白金の蛇は異界を救う
山散ばんさん
黄金郷に蛇来たる
序
これは夢であると、自覚することのできる夢がある。
傷の一つもない、滑らかな肌。華奢な掌と細い指先から女のものとわかる。別人の腕だというのに、掌を閉じ開くと一体になり、自然と自分のものとなっていた。
「最後の冒険よ、相棒」
囁くような声が唇から漏れ、瞳が左の腕を向いた。
白い腕に光る銀の装飾は、するりと細い身を這わせ肌の上をうごめくと、主の顔をうかがうように蛇の頭を掌へ滑らせる。
「悲しまないで、これが望んだ結末なの」
指先で蛇に刻まれた鱗を愛でてやる。
装身具のような佇まいで居座っていた蛇は、納得したように掲げられた腕から鋭く空へ伸び、そして槍の姿になった。
蛇の面影は表面に刻まれた鱗のみを残し、銀の槍は刃先と柄に変化した。
女の背丈ほどはある銀の槍は空を切り、軽々と手に構えられる。
亜麻色の長い髪は揺れて波打ち、天井の明かり取りから漏れる光に透け、眩いばかりに輝いた。
怪物は牛の頭部を持ち、首から下は茶の毛並みが背中まで生えた頑強な男の体をさらしている。
巨体へ歩もうとすれば、間に男の背が割って入った。
黒灰の編んだ髪を揺らし、彼は女を守るように立つと剣を構えた。
しかし女は自分の獲物だと言わんばかりに槍で制し、地を揺らし歩く怪物と見つめ合う。
ぴたりと時が止まったように、三者は動かない。
女は静止した時を切り裂くように槍をまわし、床を蹴った。
怪物の足元に入り込むや、鋭い突きが繰りだされる。
決して大柄ではない女を踏み潰そうと、怪物は足裏を地に叩きつけるが、すでに女は離れ、槍を投げていた。
背に刺さった槍に呻き声が上がるが、細い槍ではさほどの傷にはならない。
引き抜こうと手を伸ばす怪物の太い腕に、形を失った銀槍が絡みついた。
巨体を覆っていく銀の茨は、水晶の底が深い床へと根を張り、剛腕が引きちぎろうとするも掌が開かないほどにまとわりつき、やがて足すらも絡みとられ地面へと倒れこんだ。
巨木が倒れるような轟音と地揺れのあと、怪物は自由を失っていた。
ひどく心配した様子の青年の傍へと戻っていた女は、彼から剣を受けとり、もう一度牛の頭へ走りだす。
振りかぶられた剣が黒々とした牛の目を抉り、刀身を首へと叩きこんだ。
頭と胴が分かたれた怪物の首はもはや人ではなく、ただ巨大なだけの牛となった。
彼は女の手から剣を受け取り、血を払う。
沈黙した怪物に満足したのか、女は血溜まりを気にもかけず踏み、散らばる肉塊の間を歩む。
床を彩る繊細な模様は水晶石と黒曜石を組み合わせた美しい造形だが、無残に汚れ、血の色で塗りつぶされていく。
広がる赤を越え、足跡の軌跡を残しながら透けた水晶の階段を上る。
「私には望みがあるの。それを叶えるためにここへ来たのよ」
嬉し気な声色が口からこぼれ、両腕は天井へと伸ばされた。
高い尖塔の部屋には、白むほど高い空が、意匠を施された小窓から望める。
最果ての島にに聳える城は内部に孤独を秘め、二人を受け入れたまま、ただ黙していた。
「この城に何があるんだ、セイラス。君の望みを叶えるほどの力があるのか?」
若葉の色が混じった黄金の瞳は絶えず色を変え、無邪気な輝きを青年に向けた。
沈黙が肯定を語り、それ以上の話を拒んでいた。
「俺はこの瞳が好きだ。水面のように色を変えるから、目が離せない」
紡いだ糸を垂らしたような薄い金の髪は、静謐な空気を堪能する体にあわせ揺れ動いている。
「こういった瞳を榛色と呼ぶのだそうよ。ねえ、あなたはずっとその三つ編みでいてね。黒灰の髪を振り乱して戦っていたら、怖がる人もいるでしょう? そうしていたら可愛らしいわ」
「俺にそんなことを言うのは……君だけだ」
