第42話 独白
◆
酒でも出るかと思ったが、やってきた女将の付き人らしい少女は、お茶を用意して、すぐに出て行った。
二人きりになり、女性は眉間にしわを寄せ、低い声で言った。
「マサエイ殿は元気だったかね」
「はぁ。だいぶお疲れでしたが、ご病気などはないかと」
「マサジが死んで、あの方も苦しかろうよ。しかし、どちらを選んでもこうして破滅するとは、よほど運がないと見える」
どちらを選んでも?
急須から湯のみにお茶を注ぎ、こちらに差し出されるので、一度前に出てそれを受け取り、元の位置に下がった。
その時には老婆も湯のみを手にしている。
「シユのことは惜しいと思っている。あれだけの器量と気概を持つ遊女は、珍しかったから。しかしこれもやはり血なのかねぇ。呪われた血筋と呪われた血筋、さらにもう一つの呪われた血筋か」
そんなことを言いながら、湯のみを揺する老婆は、マサエイ以上に疲れているように見えた。
「名前を、お聞きしていません」
こちらから促すと、ちらっと顔を上げ、聞いてどうする、と聞こえるか聞こえないか程度の、答えがあった。
「あなたの言葉を聞いて、推測が立ち上がっているのです。それも、実に奇妙な推測ですが」
マサエイ殿、マサジ、という呼び方。
三つの呪われた血。
マサエイもマサジも、シユさえも呪われているとなれば、おおよその筋はわかる。
「あなたは」
自分で声にするのが恐ろしいほど、事態は難解だが、しかし、それ以上にあまりにも悲劇的だった。
「あなたはかつて、タキと呼ばれた女性ではありませんか?」
そう。
タキは死んでいない。地下の牢など嘘っぱちだ。
実際にはマサエイはタキをオリカミ家から追い出し、女郎屋の女将に据えたのだ。その上で、やがてイトがタキの血筋を攻撃し始めた時、マサエイの意図とタキの意図により、幼かったシユは、二人が見守ることができる菱屋に引き取られた。
マサエイの血を引くマサジを、タキと遠いとはいえ同じ血をいくらかは持つシユが討つ。
そしてマサジと半分は同じ血を持つリイも既に死んだ。
こうなってしまえば、マサエイを中心とする女たちとその子孫の系譜は、悲劇以外の何物でもない。
黙り込んだままの老女は湯のみを持ち上げ、ゆっくりと中身を啜った。かすかな音だけが、座敷に聞こえる。既に遊女たちが客を取っているはずが、そんな気配は少しもなかった。
ここはまるで、人生を終えた人間が、その余生を静かに送るための場所のようだった。
「すべては、子が出来なかったこと」
老婆が湯のみを下ろし、視線を障子の方へ向けた。
そこはただの廊下にしか通じないはずだが、そう、あるいはオリカミ屋敷なら、障子の向こうには中庭があったかもしれない。
「子さえできれば、変わったであろう。そうでなければ、マサエイ殿が、私のような無能なものを、素早く手放せばまた、それも違うところへ流れていったはず。誰が愚かだったのやら」
「運命、としか言いようがないかと存じます」
「それで全てを片付けろと?」
こちらに振り向く老婆には、狂気じみた色があったが、最後の一線で、それは正気の内側に足を置いているようだ。
おそらく今まで、数え切れないほど、終わることのない自問自答に耐えてきたのだろう。
自分のために、大勢が不幸になり、出血を強いられ、苦労の上に苦労している。
自分が別の決断をすれば、自分が何か行動を起こせば、不幸も苦労も悲劇も、全てを回避できたのではないか。
自分がマサエイと出会わなければ、とも思っただろう。
しかし二人が出会うこともまた、運命のようなものだったのではないか。それは全くの第三者の、無関係なものだけ言える戯言だろうか。
未来に立った時には、過去に無数の間違いが見えてくる。
しかしそれは過去が現在と呼ばれていた時には、決して見えない。
そして未来に立つということは、変えることのできない過去を無数に引き連れているということだ。
後悔することもある。懺悔することもある。自分の命の意味、価値が信じられなくなることもあるだろう。
それでもこれまで、生きてきたじゃないか。
そして長いか短いかは分からずとも、まだこの先には、未来という奴が待ち構えている。
まだ変えられる、変更可能な時間がだ。
「若いことだね、スマ殿」
「そうでしょうか」
「年をとると、何もかもが重苦しくてね、塞ぎ込んでしまうものだ。自分が間違っていたと思うことも多い。若いとは、後悔も少ないということさ」
そんなことはない、とは言えなかった。言えなかったが、心の中では答えていた。
そんなことはないのだ。この手を血で汚して、斬り殺してきた大勢を思い返せば、自分の誤りが、手に取るようにわかる。
別の選択肢、別の可能性、別の未来。
そんなものが常に頭によぎる。
もしそれを感じないように目の前の女性から見えているとすれば、それはただ、剣士だからだろう。
剣士は迷いを捨てることが求められる。
生死の境で、迷っているような余裕のある剣士は、生きていけない。
自分の死にさえ、躊躇いなく全てを賭け、わずかな間隙で勝利を拾うような場面ばかりだ。
もしそこで迷えば、反撃も出来ずに死ぬだけのこと。
湯のみに手を伸ばし、口をつけようかと思ったが、思考がそれを止めた。
目の前の女性がタキだとして、こちらの願いを聞き届ける理由がどこにある。
彼女が愛した男の未来を破壊した人間に、助力するか。
「安心しなさい」
低い声で女性が言った。顔を上げると、笑みが向けられている。
先ほどとは違う、さっぱりとした表情だ。
「女は女の苦労を知っている。無下にはしないさ」
心を読まれるとは、迂闊なことだ。
「男の不始末を引き受けるのも女の器量さ」
「恐れ入ります」
「当たり前のこと。男っていうのは、勝手なもの。まぁ、身勝手な女もいるがね。シユはなんで、ああ、あんなことを、ねぇ……」
すっと女性が指で目尻をぬぐったので、その様子を見ないためにまた、湯のみの中に視線を落とした。
「家族っていうのは、残酷なものだね。ただの人間の集まりのはずが、なんであんなに、無関係でいられないのか、お互いを考えずにいられないのか。いいことばかりじゃない。悲しいことも、虚しいこともあっただろうに、家族とは、まったく……」
すん、と老婆が鼻を鳴らし、嗚咽かと思うと、笑っているようだ。顔を上げると、目尻を下げて、彼女も湯のみの中を見ていた。
「私だけが、こんなに自由。夢みたいじゃないの。非情なのか、それとも、何かがおかしいのかねぇ」
そんなことを言う女性は、寂しげで、今や狂気は消え去り、穏やかな空気が部屋を塗り替えていた。
どこかで誰かが大きな声で笑う。そちらを見ても、何も見えない。
老女は再び、障子の方を見ていた。
もう笑い声は聞こえない。
(続く)
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