3
時を同じくして藤塚綾歌は高松北署を訪れていた。
久しぶりに見るその外観に彼女の顔には自然と笑みが溢れる。刑事課のオフィスの隅にある小さな会議室に通された。簡単な仕切りを隔てた向こう側では絶え間なく電話が鳴ったり、警官同士の会話が聞こえる。
「お待たせしました」と鬼無刑事が顔を出した。
「ご無沙汰しております」と藤塚綾歌も立ち上がり挨拶をする。
「すいませんね、わざわざ高松まで帰って来ていただいて。さぁ、どうぞ、どうど」
鬼無刑事は手を出して、彼女に着座を勧めた。
「いえ、ちょうど先週で大学も夏休みに入りましたから」
お盆を持ちながら男木刑事がやってきた。藤塚綾歌と鬼無刑事、そして自分の席の手前にそれぞれお茶をいれたお椀を置く。
「お久しぶりです」と藤塚綾歌は男木刑事にも頭を下げる。
「どうも……」
男木刑事はそっけなく会釈をした。
目の間に座る二人の刑事を前にしても藤塚綾歌の態度は変わらない。蓋を取り、お椀を口元に持っていくとふぅふぅと吐息で少し冷ましてから口をつけた。お椀を机の上に戻すと、眼鏡のフレームに掛かった前髪を指先で払いながら彼女は本題を切り出す。
「松鷹高校のヨット部で起きた事件ですね?」
鬼無刑事が深く頷く。
「一応、経緯をお聞かせいただいてもよろしいですか?」
「わかりました」と鬼無刑事。
隣に座る男木刑事が手帳を開いて説明を始めた。
「二日前、県立松鷹高校ヨット部の練習中にOBの男性が殺されました。被害者の乗っていたゴムボートから見つかったコーヒーのボトル缶から致死量を超えるニコチンが検出されました」
「それでウチの弟が解決に乗り出したと」
藤塚綾歌は今朝、紀野屋島から見せられた新聞記事を思い出した。
「やはり
鬼無刑事はオーバーアクション気味なジェスチャーで彼女の弟を持ち上げる。
ここまでの話を聞いて綾歌はなぜ自分が呼ばれたのかを理解した。
「なるほど、つまり荘司によって事件の一定の幕引きはなされたが、それが完璧な終わりではないということですね?」
鬼無刑事がアゴを引いた。その目元は先ほどまでの優しいものから、鷹の目のような鋭いものに変わっている。
藤塚綾歌は「聞かせてください」と続きを促した。
男木刑事が手帳を捲り、話を始めた。
彼女はそれを聞きながら、時々お椀に口をつける。
説明が終わると、「容疑者と面会することは叶いますか?」と尋ねた。
「わかりました、特別に手配します」
鬼無刑事は男木刑事に一連の段取りを命じた。
会議室には椅子の中に収まりきらないくらい大柄な刑事と、肘掛けに突いた肘の上に顎を乗せ窓の外の景色を眺める文学少女の二人が残された。
「ところで、鬼無刑事」と彼女の方が話題を振る。
「お二人が最初に容疑者候補にリストアップしたのは、しまちゃん……えっと、紀野屋島さんだったそうですね」
「えぇ、被害者の容態が急変する直前に会ったのは彼女でしたから。状況証拠的にも彼女自身の証言からもそう判断したんです」
「けれど弟は、警察の提出した証拠を利用して逆に彼女の無実を証明したと」
「えぇ、流石にあれには私もびっくりしましたね。まさに目から鱗ですよ。口も頭も回るのはきっと、藤塚家の血なのでしょうなぁ」と笑う鬼無刑事。
藤塚綾歌は口角を持ち上げ唇を歪曲させるとこう言った。
「いいや、彼は口も頭もまだ全然上手く回せていませんよ」
その
「準備ができました」と男木刑事が二人の元に戻ってくる。
「では参りましょうか」
冷め切った緑茶の最後の一滴を飲み干すと、藤塚綾歌はお椀に蓋をして立ち上がった。
彼女にとっても取調室に入るのは初めてのことだった。
テレビドラマで見るような3畳ほどの狭い空間。中央に置かれた小さな机の奥に容疑者の女生徒が座っている。ドアの近くには書記のための小さな机が用意されていた。
「こんにちは」と挨拶をしてから藤塚綾歌は腰をおろした。
「こん、にちは……」とむこうも返事を返す。
「緊張しなくていいよ。私、刑事じゃないから」
