだ戻れるのか?
軽薄でいられた、あのときに。
生ぬるい時間はあっという間に過ぎ、部屋にマムとPがやってきた。Pのメンテナンスをしていたらしい。
「……あの女、どうなったんだ?」
おれはマムに尋ねた。マムは厳しい表情をした。
「治療したわ。仕方ないのよ、同意書にサインさせちゃった以上」
同意書。ただの紙切れ。
紙きれは時に、魂より重要視されるんだ。
あの女は自由を手に入れて、悠々と過ごすんだろうか?
言葉を探すおれを差し置いて、ドロシーが口をはさんでくる。おれを慰めるんだ。
「だって、あいつ1人殺しただけじゃん? こないだのジジイなんて7人だよ?」
「黙ってなさい」
いつもならマムの一言で大人しくなるドロシーだけど、今回は違った。張り詰めた声。
「ううん、黙ってらんないよ! だいたいさー、最近どうかしてたんだよ、メリー? ねーえ、辛気臭い顔してないでさ、元に戻ってよ?」
「……ドロシー」
ドロシーは涙ぐみながらおれの腕を取り、胸を押しつけるんだ。
「ね、ねぇ? もしかして、たまってるんじゃなぁい?」
やめてくれ。おどければおどけるほど、胸がスカスカするんだ。
「最近そのロボットのせいで、全然くっつけてなかったしさ」
やめてくれよ。
ドロシーは、Pにまで火の粉を飛ばす。
「あんたのせいでめちゃくちゃ! 人間の問題に機械が首突っ込んでんじゃないわよ!」
やめてくれ!
《早ク 人間ニ ナリタイ》
一瞬、誰の声かわからなかった。
おれの頭が理解する前に、Pが動いていた。Pが叫び、ドロシーに平手打ちを喰らわせたんだ。ドロシーは呆気にとられた様子で固まっていたが、すぐにPを睨みつけた。
「なによ? ムカつくのよ、あんた!」
《スベカラク ナントモナシニ ムカツク》
「……ムカついた? お前が?」
おれは驚きのあまり、しまりのない声を出すことしか出来なかった。ドロシーは、悪意をおれにも広げてくるんだ。
「なに? メリー、またそのロボットの味方すんの?」
「……味方? いや……」
「見損なったよ、メリー。サイッテー」
ドロシーは聞いたこともない抑揚のない声で呟き、出て行った。
ドロシーだけはお偉いさんの娘って特権で、自由にここを出入りできるんだ。
しばらく、本土に戻るつもりだろう。放っておけばいい。
あぁして騒ぎ立てるのに、いちいち反応するから余計騒ぐんだ。
マムはおれを見ていた。
一体、どういう気持ちで見ているのだろう?
「……マム。佐藤は?」
おれは話を逸らすように訊いた。
「それが、ずっと部屋にひきこもって出てこないのよ」
「またか。今度はなんなんだ?」
「Pにプロポーズして振られたらしいのよ……」
おめでたい野郎だ。ま、プロポーズをお断りできるくらいの知能があるのが驚きだけど。
マムは、Pの肩を持って言う。
「それより。この子は知能が発達してきている。チューリングテストが必要だと思ったら、連絡してちょうだい」
マムは出て行った。おれとPだけが取り残された。Pはこちらを見ている。やっぱり、自ら話し出すことはないようだ。おれが話すのを、待っているのか。
「……よぉ。久しぶり」
おれは機械相手なのに気まずくなって、思わず声をかけたんだ。
《ヨォ》
はは、なんだよ。相手の言葉を拾って、会話風に繰りかえすだけだ。少し成長したみたいだけど、とても人間みたいだとは言えない。感情なんかない。言葉を組み立てる術を覚えただけの機械。驚いて損した。はは。
誰もいなくなっちまった。いるのはこいつだけ。
ヘリコプターの音が響いた。ドロシーだ。
窓の外の闇を、ヘリの光が切り裂いていくんだ。耳を塞いでもなお、うるさく響く。
……おれは、どうすればいい?
――それから、1ヶ月が経った。
おれはずっとPといた。ドロシーは帰ってこねぇし、佐藤も出てこない。
自然とPに仲間として接するようになった。愛着を感じ始めてしまったような気がしたけど、おれはその気持ちに蓋をした。
言語機能はみるみるうちに発達して、話し相手程度にはなるようになった。Pが成長するにつれ、おれの日々は、心は、どんどん変わってしまった。
おれの「ほめおすたしす」は、めちゃくちゃになっていたんだ。
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