【3章 ホメオスタシス】『どいつもこいつも、おれをからかっているんだ』

 治療室に来ても、どうにも頭痛が止まらない。

 資料はドロシーに読ませることにした。ドロシーが後ろに立っているPの方を振りかえり、ときどき睨みつけた。そんな神経質な行動が、今はたまんなくうっとおしい。

 おれは「どーぞ」と気の抜けた声で子羊が入ってくるのを促した。

 中年の女が入ってきた。昨日の女に比べて、痩せている。

 女は俯いている。髪はぱさぱさと乾き、顎はガリガリにやせ細っていた。女が顔を上げた。

 おれはその顔を見て激しい既視感を覚えた。

 ……ん? いや、嘘だろ?

「こんにちは。よろしく」

 女はそんな平凡な挨拶を、たまらなく億劫そうに言った。おれは喉がひりついて、声が出せなかった。二日酔のせいじゃねぇ。

 おれは、

「きゃははは、おばさん、ひっどい顔……ってなに、メリー? あ、ちょっと!」

 おれはケラケラ笑うドロシーの手にあった資料をむしり取った。

 混乱する頭を、どうにかヒートさせないように、ゆっくり回転させる。

 資料にはこうあった。


 患者名:**** ****

 罪状:殺人罪

 被害者名:**** ***

 備考:被害者**** ***は、患者**** ****の長女。

 長女は「S」の芸名で芸能活動を行っていた。


 汗が噴き出る。たまんねぇ、粘つく脂汗。

 S?

 

 おれの頭の中で、何度も殺されるアイドル。頭ん中で、例のステージの映像がモノクロじゃなく、極彩色で再現された。シフォンの腹から血が流れる。血だけが黒くて、生ぬるい。

 触っていないのに、温度まではっきりとわかるんだ。

 何かの冗談だ。それか偶然。偽物の記憶だ。マムが実際の事件を元に作ったんだ。そういうクレイジーなとこがあるんだよ。

 黙っているおれを、女は怪訝そうに眺めた。そして、少しいらついた様子を見せた。

「早く始めてくれる? 『治療』」

 同意書さえ書かせてもらえりゃ、こっちのもん。そんな顔をしてやがんだよ。

 ドロシーは、おれの顔をちらちら盗み見ながら、「同意書、書かせちゃう?」と尋ねた。おれは掠れた声で「……あぁ」とだけ答えた。

 ドロシーが同意書を差し出すと、女は粘ついた笑みを浮かべてサインをした。

「……いこ?」

 俯いたまま顔を上げないおれに、ドロシーは手を差し伸ばす。どうしていいかわかんなくて、ただ引っ張られるまま、のろのろと立ち上がった。

 おれの記憶がドラマのものではなく、現実のものだとしたら?

 記憶の中のシフォンと、ここに記された「S」が、同一人物だとしたら?

 おれはこの女を許していいのか? おれの彼女を殺した人間を?

 落ちつけ。作り話と現実をごっちゃにしようとしてどうする。

 こっちの焦りを悟ってか、女は貧乏ゆすりをしておれを嘲笑う。

「……あぁ、あの子がいない世界で生きていけると思うと、胸が躍って仕方がないわ」

「自分の娘なんだろ?」

「だった、が正解ね」

 絵の具の色を全部混ぜたみたいな、濁った吐き気のする瞳をしてやがんだ。

「あの子は自分がかわいいってわかってたの。調子に乗ってたんだわ。誰も、私のことなんか見ちゃいなかった!」

 女は叫んだ。みじめったらしい感情から発せられたその熱は、あまりに激しい。おれも感化されて、思わずヒートアップした。

「それでも、お前の娘はお前を必要としてたんじゃないか? だから……」

 シフォンは、母親に愛されたがっていた。彼女はこの母親のせいで、自分が醜いって思い込んだ。愛してもらえないと思い込んでいた。

 だからアイドルになることでかわいくなって、母親に好きになってもらえるって信じてたんだ。

 おれはそんな彼女の夢が叶えばいいって、ずっと願っていたんだ。

「メリー!」

 ドロシーの怒声が響いた。おれの背中は汗でびっしょりになっていた。

「こんなクズに構ってどうするのさ! 体調悪いなら終わらせて寝てた方がいいよ!」

 おれは女に何か言いかえしたかったけど、なんにも言葉が出なかった。息が苦しいんだ。

 今までにない気持ちで、どうしたらいいかわかんないんだよ。

「クズ? そうね、そうだわ。ま、ね?」

 女は笑った。


 部屋を出た。あの女が視界から消えただけでも、少し楽になった。今日は部屋の外のスイッチでの治療だ。Pを使った治療は、再テスト後になったようだ。

「えーと、カンイン……?」

 ドロシーが、ボタンの前で口上を唱えていた。相変わらず曖昧だった。ドロシーは途中で諦め「いいや」と、スイッチに手を伸ばした。

「……待て、ドロシー!」

 それを押したらもうとりかえしがつかなくなる。別に、あの女に復讐したいって思うわけじゃない。ただ、問題を先送りにした方がいいんだ。

「今日は、中止にしよう。明日までよく考えて、判断したほうがいい」

「何言ってんの? もう同意書も書かせたじゃん」

「いいから、中止だ!」

 おれは声を振り絞った。自分の声なのにヒステリックで、たまんなく耳についた。ドロシーは呆気にとられて目を丸くしたあと、顔をしかめ「好きにすれば」と素っ気なく言った。

