親亀は僕を甲羅に乗せると、上空、十メートルほどの位置に緩やかに浮かび上がった。本物のアーケロンにはできない芸である。どうやら、闇塚ワールドのアーケロンは飛行能力を具えているらしい。

 体調が万全ならば、自分の翼で飛ぶのだが、今の僕は、手負いのルシファーである。美翼の半分をもぎ取られ、骨格の各所に罅(ひび)が入っている状態だ。親亀の好意を素直に受けることにした。


 僕は甲羅の上に立ち、砂面の子亀たちに向かって、天使の微笑(美笑)を惜しげもなく、贅沢に振り撒いた。

 生来のスーパーアイドルたる僕にとっては、当然の務めと云えるわけだが、負傷中の身にはかなり辛い行為だった。再び発生し始めた苦痛に耐えながら、僕は子亀たちの声援(の波動)に丁寧に応え続けた。

 並の気力でできることではなかった。本当なら、病院の寝台で安静にしていなくてはならない体なのである。ここまで痛めつけられても、アイドルの本分に徹する自分に、僕は感動さえ覚えていた。


 無邪気な子亀たちの仕種に、精神的に癒されたのは確かだが、彼らとしても、今日は忘れられない一日になるだろう。東奔西走、縦横無尽。多忙を極めるパーフェクション・ルシファーが、このような辺境の島に訪れるのは、滅多に起こりえない大珍事と云えるのだった。


 空飛ぶ古代亀が案内してくれたのは、森の中にひっそりと存在する奇跡のような場所であった。豊富な水量を誇る泉を、テーブル形の分厚い岩石が囲んでいた。岩と岩の間を通り抜ける水の音が、一帯に心地好く響いていた。親亀は適当なところに着陸すると、そこで静止し、賓客に対する眼差しを僕に送ってきた。実際、僕は「最高級の賓客」に属していた。

「ありがとう」

 僕は甲羅から下りざまに、親亀の額の部分に感謝のキスをした。大天使の口づけを授かったという名誉と興奮が、親亀に歓喜の踊りを岩面で踊らせた。なかなかの見物と云えた。さしもの僕も「アーケロンのダンス」を眺めるのは、初めての経験であった。


 弓形海岸の方向へ飛び去ってゆく親亀を見送った僕は、その場に崩れ落ちそうになるのを我慢して、怪我の治療を始めた。半身を泉に浸し、爆撃を浴びて、無惨に傷ついた美体を丹念に洗った。

 鏡のような水面に映り込んだ自分の姿に、魅入られ、あの時みたいに心を奪われそうになる瞬間があったが、懸命に僕は耐えた。パーフェクション・ルシファーが、同じ過ちを繰り返すことは絶対にないのだ。

 とは云うものの、全てを奪われてしまいたい…という気持ちを拭い切れないのも否定できない事実だった。ルシファーの美。それははまさに魔性の極致だ。他者は勿論、本人さえも誘惑してしまうのだから。

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