葡萄酒

「おっ!遊ちゃんはいつもいいところに来るねえ」

 玉子さんは陽気に笑いながら、新しいワインの封を切り、食前酒用のグラスに中身を注いだ。

「ほいっ。呑みねえ、我らが演劇青年!酒屋のおにいちゃんが無料(タダ)でくれたやつだから、遠慮は要らないよ」

「ありがとう。いただきます」

 僕はグラスを受け取り、厚意の酒を口に含んだ。芳醇な液体が、空腹の肉体に染み込むようにして消えた。今夜はバイトの予定だが、一杯ぐらいなら大丈夫だろう。

「今日の日替わり(ランチ)は何ですか?」

「肉豆腐だよ」

「では、それをお願いします」

「あいよっ」

 ラジオから流れる歌が、別の歌手のものになっていた。技術的にはこちらの方が勝っているが、シオールの声には、万人を引(惹)きつける不思議な魅力があるのだった。形容は困難だが、敢えて例えるなら「最盛期の水島裕さんと島津冴子さんをミックスした声」とでも云えばいいだろうか。

 天性の才能であり、現実離れした美貌と並ぶ、強力な武器であった。まるで、アイドルになるために生まれてきたような少年である。そう。シオールはまだ十代後半なのだ。魔少年とは、彼の愛称(綽名)のひとつだが、これは本人も大層気に入っているらしい。


「あらっ。シオたんの歌、終わっちまったんだね」

 調理の手を休めることなく、玉子さんが喋り出した。

「シオたん、夏映画の主演が決まったそうだよ」

「来年公開のあれですね。彼、映画の主役は初めてじゃないかな。テレビドラマでは何本か演(や)ってるけど」

「まったく忙しい子だねえ。よくぶっ倒れないものだと感心するよ。あんな華奢な体でさ」

「僕たちが考えているよりも、体力があるのかも知れないな」

「もし、急病か何かで主役降板…というようなことになったら、あの映画はどうなるのかねえ」

「その時は別の俳優を立てるでしょう。ただ、若手の中に、彼の代役を務め切れる者が何人いるのか、そういう懸念はありますね」

「ここにいるじゃないの」

「えっ」

「遊ちゃんなら、シオールに負けないよ。顔は互角。演技能力は断然上。私が制作の親分なら、魔宮遊太を指名するんだけどなあ」

 僕は苦笑して、

「ありがとう、おたまさん。でも、それはありえない話だよ」

「そうかなあ。近頃のプロデューサーどもはいったいどこを見て仕事をしてるんだろうねえ」

「俳優にも色々いますからね。映像向きもいれば、舞台向きもいる。もちろん、僕もテレビや映画には憧れを感じるけど、実際にやってみたら、戸惑ってしまう気がしますね。源シオールの代役なんて、とんでもない」

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