灰色の瞳を愛おし気に細め、青年に近づいた。
髪を撫でる青年は微笑み、塔の中をゆっくりと見渡す。
「罠も、魔物も……ないようだな。仲間も連れずに何故、こんな最果てに来たんだ。この城に何がある?」
「あなたと結ばれるために必要なの。私の願いを、受け入れてくれるわね」
「当然だ、どこまでも君と行こう」
彼はなんの躊躇いもなく、真っ直ぐに見つめて頷いた。
「生まれた時から俺は君のために育てられたのだから」
「ねえ……私はあなたに、永遠をあげたいの」
セイラスは青年の腰から剣を引き抜き、自らの胸を刺し貫いた。
視界が反転し、深い青空の色が抜ける天井が視界に入った。瞳を動かせば、零れていく血は水晶の溝を伝っていく。
これでいい、と小さく呟いた。
青年に体を抱き上げられる。どうして、と形作る青年の唇を、血で塗れた指先で撫でた。
「あなたが死ぬのは、耐えられない……あなたが死んでも、私の道は、続いてしまうから……」
憐れな短命の青年は、必死に零れ落ちる命を抱き留めようとすがっている。
「そんな道、私はいらない……あなたがいないのなら、永遠なんて」
「俺は君がいない人生なんて、嫌だ」
こんなにも前向きな死を悲しまないで欲しい。笑って旅路に送って欲しい。
しかし唇が次第に動かなくなっていき、女は最後の約束を呟いた。
「ねえ、そんなに悲しいのなら呪いをあげるわ……あなたは生まれ変わる私の魂しか愛せないの」
◇
寝台から起きあがり、部屋に備え付けられた姿見の前で胸を撫で服の下の体を確認するが、そこには傷ひとつなかった。
「本物の痛みのようだったのに……夢にも感覚があるのね」
朧気になりつつある夢から目覚まそうと、冷水で顔を洗う。
まだ時刻は早朝を指しており、授業には時間があった。
寮の自室はしんと冷えていた。築年数の長い木目の床は空木の細足でも軋む音をたてる。
木机、寝台、クローゼット。壁の白をのぞいて濃い茶の木材で統一された室内は、空木の小さな領土と呼べる場所だった。
小さな窓からは冷気と、鉄格子に遮られた薄い日が射している。
鉄格子が防ぎたいのは外からの侵入か、それとも内側からの脱走か。この六畳間は、空木に割り当てられた牢獄なのかもしれない。
空木は持て余した時間を趣味にあてるべく、衿の広がった制服に着替え、白のタイを結ぶ。衿には紫、白、黄、三色の花弁が一輪の花として刺繍され、黒色で統一された古風な制服に彩りを添えていた。指定のソックスはあるが、まだ足先の冷えるのを考えタイツで白い足を包んだ。伸ばした黒髪を梳かして背中に流す。鏡の前でもう一度身なりを確認し身支度を整える。
自室に鍵をかけ、鞄を持って寮の扉を開き学園の敷地へとでた。
春先の気温はまだ低く、制服とタイツでは寒さを感じる。
早足に灰色の石畳を歩き、目的である学園図書館へと向かい館内へ入ると、いくらか暖かな室温に包まれた。
乾いた空気に満たされた学園図書館は、敷地内でも数少ない木造の内装を残した建物のひとつだ。
早朝の誰もいない館内には、採光のための高い窓から入る光りのみで、電気もついておらず仄暗かったが、その密やかな雰囲気を空木は気に入っていた。
深い色をした木製の手すりは、設立当初からの長い年月を感じさせる。
掃除は行き届いているものの、本の劣化した紙やインクの香りが漂い、蔵書の古さを物語っていた。
吹き抜けの天井には絵の具が薄れ落ちた絵画の面影があるが、その絵がなんだったのかは判別がつかない。天井の絵画まで届く高さの本棚が設置され、隙間なく本で埋め尽くされているが、利用者の少なさが難点だ。
だがおかげでこうして空木はひとり、図書館を独占できる。