その言葉に容疑者の緊張がほぐれたことが顔色からもわかった。
「名前、教えてくれる?」
「神楽瑠衣です」
「瑠衣ちゃんね、はじめまして〜。私は藤塚綾歌っていうの。よろしくね」
「藤塚って……」
「荘司の姉でーす」
藤塚綾歌は頬杖を突いていた右手をピースサインに変え、目を細めた。
目の前に現れた異質な存在に神楽瑠衣は、果たしてこの人は何をしに来たのだろうと戸惑いを隠せていない。
「弁護士さんか何かですか?」
「ううん。私はあなたを責めもしないし、護ってもあげない。ただ聞きたいことがあって来たんだ」
「はぁ……」
藤塚綾歌はさらに左肘も机に突くと両手を広げ、顎を乗せた。
「瑠衣ちゃんさぁ、どうして先輩を殺そうと思ったの?」
「殺そうとは思っていません。ただ、少し入院してくれればそれでよかったんです」
「でも、結果として人が死んでいる。君、どれくらいタバコ溶かしたの?」
「えっ、一箱ですけど……」
「だよねぇ。普通コンビニとかでタバコを買うなら一箱かカートンで買うのが普通だもんね」
「何が言いたいんですか?」
神楽瑠衣が首を傾げる。
「勘定が合わないんだよ。瑠衣ちゃん、ニコチンの致死量ってどれくらいか知ってる?」
「たしか刑事さんの話では30〜60mgだったような」
「うん、通説ではそのように言われている。けれどこの数字は少し信憑性が薄いんだ。その証拠にマウスの半数致死量――検体の半分が死亡する容量――は体重1キロに対して140mgって言われているの。身体が大きい人間の致死量の方が少ないっていうのはおかしいよねぇ」
「それじゃあ、実際はどれくらいなんですか?」
「最近の研究だと0.5〜1gほどだろうって言われている。これは少なく見積もっても約70本のタバコが必要な計算になる」
神楽瑠衣の両目が大きく見開かれた。一方の藤塚綾歌は大きなあくびをしている。取調室の隣に設けられた観察室から様子を見守っていた二人の刑事も驚きの声を上げた。
「じゃ、じゃあ……」
「そう。君は誰も殺していない、だって君の毒では誰も殺せないんだもん」
藤塚綾歌のその言葉はここにいる全員にとってまさに青天の霹靂であった。
鬼無刑事と男木刑事は取り調べを中断させ、藤塚綾歌を再び応接室に連れていった。
「藤塚さん、これはどういうことです?」
開口一番、鬼無刑事が藤塚綾歌に詰め寄る。
「神楽瑠衣が荒木勝を殺していないってどういうことです? 彼女本人が自供しているんですよ? まさか誰かを護るために、彼女は自ら泥を被ったということですか? ならばそれは誰です、藤塚さん!」
「まぁ、まぁ。落ち着いてください」
ソファーに深々と腰掛けた藤塚綾歌は湯呑みを両手で持ち、喉を潤す。
湯呑みを茶托に置くと、口を開いた。
「最初に違和感を覚えたのは彼女の言動不一致です。殺すつもりはなかったと証言しているにもかかわらず、結果として人がひとり死んでいる。もちろん、トリカブトや青酸ソーダなど比較的致死性の高い毒物なら看過されるべきことなのでしょうが、今回使われた凶器は、致死性が非常に低いニコチンだった。ここにどこか強引に継ぎ接ぎをしたような、違和感を覚えたんです」
「して、その違和感の正体とは?」
「先入観ですよ」
「まさか、認識の齟齬が事件を解く鍵だなんて言わないですよね? そんな話がまかり通るのは、京極夏彦の世界だけです」
男木刑事が唾を飛ばしながら反論する。
「いいえ、言わせていただきますよ。現にあなた方は弟に指摘されるまで、被害者自らがコーヒーの缶をすり替えたことに気づかなかったではないですか」
「…………っ!」
返す言葉がない男木刑事はただ歯を食いしばっている。
「では、あなたの見解を聞かせていただきましょう。《
「いいでしょう。今からこの事件の《
そう言って藤塚綾歌は唇を歪曲させて頷いた。
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