第5話 剣を貶めること

     ◆


 オリカミ屋敷で遅い昼食の席に呼ばれそうになるのを、ノヤが丁重に断ったので、自然と二人で屋敷を出ることになった。

「少し食事にしよう、スマ殿」

 そう誘われたのには、オリカミ屋敷から解放してくれた恩義もあり、さすがに断ることもできないのだった。

 二人で屋敷の正門からまっすぐに帯びる大通りに店を構えている、食堂のようなところへ入った。一階にはいくつも卓と椅子が並び、そこで賑やかに大勢の客が食事をしているが、ノヤは二階へ上がっていく。

 階段を上がると、途端に静かになった。個室に分かれているのだ。往来の人いきれもここまでは届かない。

 女給がやってきたのにノヤが注文するのに任せるが、話の内容では蕎麦を出す店のようだ。季節は春が終わろうという頃なので、涼しげでいいかもしれない、と思った。

「何年ほど、剣を習われた?」

 座敷から外を見ているところへそう疑問が投げかけられ、視線を転ずると、ノヤは真面目な顔でこちらを見ている。

「幼い頃からですから、忘れてしまいました」

 正直に答えたが、ノヤは少しも納得していない表情でそこにいる。

「武家の生まれで?」

「武家などというものはいませんでしたね。大半は農民です」

「統治するものがいたはずです」

「統治者はいません。責任者はいましたが、全ては合議でした」

 それはまた、とノヤがつぶやき、今度こそ困惑したようで何かを誤魔化すように口元を撫でる。

 故郷を出てからの長い旅の中で知ったが、今の社会は上下の区別がはっきりしている。それも支配者とその配下、というような二つにだけ分かれるものではない。最上位の支配者がおり、その下には支配者に支配されるものがおり、その下には支配者に支配されるものに支配されるもの、と階層をなしている。

 それが正しいのか、間違っているのかはわからない。

「剣を習ったのは、なぜです?」

 そう問われると、今度はこちらが答えに困る。理由など基本的にないのだ。見込まれたこと、訓練をしたら使えるようになったこと、そういう理由しかない。

 最初には剣を極めようと思ったことすらもなかった。

「自分で生きていくため、としか今になれば言えないですね。剣さえ身につければ、生きていけると思った」

 半ばは脚色して自分の心理を口にしたせいか、ノヤにはやはり通じない。

「仕官できる、ということですか」

「それに限りませんよ。殺し屋にも盗賊にもなれるでしょう」

 本音ではなく、実際的な指摘のつもりだった。

 それに対してギラリとノヤの目が光った気がした。

「それは剣を辱める、貶めることです」

「かもしれません。しかし剣は剣だ」

 冗談めかしてそう答えてみせると、じっとノヤが細めた目を向けてくる。細くなった目からは探る意思が見える。

 剣は剣だと教えてくれたのは、幼い頃に手ほどきをしてくれた老剣士だった。流れ者で、最初の時点で七十歳近かっただろう。そもそもあの秘境の人間ではなく、剣で生き延びてきたと言っていた。

 それはつまり、人を斬ることで生活の糧を得ていた、と理解するよりない。

 あの秘境では犯罪など滅多になかった。剣を習うものは他の村から自分の村を守るための技能として習うのであって、誰かを積極的に殺すために、誰かの支配する領地を切り取るために、剣を習うのではなかった。

 そんな、剣が純粋な剣として成立する世界の住民の中の一人だったはずが、こうして見知らぬ土地で、利己的に剣を振ることを説いているものがいるのだから、人間とは面白いものだ。

「人を切ったことは?」

 そうノヤが確認してきた時に、ちょうど料理が運ばれてきたので会話が中断した。

 小さなザルに蕎麦が盛られている。水で締めてあるようだ。小さな器の真っ黒い汁も冷たい。どうやっているのか、よく冷えている。

 食事が終わるまで、先ほどの会話のことには二人ともが触れず、料理についてああだこうだと話していた。

 お互いが食べ終わって席を立つ時、払いは私が持ちます、とノヤが言った。

「そこまでお世話になるわけにはいきません」

 そう断ろうとしたが、ノヤは譲らない。

 結局、彼が銭を払った。

「よろしければまた、道場へおいでください。あなたの剣をもっと知りたいのです」

 こういうことを言うために、払いを持ったのかもしれない。

「確約はできませんが」

 そう言い訳をしたが、お待ちしています、とノヤは頭を下げ、未練を見せずに颯爽と去っていった。

 結局、人を切った話をせずに済んだことに、安堵してもいるのだ。

 今まで、数え切れないほどの相手を切った。もちろん、個人的な憎悪のためや、盗みのためでも、誰かの依頼でもない。

 この社会には剣を向けあうことに、何かを見い出す型の剣士が大勢いるということ。

 剣を持つと、そういう陥穽に陥るらしい。

 純粋に、自分の実力を知りたくなる。それも命が永らえるか、それとも失われるか、という極限状態における実力をだ。

 そういう手合いと会ってしまうと、こちらの考えや立場は意味を持たなくなる。

 相手は殺す気で向かってくるのに、手加減して勝てる可能性など、ほんのわずかだからだ。

 自然、相手を斬り殺して、自分が生き長らえるしかない。

 通りを歩いて部屋を取っている旅籠に向かいながら、ノヤの道場に行くべきかを真剣に吟味したが、行ったところで仕方がないだろう。あそこの稽古の方針は不愉快でもある。

 そういえば、とマサジの言葉が頭によみがえった。

 ノヤが切れなかった相手がいる、と言っていたはずだ。

 確か、朽木、と呼ばれていた。それが名前でもないような口調だったが、通り名だろうか。

 どこかで聞き込むにしても、知り合いがいない。

 どこかから聞き出すとしてノヤの道場の門人に聞くのが一番の近道にも思えるが、それはどうしても、あまり気が進まない選択だ。

 ノヤには知られずに、朽木の正体を知りたいものだ。

 仕方なく旅籠へ戻り、一階にある座敷で客に食事の世話をしている女中を捕まえて聞いてみることにした。客は一人で、ちょうど手が空いた様だった。

「すまないが、聞きたいことがあるのですが」

「あい、あい、まずは足を洗ってくださいね」

 女中は慣れた様で応じて、奥から水の入った桶が持ってこられた。それほど汚れてもいない足を洗って、女中が手ぬぐいを持ってきたので、そこでやっと訊ねることができた。

「朽木と呼ばれる御仁がいるのかな」

「クチキ様? さあ、存じませんねぇ」

「名前ではなく、あだ名かもしれない」

「私の様なものにはとんと、耳にしたことのない名前ですねぇ。あとで店のものに聞いておきましょうか」

 頼む、と頭を下げると女中も頭を下げる。

 二階の部屋に上がり、畳に寝転がって目を瞑ると、ノヤの様子が闇の中に浮かんだ。

 オリカミ屋敷の中庭で木刀を向けあった場面だ。

 どうやって崩すか。

 どうやって倒すか。

 そんなことばかり考えてしまう自分がどこか可笑しく、しかしその想像が命を繋ぐ鍵でもあるのだ。

 失礼いたしやす、と襖の向こうで声がする。起き上がり、目を開くといつの間にか部屋の中は夕日に染まっていた。

「どうぞ」

 へい、という声とともに襖が開くと、初老の冴えない風体の下男らしい男がそこにいた。



(続く)

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