迷うことなく本棚にかかる梯子を上り、薄茶の本を手にとった。
梯子を椅子に本を開き、文字を追いながら空想に思いを馳せていると、館内に足音が響いた。
「いつも本を読んでいるね、
「森賀先生。朝がお早いですね、授業の準備ですか」
空木が本を読むのは、物語を体験するという機能を本が備えているからである。
凡庸と感じる自身を、物語は優れた英雄に、未だ知らぬ土地を歩む冒険者にしてくれるのだ。
「海外の児童書なら、生徒たちもそろそろ読めるんじゃないかと思ってね。優等生さんは早朝から勉強かな?」
「揶揄わないでください……勉強なら夜に、自習の時間が決まっていますから」
森賀はシャツを着た腕を本棚の上段に伸ばし、いくつかの本を抜き出していく。
背丈のある彼は黒のベストにジャケットを羽織り、小奇麗な格好に身を包んでいる。様になる立ち姿だが、焦茶の髪には癖が残ったまま気づいた様子もない。
レトロな金縁の眼鏡越しにページをめくる森賀は目立つ容姿ではないものの、教師人の中では若手である三十路の男性教師というだけで、一部女生徒からの人気を集めていた。
エスカレーター制の女学園では顔ぶれが変わることもなく、熟練の女性教師が大半を占める女学園で、大半の生徒は噂話や、森賀のような新しい顔ぶれに興味を示し、常に何かしらの情報を追いかけては話題にあげることで熱量を発散している。もしくは、不足した愛情を隣人に求めることで渇きを満たす。
他人に関心がない空木はといえば、必然的に図書館へ足を運び、顔馴染みの友人たちとの付き合いもそこそこに本を漁るのが日課になっていた。
この英語教師は空木のクラスを受け持ち、頻繁に図書館を訪れ書籍を探しており、同好の士に近い間柄になっていた。文字を追う森賀の熱心な視線は、仕事で必要とする以上の本好きであることが伝わる。
真面目なだけではなく、時折のぞかせるユーモアも彼の魅力だ。
森賀のまるで妹に対するような扱いも、空木はさほど嫌いではなかった。
「前に、世界中を旅していた話をしてくださいましたね。先生の語学力は旅先で身につけたものなのですか?」
「現地で学んだ言葉が多いね。と言っても、しばらく生活するのに困らない会話を学習する程度だから、そう大したものではないんだ。挨拶はもちろん、軽い会話……例えば買い物や質問の仕方がわかれば、一応は暮らせるからね」
受け持ちの英語科目だけではなく、欧州や中東の言語も現地で会得したらしい。
若い頃はほとんど旅に明け暮れたと言い、知性は言わずもがな、かなりの行動力と体力の持ち主だ。
「古梁川さんは、旅行に興味があるのかな」
「ええ、興味はあるんですけれど、幼い頃ですから憶えていなくて。母が生きていた頃は、よく家族で行っていたそうですが」
「だからいつも小説を読んでいるのかな。それは何を読んでいるんだい?」
「妖精の伝説を集めた本です。作者が方々に足を伸ばして編纂したそうですよ。伝承だけではなく、悪戯好きの妖精にも貢ぎ物をすれば助けてもらえたり……物語だと妖精女王の話をよく見かけますが、この本には記述がありませんね。登場するのは戯曲だったかしら」
先日に森賀と話したときは、妖精学者の本を読んでいた。
妖精伝承の語り部であり、妖精の悪戯から人を助け、妖精と交流を持ち、彼らとの伝承を話して聞かせる語り部だという。
「へえ、妖精の本か……古梁川さんも、気ままな妖精という雰囲気があるよね」
森賀はたまに、こういった冗談とも本気ともつかない発言をする。生徒との雑談で本気になる必要もないと考えているのかもしれないが。空木は半ば呆れつつ、肩をすくめた。
「また冗談ばかり……私はただ好まないことに順応できないだけです」
