第41話 地獄
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食事をして、酒を飲んで、それでやっと話をすることができるのだから、さすがに女郎屋である。食事は可能な限り質素にしてもらったが、クツは嫌がるようではない。
それでも上機嫌でもない様子のクツに事情を説明し、彼女は真面目な顔で聞いた後、ややこしいこと、と呟いた。
「何をご存知か知りませんけど、オリカミ屋敷の話をする前に、スマ様がお話をする相手がいると存じます」
「誰ですか?」
じっと瞳から視線を逸らさないようにこちらを見てくる遊女に、同じ視線を返す。
「菱屋の主人でございます」
「菱屋の主人? その方が何か?」
「直接、お会いになりましょうよ」
服装の割に軽やかにクツが立ち上がり、部屋を出て行こうとする。こちらも慌てて立ち上がる。
廊下に面した襖はどれも閉じているが、その向こうからの声に種類はあれど、揃って賑やかな気配が漏れている。
どこへ行くかと思うと、一階へ降りて、しかし店の奥へ行くようだ。
一枚の障子の前でクツが膝を折り、「クツでございます」と声をかける。
帰ってきたのはしわがれた声だった。
「オリカミ家について、面白いお客を迎えまして」
沈黙の後、障子の向こうで声がする。
「シユにまつわる子だね。お入りなさい」
こちらにクツが目配せをして、中に入る。
むっと香の匂いが流れ出てくる。室内が明るいのは、行灯が二つあるからだ。
失礼します、と部屋に入ると、その部屋はそれほど広くはなく、初老と言ってもいい女性が文机に向かっていた。書類が小さな山を作っている。
白髪交じりの髪の毛は結ってあるが、店に出る遊女のような大げささなものではない。
向かいに座り、「スマと申します」と頭をさげると、うん、と老婆が頷いたようだった。
「そこらじゅうがこの噂で持ちきりだけど、当事者として、知っていることもある」
女性の低い言葉に、わずかに頭を下げる。
「うちの遊女が、マサジ様を殺したとか。しかしマサエイ様としてはそれを公にはできますまいね。ただ、あの子の遺体を返すような寛容さも見せられないのが、ありそうなこと。不憫な子です」
「お止めすることができませんでした」
「いつかはこうなることは、わかっていましたよ。旅の人にはわからずとも」
そっと文机を横に動かしたのが、限られた視界の中で見えた。
「リイ殿を切ったものもいるとか。あの方は酒がお好きでしたが、女は好まないからね、不覚をとって敗れることはない。どなたが切ったのやら」
「私が切りました」
間をおかずに答えると、老婆が目を細める様子が視線の気配でわかり、同時に背後に控えているクツが緊張しているのも分かった。
「なぜ、切ったのですか?」
「シユ殿が万全の形で、思いを遂げられるように、という配慮が半分」
そう、半分なのだ。それが一日を経たことで、理解できたこと。
「残り半分は?」
「自分の腕を試したかったのが、半分です」
短い沈黙の後にくすくすと女性が笑い出し、可笑しいわ、と笑い声の間に漏らす。
「危ないと思わないの? 自分を切ろうとする相手しかいない場所で、独りきりなんでしょう。それが、逃げも隠れもせず、最高の使い手と手合わせをしたの?」
「シユ殿の覚悟に当てられたかもしれません」
「どういうことですか」
「身一つで、暗殺を決行することがシユ殿にはできた。それなら私も、オリカミ屋敷に飛び込んで、剣を振るうこともまた、できるのではないか、と」
まだ女性は笑っていたが、どうにかその発作が治まると、何度か頷いたようだった。こちらはまだ顔を上げてすらいない。
「いいでしょう、顔を上げさない、スマ殿。お話をお聞きます」
顔を上げると、和んだ雰囲気の女性が、嬉しそうに笑っている。
「お願いしたいことは、一つだけです。オリカミ屋敷にミツという娘がいます」
「その娘をどうしろとおっしゃる?」
「連れ出してもらいたい。ミツ殿は毒をあおったがために、今もおそらく、動けないでしょう。しかしオリカミ屋敷にいることも、ミツ殿の進退をオリカミ屋敷に任せるのも、落ち着かないものがあるのです」
落ち着かないなんて、と女性が口元をほころばせる。
「あなたのワガママにも聞こえますし、菱屋が何の店か知っていますか? 女に体を売らせる店ですよ」
「存じています」
「そのミツという娘が目を覚まして、それでまた普通の生活に戻ると、そういうことを考えておられる?」
女性が言っていることは、おおよその筋ではわかる。
ただ、どこまで本気だろう。
こうして話していると、この女性には女郎屋の主人という立場に求められる、非情さ以外の何かがある。
優しさとは違うが、筋を通す、まぶしいほどの意志の気配か。
「ミツ殿という方にも身体を売れと」
毅然とした視線に、軽く頭を下げる。
「死ぬよりは、マシでしょう」
「その娘を死なせないという、そういう地獄を作り出すことに、躊躇いはないわけですか?」
地獄か。
どのように生きても、この世が地獄であり続けることは知っている。ミツだって知っているだろう。父が殺され、兄も死に、自分だけが生き残るのだ。
それが地獄じゃなくて、なんだというのだろう。
「それでも生きるべきだと、存じます」
「非情な方」
「剣士とは、そういうものです。地獄を引き連れ、周囲を塗り替えるのですから」
困りましたね、と女性はつぶやくが、口調はそれほど困っていない。
しばらくの沈黙の後、息を吐いて、女性が文机を再び引き寄せた。
「書状を届けるとしましょう。何と書けばいいですか?」
「ミツ殿を菱屋で引き取る、とだけ」
「その娘を本当に遊女にするつもりなら、本当に、彼女を地獄へ落とすつもりなのね」
そう言いながらも、女性はさらさらと筆を紙の上に走らせた。
書き上がるのにそれほどの時間はかからなかった。それを女性はクツに渡すと、「使者としてたっておくれ。さすがに遊女がいけば、受け取るでしょう」
「女将さん、怖いんですけれど、私が行かなくてはいけないんですかい?」
「大丈夫。さあ、お行き」
仕方なさそうにクツが席を立ち、外へ出て行く。心なしか障子が閉じられる音が強く響いた気がした。
女性が息を吐き、首を振る。
「オリカミ家の呪いも、極まったか」
そんなことをつぶやく。
クツが帰ってくるのを待つため、座敷へ戻っていいか確認すると、少しは老人の思い出話に付き合いなさい、と言われてしまった。
腰を落ち着け直すと、目の前で老婆が疲れた表情で、もう一度、ため息をついた。
(続く)
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