 でも即座に「ううん。メリーがそう思うなら、それが正しいんだよね」と伏し目がちに付け足した。自分に言い聞かせるようだった。

 警備員に連絡し、中止を告げた。警備員のオカマ野郎は「思いつめるのはよくないわよ? スッキリさせてあげようか?」と誘うようにクスクス笑った。おれは乱暴に内線を切った。

 どいつもこいつも、おれをからかっているんだ。


 帰りのエレベーターの中では、一言も口を利かなかった。埃臭いエレベーターが、おれをおちょくるように唸り続ける。間が持たなくて、冗談めかしてドロシーの手をとろうとした。

 いつもと同じように笑っていたかったんだ。

 だが、ドロシーは握りかえしてこなかった。それでも、すぐにハッとして「ぎゅー♪」とわざとらしくおどけておれの手を握りかえしてきた。

 こんなことは初めてだった。いつもならすぐ握り返してくる。ドロシーはきっと一瞬ながら、おれに対する不信感を抱いた。それを拭うように、手を握った。

 悪い。でも、わかってくれ。こんなわけわかんない気持ちは、初めてなんだ。

 本部に戻ると佐藤がいた。頭に包帯を巻き、首と胴にコルセットをしていた。ぎくしゃくと動き、Pよりもロボットらしい動きをする。

 佐藤は情けなく笑い、Pに声をかけた。Pは相変わらず意味のない言葉を発するだけだった。

「メリー。ちゃんとPちゃんに話しかけてあげてたのか?」

 佐藤は、Pが成長すると処分になっちまうのを知らないんだ。アサガオを育てる小学生みたいに、Pが育つのをワクワクして待っている。その純粋さはおれにはたまんなく毒だ。

 おれがこたえる前に、ドロシーが佐藤に言う。

「メリーはこのポンコツロボットにばっかり構ってる暇ないの! 体調悪いんだから」

「なんだと! お前みたいなチビ女にPちゃんを侮辱する権利などない!」

 おれはたまらず口を挟む。

「頼むから黙っててくれ! お前ら、おれを怒らせようとしてんのかよ?」

 まったく、どうしてこうピリピリしなきゃいけねぇんだ。おれたちは仲間だ。

 このくだらねぇ世界で、唯一の仲間なんだ。

 気は合わねぇしムカつくことばっかりだけど、それでも仲間なんだよ。


 部屋に戻ってすぐ寝ちまうことにした。今は何をしても、うまくいく気がしないんだ。投薬なんか後回しにしてぇけど、今日中にやらなきゃいけねぇ。

 

 終わったらただ眠ろう。

 ところが、テーブルの上に置いた注射器がなかった。絶対ここに置いたはずだ。

 おれはすぐ佐藤を疑った。なにせあいつ、おれのせいで大けがしたんだ。恨みに思ってたって不思議にゃ思わねぇが、ちいとタイミングが悪いんじゃねぇか?

 おれは佐藤の肩を掴んだ。睨みかえしてくる。盗人猛々しいたぁ、このことだ。

「不満があるなら聞いてやるさ。ただな、こういうやり方は穏やかじゃねぇよな」

「何のことだ?」

「何のこと? 注射器だよ。テーブルの上に置いてあっただろ。どこに隠した?」

「知らん」

「メリー、注射器がないの?」

 ドロシーは「探してくる」とおれの部屋に入っていった。おれは佐藤を睨みつける。

「お前以外に、誰が盗めるってんだよ?」

「知らないと言ってるだろう!」

 殴りかかる寸前で、どうにか堪えた。ここで佐藤を殴っても何も始まらないんだ。

 おれはバカで軽薄だけど、そこまで落ちぶれちゃいない。

「あったよ、メリー!」

 部屋の中からドロシーの声がした。ベッドの下から、見つかったと言う。

 それじゃ、一体誰が……? クソ、こんなことで心を乱されてる場合じゃない。

 おれが今考えるべきことは、ただ一つ。

 

 そんなはずない。おれはここで生まれた、アンドロイドなんだから。

 Pがこっちを見ている。物言わぬロボット。どうしてだか、たまらなく安心する。

「そんなすみっこに立ってねーでよ、椅子にくらい座れよ」

《ファ誌ひふぇわぢ喪らじゃ》

 意味のない言葉は、おれを傷つけない。今はちょうどいい。

 おれは注射をした。

 いつもより、気持ちがいい。血が沸々と湧きあがる感じがするんだよ。

 血が泡立って、

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