友人と交流を深めるのでもなく、こうして本ばかり漁りに来ているのだからと自嘲した。
空木は特別に、神話や寓話のような幻想文学を選り好み読んでいるわけではない。ただどこか違う場所の物語を読めればそれでいいのだ。新鮮で、学院ではないどこかへ連れて行ってくれる物語ならば。
「そんなことを言うもんじゃないよ、読書は素晴らしい趣味だと僕も思うね。そうだなあ、妖精は言いすぎだけど……でもどこかへ行ったりだとか、冒険が好きなんじゃない? 若いうちに旅行をしておくのもいい経験だと思うよ。まあ、旅をしていた僕の勘だけどね」
「どこにも行きません、行く場所もないですから。第一、寮が厳しいですし旅行もそうできないでしょう」
そういえばそうか、と笑う森賀に、空木は冒険という言葉で今朝方の夢を思い出した。
「先生、聞いてくださいますか。今朝の夢なのですが」
「なんだい、楽しい夢でも見たのかな?」
「いえ、どちらかといえばグロテスクな……私は夢の中で違う女性になっていて、水晶の塔で戦っていたのです。恋人と思しき男の人を連れて、仲睦まじそうにしていたのに……腕に巻いていた銀色の蛇を剣に変身させて、胸に刺して死んでしまったのです」
「それは……変わった夢だね。その夢の中で、君はどんな女の人だったんだい?」
「亜麻色の髪に、榛色の瞳で外国の方のようでした。本当に異国のファンタジーのようで。名前を……そう、セイラスと呼ばれていました」
「へえ……」
森賀は少し考え込むように黙った。
夢の話など、いくら親しくしていても教師にすべきではなかっただろうか。空木は恥ずかしさに顔を伏せた。
「もし正夢だったとしたら、古梁川さんはどうする? 本当にそんな冒険ができる場所がどこかにあるとしたら……」
首を傾げると、森賀は本を置いて真剣な様子で向き直った。
「僕と一緒に異界へ行ってくれないかな、古梁川さん」
「先生、そういう冗談がお好きですね」
授業に使うであろう書籍を抱え、森賀は肩をすくめながら笑った。
学舎へと図書館を去る背中を見送りながら、空木は森賀の言葉を反芻する。
ひどく真剣そうな物言いだった。あれが冗談だったのだろうか。
空木は人のいない図書館でぽつりと、自分に言い聞かせるように呟いた。
「異界……そんなところへ行けたら楽しいだろうけれど、そんな場所ありはしないの」
山中に設立されたアイリス女学院の敷地は広大で、灰色の石畳で舗装された道をのんびりと歩いていれば休憩時間が終わってしまうほどだ。
アイリスの花言葉から知恵と友情を信条にしているこの学院は、たしかに学問に打ち込むか、友情を築く場所として特化していると言える。周囲には店どころか民家すらなく、学院生は寮暮らしと定められており、そのほとんどが卒業生の身内で構成されるいわば良家の子女のために用意された箱庭だ。
寄宿学校のようなところがあり学業はもちろんのこと、幼稚舎の頃から礼儀や振舞いを身に着ける場でもある。昔からある行儀見習いという文化が残っているのだろう。親元から離される厳しい教育に、昨今は生徒数を減らしつつあるが、伝統のある学院に通わせたがる親族は未だ根強く存在している。
見慣れた教室で黒板に向けて半円を描くように湾曲した机に座り、空木は時折ノートにペンを走らせていたが、意識は今朝の夢を思い出していた。
あのひやりとした空気の、透けた遥かな下層が覗ける、水晶の広間の城。
水晶を空高く積み上げられるとは思えないから、魔法の城だろうか。
夢でなり代わっていた彼女は冒険と言っていた。美しく透き通る城を血で染めた彼女。
きっとこれまでも怪物と戦い、見ぬ地を求め冒険をしてきたのだろう。その自由さが、道を切り開く強さ、奔放さがたまらなく羨ましかった。
