第40話 夢
◆
夜が明ける頃に旅籠に戻ると、店のものである下男が表の明かりを消すところだった。その程度には明るいのだ。
こちらに気づいて頭を下げようとするが、その顔がこわばる。
「あの、どちらかで斬り合いが?」
そう言われて、やっと自分の服に血が飛んでいるのがわかった。オリカミ屋敷では指摘されなかった。
「どこか、お怪我を?」
「怪我はたぶん、していませんね。店が開いてからでいいので、適当な服を買ってきてもらえますか。部屋にいますので」
銭を渡すと、「へい」と下男が頭を下げた。
中に入っても、座敷はがらんとしている。下女がいくつもある卓を拭いてまわっていた。
また血飛沫について訊ねられるのも面倒で、さっさと中に上がった。
自分の部屋に入り、さすがにもうシユの気配は少しもないが、何もないことに心を締め付けられた。
布団を敷いて横になり、天井を見上げる。
久しぶりに、危うい斬り合いをした。
少しの差で、勝ったようなものだ。
目を閉じると、リイの姿が鮮明にそこに浮かぶ。
刀が翻る。
それはあの砂を蹴ろうとする動作のない、正当な戦い方の幻。
刃が体に食い込む錯覚。
致命傷に、目を開けても、まだ形だけの斬撃がそこにあるような気がする。
鼓動が早くなり、息が苦しい。
仮にリイがまっすぐに向かってくれば、この空想は現実となったかもしれない。
命拾いした、と思うのと同時に、リイの剣術が失われたのが、惜しくもある。
そこから何かを汲み取り、理解し、咀嚼することが、求められるんだろう。
そうでなければ、リイの剣はただの剣、それも弱い剣というだけに過ぎなくなる。
実際にはリイの剣は素晴らしいものがあった。
芸術的な冴えと、洗練された技があった。
覚えておくことにしよう。
なかなか眠れないままでいると、襖の向こうで声がする。下男がやってきたようだ。起き上がって襖を開けると、そこには朝の下男がいて、風呂敷包みを持っている。
「ありがとうございます。銭は足りましたか?」
「十分でございます。汚れたお着物を洗っておきましょうか」
それはありがたい。
元から着物はほとんど一張羅なので、愛着もあるし、大切にしたい。素早く着替えて、手間賃としての銭とともに汚れた着物を手渡した。見たところ、大きく裂けたり切れたりはしていないようだった。
下男が去っても眠れそうにはない。時刻はすでに朝食時を過ぎているが、どうやら一日の周期が激しく乱れているせいか、食欲がない。
違う。周期などではなく、人を切り、殺したことが、まだ心に重く残っているのだ。
剣士だとしても、このくらいの弱さは常に付きまとう。そうして神経をすり減らし、最後には切り捨てられるのか。
また布団に寝転がり、じっとしていると、闇が迫ってくる感覚があり、眠ることができた。
夢の中でも、雨が降った。
あの斬り合いの時の雨だ。
全身が重い。剣が動かない。集中が乱れ、煩わしい。
こんなことでは切られてしまう。
死んでしまう。
「もし」
声に跳ね起き、剣を手に身構えると、下男が悲鳴をあげて尻餅をついていた。
ここは中庭ではない。旅籠の部屋だ。雨も降ってはいない。
「う、うなされているようでしたので、つい、申し訳ございません」
震える声でそういう下男はかわいそうなほど怯えていた。
そうさせた自分を恥じて、剣を畳に起き、「洗濯が終わったのですね?」と訊ねた。
自分で言っておきながら、もう乾いたのか、と思うが、開いている襖の向こうは薄暗い。
「今、何時でしょうか」
そう下男に問いかけると、すでに夕方だと教えられた。なら着物も乾いただろう。しかしほんの少しの眠りのはずが、一日は眠っていたことになる。
「オリカミ屋敷で大勢が死んだと噂されておりますが、何か、ご関係でも?」
去り際に下男がそんな質問をした。やや礼儀知らずだし、ある面では命知らずだが、また怯えさせるのも申し訳ないので、「知りませんね」と答えておいた。まだ下男が不自然そうなので、昨夜は女と遊びまして、と冗談めかして言うと、ついに下男も諦めたようで去っていった。
一人きりになり、雨戸を開けてみた。
イチキの街は夕日も山の向こうに消え、宵闇に包まれている。
あの死闘から、一日が経とうとしている。
あまりに長く、この街に留まりすぎたようだ。
ミツのことが唯一の気がかりとして残っている。意識を回復する見込みがあるだろうか。それにあのまま、オリカミ屋敷にとどめ置かれるのだろうか。
マサエイが面倒を見てくれればいいのだが、書状で伝えるべきか、どうか。
こんな旅の剣士の言葉など、耳に入れないほうがありそうなことだ。
直接に会って話をするには、今、オリカミ屋敷を訪ねるのは避けるべきなので、手間もかかる。
何か、手段はないか、と思い、結局、また女を頼るしかない、と考えた。
旅籠の一階の座敷で素早く食事を済ませ、夜の街に出た。人々は昨夜の騒動など知らぬ様子で、騒いでいる。昨日の死者など、なかったかのような、明るい空気だった。
それが普通なんだろう。
他人の生きる世界なんて、所詮は他人の生きる世界。
通行人に混ざって菱屋にたどり着き、店の前にいる客引きに声をかけると、悲痛な表情に変わった。
「シユは、その、もうおりませんが、スマ様」
「知っています」
客引きは驚いたようだが、構わずに声を向ける。
「オリカミ屋敷に出入りできる遊女を、紹介していただけますか」
へい、こちらへ、と何かを悟った様子の客引きが神妙な、しかしどこか弛緩した顔で案内してくれるが、もちろん、その悟りは勘違いだろう。色っぽい話ではない。
座敷に通されて、少し待つと、若い遊女がやってきた。しずしずと膝を折り、長い髪を結いあげた頭を下げる。
「クツと申します」
遊女が顔を上げて、微笑む。
「どのような御用でございましょ? なんでも、オリカミ屋敷にまつわることとか」
抜け目のなさそうな遊女であることがわかったので、単刀直入に切り出した。
「オリカミ屋敷に、使いに行って欲しいのです」
へぇ、とクツが少し目を見開いた。
(続き)
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