第4話 若返り

 注文した紅茶がくる。

 私はウェイトレスに軽く礼を言って、琥珀色の液体に口を付けた。ふわりと華やかに香る飲み物に意識を集中させて気分を落ち着かせると、カバンからレコーダーとレポート用紙を引っ張り出す。

 気は進まないが、逃げるわけにもいかない。

 レコーダーにイヤホンジャックを差し、昨日の会話を再生した。


 ―― 治験を中止するべきだとは思いませんか?

 ―― ……。

 ―― 何かするたび、どんどん状況が悪化しているのではないでしょうか。もうこれ以上は止めておいた方が賢明だとは思いませんか?

 ―― ソメイ、お前は正しいよ。お前の言葉はいつだって一片の曇りもなく、ひたすらに正しさだけがある。ただな、私は正しさの話なんて最初からしてないんだよ。

 ―― そうではなくてですね。今しているのは正しさの話ではなく、あなたの話なんですよ。もうこれは、治験でも何でもない。ただの人体実験でしかないでしょう?

 ―― なら、お前は私にどうしろというんだ? こんな体、出来ることなら今すぐにでも捨ててしまいたいというのにそれもできない。今は麻酔で感覚を麻痺させているからいいものの、あんな経験はもう二度とごめんだ。

 ―― これ以上ひどいことにはならない、とでも思っているのですか?

 ―― ……罰が当たった、とでも思っているのか? なんの疑問も罪悪感もなしに『延命処置』を続けた私に、とうとう天罰が下った、とでも? お前は私に、天罰は受け入れろと言いたいのか?

 ―― だから、今は正しさもクローン体における生命倫理もどうでもいいんですよ。エテルノさん、あなたの話をしているのであってですね?

 ―― ソメイ、知っているか? ソメイヨシノという桜のことを。あれはな、全て同じ個体、つまりクローンなんだよ。人為的に同一個体があれだけ増やされた桜だが、お前はそれに倫理を持ち出すか? あの桜がクローンだからといって、あの花を美しいと愛でることを悪とみなすか? いつか罰が当たるだなんてこと思うのか? 違うだろ?

 ―― さっきから、あなたは何を言っているのですか? そんな話は今、どうでも……。

 ―― 人は正しさだけで動くものじゃないんだよ。人は、人はな、ソメイ。もっと単純で原始的な、感情に突き動かされる、そんな生き物なんだ。わかるか? 私が今最も強く抱いている感情が何か。……恐怖だよ。ずっとこんな体のままでいなくてはいけないことへの恐怖。これ以上ひどいことがないとは言わないさ。だがな、少しでも希望があるのなら、それに賭けたいんだよ。


 レコーダーの再生が止まる。

 頭の中の整理がつかなかった。この状況をどう受け止めていいのかわからない。ただの学生でしかない私に何ができると言うわけでもないが、それでも、のんきにレポートなど書いている場合なのか? 

 思考がまとまらずにぼんやりと窓の外に目を向けていると、ことりと、テーブルに皿が置かれる。先日、少年医師が食べていたプリンアラモードだ。

 注文した覚えのない品に訝しい眼差しを向ける。テーブルを間違えている旨を伝えるため顔を上げると、そこにいたのはウェイトレスではなかった。

 見覚えのない男性だ。染めたわけではなさそうな白髪の髪を綺麗に整えており、顔や首元にはたくさんのしわが刻まれている。この年代の人を初老、というのだろうか。どう見ても50歳を超えている。外国人旅行者でほんのたまに見たことがあったが、日本人で50歳以上の人間を初めて見た。

「こちらはサービスの品でございます」

「サービス、ですか? ええと……」

 サービスを受ける理由に心当たりがない。初めて目にする初老の人ということもあり、どう対応していいのかわからず困っていると、「突然で申し訳ございません。もしご迷惑でなければ、少しお話をさせていただけませんか?」と丁寧に言われた。