空木はアイリス女学院に幼稚舎の頃から住み、山を下ることが一切ないまま十五の歳になっていた。
学び舎で授業を終え、夕方には敷地内の端にある寮へとまた帰る生活。その往復を繰り返し、九年が経った。
寮則は厳しく、寮母に朝晩と顔を見せて挨拶をしなければならず、外出は許可制、親族を伴っての外泊でもいい顔はされない。夜間の外出も禁じられているため、部活に打ち込む生徒はいずれも寮則を守っていささか早く活動切り上げていく。
寝しなに読む本を探していた空木はいささか遅くなりながらも寮へと足を速めた。
コの字型の古びた建物は東の一階に共同利用の部屋を集めている。湯船のある浴室や食堂は一階に、二階より上は自習室や化粧室に割り振られ、階下は下の学年、上階は静かな勉強環境を求める上の学年を住まわせていた。
玄関から白塗りの廊下を右に曲がり、どうにか食堂の席へ着くと、長机のダイニングテーブルがいくつか並ぶ食堂には四十人の女生徒で余すところなく埋まっていた。トレイに並べられた食事がテーブルへ配膳され、形式に則ったささやかな祈りを捧げると、それまで沈黙を守っていた女生徒たちは一気に賑やかになった。
「古梁川さん、今日も本を借りに行ったの?」
隣に座った鷹尾が空木の鞄の横に置かれた本を指す。
背が高く体格に恵まれた鷹尾とは学院に入った頃からの付き合いがあり、適度な距離感を保って空木に接してくれる数少ない友人だ。幼稚舎からのエスカレーター組が入寮する壱号寮館に住み、寝食を共にする彼女とはたびたび行動を共にしている。
「ええ。学院図書館は蔵書が豊富ですから、お勧めしますよ」
「そうじゃなくってだよ。森賀先生と会ったの、ってこと」
「たしかに先生も今朝方、図書館にいらっしゃってましたけれど」
「あらまあ、逢引を認めたわね。いつの間にか大人になって……」
「人聞きの悪いことを言わないでください」
「図書館は英語教師と古梁川さんの逢引の場所だって、噂になってるよ? 場所を変えるなりするべきだね」
「先生とは親しくさせていただいていますけど、それは友情の方向にです。本の話か、先生の旅行の話を聞いているだけです」
「まあ古梁川さんが真面目だってのはよく知ってるんだけど……ねえ優等生さん、本当にちょっとも何もない?」
「ありませんよ。一体そんな噂、どこから?」
「大方、図書館を利用しようとした誰かが目撃して、教師と生徒の禁断の恋だって話を盛ったんでしょ」
「いい迷惑ですね。今度その話が出たら、私が否定していたと言ってください」
「色気がないねえ。こんな不自由な場所に閉じ込められてるんだから、娯楽になるのも当然なのさ」
「しいて関係性を言葉にするなら、先生は兄のような人です」
「ふうむ、古梁川さんに恋はちょっとだけ早いみたいね。まあそのうちわかるでしょう、皆は恋ってものに憧れてるのよ。それと無縁な場所だからこそね」
「さあ、どうでしょう」
興味のない空木は黙々と質素な和食を口に運びながら、鷹尾の話題を逸らした。
「あと三年の我慢ね。大学に行けばここまで規則に縛られることもないし」
「三年……」
この塀の中で、三年は長い。大学に行ったとして、何か大きく変わるのだろうか。
食事を終え、食堂から自室へ戻ろうとすると寮母から声をかけられた。
「古梁川さん、お父様から電話が入っていますよ」
共有設備として備え付けられた電話の受話器を取り、空木は簡潔に返事をした。
「お父さん、空木です」
父からの電話に折り返すと、朴訥な声が受話器越しに響く。父の声を聞く度に、空木自身の愛想のなさは間違いなく父から受け継いだのだろうと思わされた。
「空木、こちらに成績通知が届いた。変わりなくやっているようで安心している」
