第4話

 私たちは就職して東京に来た。

 孝介は食品会社の営業マン、私は雑誌のエディトリアルデザイナーとして働き始めた。


 人と夢で溢れた首都、東京。

 そこでの日々は、その華やかな謡い文句とはかけ離れた過酷なものだった。


 忙殺、という言葉を思い知った。

 朝の八時から仕事を始め、終わるのはいつも終電間近だ。人手が足りていないらしい。東京にはこんなに人がいるのにどうして、と思う暇も無かった。

 帰ったら適当な惣菜を詰め込み、シャワーを浴びて眠る。起きたら着替えて会社に行く。

 今日もまるで昨日の続きのように会社にいて、連続した日々の中で曜日感覚すら無くなる。休日は平日の疲れを取るためだけに消費され、それでも完全に回復しないままに月曜日を迎える。


 ただひたすら、それの繰り返し。

 私の人生は東京に殺されていた。


 孝介ともしばらく会っていない。

 連絡は来ていたが、返していない気がする。それが今朝だったか三日前だったのかもよくわからない。彼のことを考える余裕は無くなっていた。


 もうダメだろうな、と私は気怠さの抜けない頭で思った。

 きっと孝介も同じ気持ちだろう。

 私は最終電車の吊り革に掴まりながらスマホで文字を打った。


「私たち、付き合ってる意味あるのかな?」


 卑怯だ。

 なんて卑怯な疑問文だろう。

 こちらの気持ちを知らせておきながら、相手に答えを出させようとする。


 送信ボタンを押そうとして直前で止まる。


 この文章を送ってしまえば私たちは別れることになるだろう。

 それが悲しいのかどうか、もうわからなかった。今もどうせ会えていないし、きっと何も変わらないんじゃないかと思う。

 私は親指で送信ボタンに触る。


 軽く触れただけで、一瞬で届けてしまう利便さが、私に言葉の重みを感じさせなかった。



***



 ようやく家に着いた頃、スマホが震えた。


『意味ってなに』


 彼からはその一言だけ。

 思っていた反応とは少し違っていた。


「忙しすぎて会えないし、どこにも出かけられない」


 二秒で打って返す。「そうだね」と返ってくると思っていた私はまた裏切られる。


『じゃあ今から行く。タクシーで』


 私は驚いた。急いで返事を打つ。


「今から? 明日仕事は?」

『金曜日だから大丈夫』


 知らなかった。

 今日が金曜日だってことも。



 孝介が、私とは違う気持ちだったってことも。



 少しして彼は本当にやって来た。

「おつかれ」とテープが貼られたコンビニのケーキを差し出す。


 それから私たちは何も言わずに二人並んでケーキを食べて、シャワーを浴びて、歯を磨いて眠った。

 二人では少し狭いマットレスの上で横向きになって、私は孝介の肩に頭を寄せる。

 昔から変わらない彼の体温と香りに心が解けていく。


「おやすみ」


 大きな手でやわらかく髪を撫でられて、私は唇を噛んだ。

 

 ……ああ。

 私は本当に馬鹿だ。


 何も言わずに隣に居てくれる彼の袖を、止めどなく溢れる涙が濡らす。


 ――私は、こんなに優しい人を傷つけてしまったのか。


 穏やかな夜は謝ることすら許してくれなくて、私は静かに泣くことしかできなかった。



***



 目が覚めたのは昼過ぎだった。

 カーテンの隙間から差し込む、高く上がった太陽の光が目に刺さる。


「香子」

「……ん」


 隣に寝ている孝介の声に、寝すぎてぼんやりしている頭で返事をする。長時間のデスクワークで肩が張っていて、少し頭も痛い。


「今まで会えなくてごめん」


 私が言おうと思っていた「ごめん」を先に言われてしまった。


「俺、東京に来て仕事で成功することばっかり考えてた。同じようなスーツ着て、同じような髪型のサラリーマンと一緒に電車に詰め込まれて『この中の〝乗客A〟じゃ終わりたくないな』って、そんなことばっかり考えてた」


 ――だからごめん。彼はそう言った。


「……私のほうこそ、ごめんなさい。ひどいこと言って」

「いいよ」


 孝介は最初からそう言おうと決めていたかのように言った。

 そして起き上がった彼はカーテンを開ける。急に部屋に立ち込めた光で目が眩む。


「なあ、香子」


 白く眩い空間の中に彼の声が聞こえる。


「一緒に住もうか」


 薄目を開けて、彼のシルエットを見つける。私は左手を伸ばす。


「……うん、いいかも」


 そう言うと、彼は私の手を取って昔と同じように笑った。


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