空っぽを包んでくれたから

 思えば、私の新しい人生が始まったのは、十五歳の誕生日からかもしれない。クリスマスシーズンの真っ只中、父の運転していた私達の車が道路陥没による事故を起こしたらしい。助手席、運転席にいた両親はひとたまりもなく、私も知識以外の全ての記憶と心機能の一部を失った。悲しみを感じる隙のないほど、痛烈な出来事だったと思う。それでも他人事のように思えてしまうのは、家族だけじゃなく、家族の思い出すらも死んでしまったからか。


 天涯孤独になった私を引き取ったのは、施設でも病院でもない、八草博士の研究所だった。私が成人するまで面倒を見る代わりに、私は博士達とともに医学の進歩に貢献する。そういったある種の『契約』のもと、私は研究員の住むアパートを借りることにした。


 こうまとめると、淡々と話が進んでいるように思えるかもしれない。しかし実のところ自分が何者か分からない虚無感や、利用されているかもしれないという不安に押しつぶされていた。研究所に手を貸すという選択も半ば自暴自棄の末行ったものに他ならない。だって仕方ない、私には何も残ってないから。少しでも私の存在価値を可視化してくれる場所に、縋るしかないのだから。実際問題、事故の後遺症が記憶喪失だけなら見向きもされなかっただろうし。


 そういった陰鬱な考えは、生活が落ち着いても染み付いて取れない。冬休み明けの学校も、優しくしてくれる同級生達にどうしようもない恐怖を感じてしまった。前とは打って変わって、かどうかは分からないが、無愛想かつ邪険に彼らを扱う私は関わるに値しないと判断されたみたいだ。やがて、ほかの生徒達の得体の知れないものを見るような目に耐えきれず、休みがちになってしまった。


 私だって、本当は受け入れたい。

 優しさを抱きしめたいし、優しさで抱きしめてあげたい。


 でも、記憶がないから、騙されているかもなんて思ってしまう。どうしようもなく、不安になってしまうんだよ。


 無限に高い塀に囲まれたように、私は希望を閉ざして顔を埋めていた。耳も塞いで、目も瞑って。頑丈な壁で包まれた私は一人、絶望に浸かっていた。


──大丈夫だから


 でも、私は温もりに包まれた。

 耳元では、高鳴る心臓の音が聞こえる。どくん、どくん、どくん、どくん。拍動はかなり荒い。研究所で心電図を解析したら、確実に酷い波形になるだろう。きっと博士も溜息をつく。


 顔を上げると、何でもない一人の男の子が私を抱きしめていただけだった。緊張した様子で、真っ直ぐに私を見つめながら。


「絶対に君を、不幸になんてさせない。僕が、自由にしてあげるから、それまで待ってて」


 必死だった。涙目で情熱的で、夢中で語りかけてきた。呆然としながらも、私は首を傾げる。


「星良、君は実験体なんかじゃない。ただの被験者で、一人の女の子だ」

「ちがう......私は」

「一人じゃないから。絶対に僕がついてるから」

「......」


 射抜くように真剣な眼差しに、私は言葉を飲み込んだ。彼が何を考えているか分からないし、実のところ彼が私の何を嘆いてくれたのかも知らずじまいだった。でも、そんなことはどうでもいい。


 彼がついているんだから、大丈夫だ。


 根拠のない安心が初めて私の中で生まれた気がした。不安は消えないけれど、それに負けない安心を彼がくれたんだ。


 不意に心臓に手を当ててみる。どど、どく、ど、どど、どく。相変わらず不気味な鼓動を成していたが、生きていることを少しだけ実感できた。空っぽの私を包んでくれたからだろうか、生きる自信がついた気がする。


 八草くんを好きになって、人並みに生きられるようになったのは、それからの話だ。



 “電波泥棒の夜”以降も私と八草くんの距離はどんどん縮まっていった。理由の一つは二人で行動する機会が増えたから。私達は共に理数科に所属していたため、クラス替えは行われず、特に二人の間を引き離す出来事もなかった。それどころか、私が八草くんを遊びに誘うことが多くなり、二人で出掛ける機会も多くなったのだ。当然、同級生から冷やかされることもあったが、それでもお互いが気にせず一緒に居れる関係になれたのは、日々の積み重ねのおかげだろう。


 そして、理由はもう一つある。同時に、私達がどんなに一緒にいようと、付き合えない事情でもある。


 それは私が被験体としての義務を果たす必要があるからだ。私の心臓の鼓動は八草くんにときめいたあの日以来、少しずつ乱れ始めていた。彼を前にしたときに強く拍動し、その他の人と行動するときは極端に心拍数が少なくなる。研究所一同の意見として、そこに明らかな有意差があるとし、二人の関係を変えないようにすべきという結論が出されたのだ。


 私としては自分の恋心をモニタリングされているような気がして少し気恥ずかしい。またそれと裏腹に、八草くんと付き合えないのがもどかしい。だから早く研究が終わって、好きと言いたい。付き合って、ずっと一緒にいたい。今は叶わない願いが、私の気持ちはどんどん膨らませていった。