古梁川雄大は外交官になって以来、単身海外へ渡り領事館に勤めている。母の死から数年後に任命され、帰国もできない父と寮暮らしの空木では会う機会がない。だから時折、こうして電話で近況報告をしていた。
「慢心せず、成績を維持することに注力しなさい。この評価であれば、併設のアイリス女子大も推薦で決まるだろう。母さんが通った教育学部に入り、教員免許を取得しなさい。同窓生も大半はあの大学に進むんだ、友人と離れずに済むからお前にとっても良い環境だろう」
母さんのような人間になりなさい、併設の教育学部に進学しなさい。父との決まったやりとりだ。
「はい、お父さん。私もそのつもりでいます」
そつがない返事をしながらも、空木は自分が教師向きであるかは疑わしいと感じていた。
教職に勤めれば多数の生徒を抱えなければならない。学院の女教師はほとんどがその卒業生で、教師である以前に淑女然とした振舞いを求められている。それは一般的な、家庭から通い勉学を学ぶ場とは違う価値だろう。
だとしても、自身のように関りを避けて行動する人間にできるのだろうか。
資質でいえば、森賀のような人との関わりを得意とする人物が相応しいと思っていた。
父の電話が切れ、空木はいささか重い足取りで寮を歩き自室へと向かった。
ひとりだけの肉親である父とは時折、電話で連絡をとっていた。言われることは母の道を追えと常に変わらず親子らしさ無縁の繋がりだ。外と隔絶されたまま生きる空木も特に父の希望を跳ねのける気はなく、不満を持ってはいない。どちらかと言えば諦めの境地でいる。
母亡き後、彼女の面影を追っているのはおそらく父の方だからだ。
もし空木が父の望みを叶えたら、彼はどうするのだろう。その一点だけに興味を持ち、生きてさえいる。
自室に戻った空木はようやく得た夜の自由時間に本を読むべく着替えようとすると、ひとつだけの窓から物音がし、制服のタイから手を離した。
「何の音……?」
二階でベランダもない窓に何があるとも思えないが、軽い衝突音がもう一度鳴り、空木はカーテンをめくって寮の暗い脇道を見下ろした。
「やあ、古梁川さん。ちょっと下りてこられないかな」
そこには手を振る森賀が立っていた。教職員寮に住む彼がいることに驚きはしなかったが、こういった形での来訪は初めてだった。
「森賀先生、どうしたのですか。夜間は外出禁止ですよ」
「見せたいものがあるんだ。できれば今、こっちに来てほしいんだけど」
角部屋とはいえ、まだそう遅くない時間にこうやって話していては目立ってしまう。女子寮の横に立つ男性教師というのは体裁が悪いはずだ。空木は少しだけ逡巡し、教師と一緒ならば問題がないだろうと判断して寮の非常口から外へ出た。
「ごめんね、こんな時間に。でも今朝は言いそびれたから、直接呼びに来たんだ」
「大丈夫だとは思いますけれど、もし寮母さんに怒られたら口添えをお願いしますね」
もちろんと頷く彼はいつもの調子で、授業の準備かと尋ねれば違うと言う。
よく見れば、制服にストールを巻いただけの空木に対し、森賀はリュックを背負い動きやすそうなアウトドア用の服を着ている。常にかけている金縁の眼鏡はそのままで、不揃いさが際立ち森賀には似合っていなかった。機能性を重視して選んだのだろう。
「先生、その服装は……山を下りるんですか?」
「まさか! 日が暮れてるのに生徒を連れて山に入ったりしないよ」
笑う森賀の胸元では、服装に不釣り合いなアンティークのペンダントが揺れている。
金属製でくすんだ色のそれは硬貨ほどの大きさで、円柱形の箱のような形をしていた。
「そのペンダント、綺麗ですね」