「学生さんでございますか?」

「ええ、そうですが……」

「『延命処置』についてご勉学されているとお見受けいたしましたが、いかがでしょう?」

「その通りですが……」

「わたくし、『延命処置』についてはわかりかねますが、『若返り』についてなら、少々お役に立てることがあるかと」

 私は驚きのあまり、え、とも、あ、ともつかない言葉が漏れた。

 『若返り』は現代では禁止されているが、クローンを利用した『延命処置』の前に行われていた施術だ。ベニクラゲという生物が備えている能力を利用したもので、自身の身体が損傷したり老いて寿命が近づくと、『若返り』を起こし、文字通り若返って損傷を修復したり寿命を延ばしたりするクラゲの能力を遺伝子操作で強化し、人間に転用したもの。

「実はわたくし、もうすぐ『若返り』が始まるのです。一度若返ってしまえば、それ以前の記憶が少々おぼろげになってしまいまして。ですので、今期最後に若い方とお話をしたい、と思った次第でございます」

 初老の男性は落ち着いた口調でそう言うと、いかがでしょうか、とこちらの返答を待つ。


「あの、『若返り』は禁止された治療法なのではありませんか?」

 混乱する頭で、一番に気になった事柄を言葉にすると、初老の男性はそれを“若い方とお話をしたい”に対するイエスの回答と捉えたようだ。

 一礼してから私の対面に座り、おもむろに口を開く。

「禁止される前の世代なんです、わたくしは。禁止された時点で、一定数『若返り』をした者は、『延命処置』に切り替えるか、そのまま『若返り』のできる状態を維持し続けるか、選べたのです。私は『若返り』の継続を希望しました」

「そう、なんですね……」

 それは知らない情報だった。義務教育でだって学ばない。

 私は男性に断ってから、レコーダーのスイッチを入れる。

「今の若い世代の方が『若返り』にどういった印象を持っているのかわかりませんが、きっと死者を出した危ない治療だとお思いなのでしょうね」

「……違うのですか?」

 初老の男性は少し遠い目をしながら、ゆったりと語る。

「どんなに優れた薬でも、その用法を守らず無茶な使い方をすれば、ただの劇薬になってしまいます。

 『若返り』は一回処置するだけで十回ほど『若返り』を起こすことができました。どの年代まで若返るのかは個人差があり選べませんし、『若返り』が起こるタイミングを選ぶことも基本的にはできません。

 ですが、例えば予期せぬ事故で致命傷を負ったとしても、その場で即時に『若返り』が起こり治癒します。これは現行されている『延命処置』とは大きく異なる点の一つでしょう」

 不老長寿社会に突入し、『延命処置』が主流になった現代でも、亡くなる人はいた。『延命処置』には代替になるクローン体とそこに移しいれる脳のデータが必要だからだ。事故や病気などで突然死してしまっては、この二つを用意する時間がない。

 私は肯定の意味と話の続きを促す意味で、彼に頷いて見せた。

 このあたりの話なら、教科書に載っているので知識としては持っている。


 『延命処置』と『若返り』、それぞれの特徴とその危険について。とりわけ、『延命処置』にはない利点をいくつも有した『若返り』が、禁止されるほどに危険視される理由についても。

「あの事故は、本当に悲劇というほかありませんでした。

 『若返り』には多くの利点がありましたが、『若返り』以前の記憶がおぼろげになってしまうという大きな欠点があったのです。

 これは、細胞レベルで『若返り』が起こるため、脳に記録された記憶を完璧に保全することができないために発生する現象です。

 記憶が失われてしまうわけではないのですが、まるで記憶と自身との間に薄い膜が張ったかのような、その記憶と自分自身の繋がりが切れてしまったような、それが自身の記憶なんだと確信できない状態……『若返り』が起こると、それ以前とその後、多かれ少なかれ人が変わってしまったかのようになってしまう……。

 今にして思えば、これは『若返り』の副作用のようなものであり、無理に克服しようとしてはいけないものだったのでしょう。

 しかし、当時はそれをしようと研究が重ねられ、たくさんの実験を経て、治験が行われてしまったのです。不幸だったのは、それが一概に失敗のみに終わらなかったことでしょう。

 治験に成功した者が幾人か現れました。

 それが希望の光となり、何とかできるはずだという確信は無謀と焦りを呼び込んでしまった。

 たまたまその幾人が適合しただけのことだったのに、強引な治験がしばらく続きました。そして、あの事故につながってしまった」

 初老の男性が、小さくため息を吐く。

「あれは本当に、悲劇というほかありませんでしたよ……」

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