【3章 ホメオスタシス】『おれが誰かに優しくしちゃいけないか?』


 次の日になっても、おれのイライラは絶妙に残ってやがった。消えるわけでもなく、膨らんで弾けるでもなく。ただただ居座ってやがんだ。

 家賃くらい払ってくれよ。

 昨夜は、目を瞑っても気持ちが休まらなかった。仕方なく夜中に起きて、久々に酒を飲んだ。

 別にうまいとは感じなかったけど、アルコールは少しだけおれの心を救ってくれたんだよ。

 ただ、その代償として、今日のおれはまるっきりキレてなかった。

 ひどい二日酔いだ。気付いたら、頭は張り子になってマチ針でも刺されたみたいに痛むし(これも、オズの魔法使いさ)瞼は腫れてるし、口の中はざらざらしやがるんだ。

 しかも、今日に限っての日ときている。

 おれはテーブルに置いた注射器を取り、左腕の青いにょろにょろに針をずっぷり差してやるんだ。注射器の中に入った透明の液体が、おれの体に入ってく。血に乗って、流れていくんだ。

「ほめおすたしす」ってのを保つための薬だと、説明された。「ほめおすたしす」ってのは、「コウジョウセイ」を保つことらしいんだけど、よくわからない。

 首を傾げるおれに、マムは「メリーちゃんがメリーちゃんであるために必要なの」と説明してくれた。

 なるほど、おれはおれじゃなくなるのは困る。

 おれはメリー。イカしてイカれた羊飼い。

 月1日、1日2回、こうしてブッスリいくんだ。科学者のうさんくさいおっさんより、自分でやった方が安心できるしな。(マムは注射針でさえ、おれを傷つけられないって言うんだ)

 注射器をテーブルの上に置いた。夜にもう一本やんなきゃならない。

 おれは再びベッドに入った。


 昼を過ぎてもベッドでうだうだしていると、ドロシーが訪ねてきた。まだ吐き気がする。

 今日はおれは休みで、ドロシーと佐藤が当番だ。佐藤は昼過ぎまで精密検査を受けてから戻ってくるらしい。ケガは大事に至らない程度だったようだ。アバラにひびが入ったくらい。

 はは、よ。無事で何よりだよ。

「ねぇー、大ニュース!」

 ドロシーお嬢ちゃんが持ってくる大ニュースってのは、今まで大ニュースだった試しがない。

「悪いけど、今日は放っておいてくれよ」

「そのロボットはいていいのに、なんであたしはダメなの?」

「別におれだって好きで置いてるわけじゃない。ただ、離れようとすると昨日みたいに暴れるかもしれねぇ。佐藤のケガ知ってんだろ?」

「なんであのロボットの味方するの?」

「だからしてねぇよ! 下手なことすっと危ねぇって言ってんのがわかんねぇのかよ!」

「メリー?」

「……悪ぃ。とにかく気分がよくないんだ。話なら、短めにしてくれるか?」

 おれは聞きたくもなかったが、話を聞くことにした。

 ベッドの中に招き入れる。ドロシーはやや固い表情を崩し、おれの隣に滑り込んできた。

「あのね!」

 不安を吹き飛ばすように、ドロシーは大声で言った。金切り声が、頭に響く。

「こないだね、あたしの妹が誘拐されたの!」

 もちろん一般的に誘拐されたっつったら、大騒ぎになるんもんだ。

 それでも、おれは特別リアクションをとらなかった。

 つーのも、ドロシーの家はみなさんご存知の通り金持ちで、ドロシー自身も何度か身代金目的の誘拐を経験しているという。ハロウィンパーティーより特別感がないんだ。

「ま、もう解決して妹は帰ってきたし、犯人は捕まったんだけど……。犯人がすごく変なやつみたいでさぁ」

 頭が痛ぇ。血が、全身に痛みを運んでいるみたいなんだ。

「すごいカッコつけ野郎でさ、警察に引きずられてるときも、顎に手ぇ当ててさ、ポーズつけてカッコつけてんだって。でも、うちの妹すげーバカだから、それに惚れちゃったみたいなの!」

 誘拐犯と被害者との間で恋愛感情が芽生えるってのは、聞いたことがある話だ。

 ただ、今回その登場人物ってのが、どいつもこいつもおめでたいイカレポンチなわけだ。

「その犯人も、うちの妹に惚れたみたいなの。刑務所から出てきたら結婚するんだって」

「……」

「……だからさ。ねぇー、あたしたちも結婚……」

 予想通り、どうでもいい話だった。いや、ついこないだまでなら笑ってやれるはずだったんだ。だけど、今のおれの気持ちを蘇らせてくれる内容ではなかった。

 ダメだ。こんなところでグズグズ寝てるから、気分が晴れないんだ。

 おれは起き上った。頭がドンと痛くなるけど無視してやる。こんなの昼過ぎになりゃあ治るさ。しっかしマムも、二日酔機能くらいは無くしてくれてもよかったのにな。

「行こうぜ」

「え? どこに?」

「仕事。佐藤のかわりに出てやろうかと思って。佐藤には、一日くらい休みをやろう」

「……メリー、優しいんだね?」

 ドロシーは淀んだ表情のまま、おれを見たんだ。

 なんだよ、おれが誰かに優しくしちゃいけないか?

 マムはおれに人に優しくしろという。どいつもこいつも、勝手なんだ。

 おれは部屋を出た。Pももちろんついてきた。でも、ドロシーのやつが出てこねぇ。

「なにやってんだ?」

 部屋ん中をのぞくと、ドロシーのやつ、おれのベッドの顔をうずめてやがんだ。

「くんくん……はぁーあ。メリーのにおい♪」

 まったく、本人の目の前で残り香をかぐってのはどういう了見だろうね?

 それとも、おれが魂だけ置き去りにしちまったのか?

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