「ああ、これかい。僕みたいないい歳の大人には似合わないよね。妹の形見なんだけど、どこかに行く時は必ず付けているんだ。こうすれば一緒に旅行ができると思ってね」
「素敵なお考えだと思いますよ」
二人は敷地の端へ端へと歩いて行く。弐号、参号寮館の並びを過ぎ、主要な施設で足を止めるでもない。先にあるのは学院を囲む高い塀だけのはずだ。
「ここだよ、古梁川さん。最近は使われていない地下倉庫だけど、見せたいものが中にあるんだ」
「地下倉庫に、ですか……」
さすがに怪しさを隠せず、地下倉庫への階段を前に足が止まる。
森賀が気にする様子もなく倉庫の入口を開けると、中から光が漏れていた。
「さあ、おいで。君の望むものを見せてあげられるはずだよ」
森賀に手を差し伸べられ、空木は躊躇いがちにその手をとり階段を降りる。
地下に近づくにつれて靄がかかり、森から入る霧が抜けているのかと首を傾げた。
「先生、この門は……?」
霧が溢れているのはおよそ自然現象と呼べるもののせいではなかった。
地下倉庫内に建つ門が、口を開けて霧を吐き出している。
空木は誘うように開かれたその歪な存在に異様な雰囲気を感じて後退った。
「今朝、僕が言った言葉をはもう忘れてしまったかな」
森賀の言葉。それはあまりに非現実的で、魅力的な誘いだった。
「まさか、異界へ行こうという話ですか……冗談ですよね?」
「覚えていてくれて嬉しいな、そのまさかだよ。この門は異界へ繋がっているんだ」
およそ教師の言葉とは思えないが、空木は門に畏怖を感じてそれどころではない。
地下倉庫の天井や壁の幅に対して門のサイズが合っていない。つまりは突然、ここに現れたのだ。舞台道具のイミテーションでないのなら何故、倉庫の中にあるのか。何よりも空木が不気味に思ったのが、薄く光りを放つ、銀とも金ともつかない門だ。
模様の刻まれた扉の表面は蔦や紐が絡み合い、浮彫りの円が立体的に輝いている。
「戸惑っているね。わかるよ、僕も最初に見つけた時は驚いたから。でも安心してほしいんだ、僕はこの門を通って、何度か向こう側に行ったことがある」
森賀の言う向こう側とは、おそらくただの山中の道ではないだろう。怯えを隠せなかった空木はようやくいくらか冷静な思考を取り戻した。
「森賀先生、向こう側には何があるのですか」
「門を通ると島があって、大自然の中を真っ直ぐな道が続いて……秘められた遺跡へ繋がっているそうだよ。驚くべき、そして美しい光景さ……僕が先に進めば、古梁川さんもついて来てくれるかな?」
眼鏡のレンズ越しに、森賀の目が輝いている。こんなに興奮した彼は見たことがない。
「進んでも、戻っては来られるのですよね……」
馬鹿げた質問だと思いながらも、聞かずにはいられなかった。地下倉庫の門が異界へ繋がっているなんて、そんなことがあるはずはないと思っているのに。
「僕は何度か戻ってきたよ。さあ、そろそろ行こうか……無理強いをするつもりはないんだ、もし本当に怖いと思うなら入らなくったっていい」
落ち着かせるように笑顔を見せる森賀は、空木に背を向け門の中の暗い霧へと歩み、吸い込まれていった。
森賀の姿は霧に飲まれ、早々に消えてしまった。空木の心は異界なんてあるはずがないという考えと、しかしこの光りに包まれているように見える門はどう説明するのかという好奇心でせめぎ合っていた。
もう体感では数分が経過し、森賀がこの中にいるなら待たせてしまっている状況へわずかな罪悪感を覚えた。
もし仮に冗談だったとしても、このささやかな遊びを終わらせようと決意し、霧の中へ足を踏み入れた。
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