 そんなことを思い始めてから、五年が経つ。長いようで短い日々。何も変わらない愛おしい時間。八草くんと過ごせる貴重な瞬間。


──そんな毎日が突如変わり始めたのは、高校を卒業して二回目の秋のこと。


 卒業後、私と八草くんはすぐに八草博士の研究所に就職した。私は被験体として情報を提供しながら事務の仕事を、彼は人工知能や機械制御システムのプログラミングを行なっている。高校を卒業しても顔を見る頻度は大して変わらない。縮まらなくも、遠ざからない微妙なこの距離感は、私を少しだけ焦らせていた。その焦りが研究を一早く終わらせたいという意思に繋がり、研究の効率は少しずつ上がっていた。


慣れた仕事をこなしていたある日、八草博士の部屋で悲鳴が聞こえた。様子を見に言った研究員の一人が八草博士と研究室に再び顔を出すと、絶望的な表情を見せる。顔を真っ青にしながら彼らは研究員を集めて行なった説明は一言だった。


「制御装置がオーバーヒートした......」


 その言葉を聞くや否や、瞬く間に絶望が研究所内全域に蔓延した。どうしようもない。もう終わりだ。ついにか。研究員達の苦しそうな反応を沢山目にする中で、私の目に唯一焼き付いたのは、八草くんの雷に打たれたような泣き顔だけだった。


 八草くんは一人だけ泣いていた。

 その涙の──世界一優しい涙の意味を、私はまだ知らなかった。


 その夜、八草くんは勤務が終わった私のもとに私服で訪れた。急な訪問に驚いた私はせっせと部屋を片付けて、彼を部屋に上げる。気を遣わなくていいのに、なんて微笑む彼の顔はいつになっても愛おしい。


「なあ星良、聞いて欲しいんだ」

「どうしたの?急に仰々しく」

「制御装置について星良はどこまで知ってる?」

「うーん。実は、全然知らないんだよね」


 私はお茶を彼に手渡しながら、軽く首を振る。


「機密情報だからって、事務の私には有害電波を抑える機械としか伝えられてないの」

「そっか」


 彼は唇を噛みながら、重苦しい眼差しで見つめてきた。


「制御装置が壊れている今が、危機的状況だってこともなんとなく分かるだろう?」

「う、うん......」


 研究員達の顔を見れば一目瞭然だ。これまでの実験で何度だって危険を伴う失敗をしてきたにもかかわらず、彼らの動揺した顔など見たことがなかった。あーあ、また仕切り直しだ。そんな落胆の声が聞こえることも珍しいくらい。皆常に冷静だったのだ。だからこそ、装置が壊れたことで私の知らない重大な事態が引き起こされるのだろう。


「僕はさ」


息を吸い込んで、腹を決めたように彼は告げた。


「その有害電波を今夜東京中に放とうと思う」


 言葉が出ない。何を言ってるの、八草くんは。困惑で固まる私をよそに彼は続ける。


「二回目の電波泥棒になると思う。だから、犯罪者として捕まる前に、君にひとつだけお願いだ」


 彼の言うことを一つでも理解できたわけじゃない。まるで置いてけぼりだ。


 それでも、私が彼の手をとったのは、私を絶望から救い上げてくれたあの日と同じ眼差しだったからだろうか。


「一緒に、逃げてくれるかな」


 その瞬間、私達は夜に駆け出した。



 東京の光り輝く街を見下ろす高いビルの屋上で、私達はやっと腰を下ろした。


 久々に握った彼の手の温もりは、冬の寒さにもってこい。安心感と、それを遥かに超える緊張が心臓を大きく動かす。きっと今までで一番のときめきだったと思う。八草くんが私を選んで、手を掴んでくれたのが嬉しくて。私の心波形をモニタリングしている八草博士に怒られてしまうけれど、今は許して欲しいな。特別に。


 ふと、携帯を見るととっくに圏外になっていた。繁華街のディスプレイは大半が消え、人々がざわめき出している様子が伺える。着々と電波泥棒による影響が出始めているのだろう。


 さて、そろそろ聞かなくちゃいけない。

 どうして私を誘って逃げてきたのか。

 どうして電波泥棒なんかに、八草くんがなったのか。


「あのさ、八草く......」

「星良の、その恋心は」


 私の呼びかけは、八草くんの改まった言葉で遮られた。彼は意を決して、私に告げた。


「東京中の電波を、奪っているんだ」


 まただ。彼はいつだって、自分にしか分からないことを言う。また置いてけぼりか、なんて溜息をついてはみるけれど、私も察してしまった。



 研究所や周りの皆は一体何を隠しているのか。

 本当の電波泥棒は誰か。

 私は何者か。



 何もかも説明できる仮説が一つだけあるのだ。


 八草くんはあの日と同じように私を抱きしめて、まるで昔話を読み聞かせるように優しく語り出した。


「──五年前、君が造られたときの話をしようか」

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