第6話 朽木という剣士
◆
下男が部屋に入ってくると、その顔がよく見えた。かなりの高齢で、顔はシワだらけでしぼんでいるし、体つきも痩せている。畳についた手などは枯れ木のように見える。
「朽木様のことをお知りになりたいとか」
そう下男の方から切り出してくれるのはありがたい。
「そう、どういう方ですか? 剣術家だと思いますが」
「あの方は、人斬りでございます」
予想外の返事だった。実は、剣豪、という表現だろうと期待半分に想像していたのだ。
「人斬り、ですか?」
「全ては相手に剣を向けられたからとはいえ、全員を切っているのですから、人斬りでございます」
「決闘を挑まれた、という意味ですね。それなら人斬りというのは、言い過ぎでしょう」
たしなめる気もないし、自己弁護でもなく、ましてや見知らぬ相手を擁護するわけでもなく、自然とそんなことを言っていた。
へい、と下男が用心深そうに頭を上げる。そのへりくだった態度には、こちらの方が申し訳ない気持ちになった。
「すみません、言いすぎました。何人を切っているのですか?」
「あっしが知る限りでは、十七人」
それはすごい数だが、疑問が湧く数だ。数を疑うのではなく、剣を向けあうということを鑑みた時に、十七という数字に疑問が浮かび上がるのだ。
「それだけの手合いを無傷で切り抜けたわけではありませんね? 手傷を負ったはずです。それとも、圧倒的に強いのですか? 相手はゴロツキか何かですか?」
そう訊ねると、一層、下男は頭を下げた。額どころか鼻さえも畳に擦り付けんばかりだった。
「みな、それなりに腕に覚えのあるものです。朽木様は、その……」
黙り込んだ初老の男は頭頂しか見えないが、夕日の中で微かに震えているようだ。何がそれほど恐ろしいのだろう。
ああ、そうか。人が人を斬り殺すという場面、事態、それは恐ろしいことなのだ。
どこかで感覚がずれてしまったことが不意に理解されたが、この感覚のズレがなければ、とても剣士などできないだろう。恐怖を管理する意志が必要になる。
じっと下男の言葉を待つと、細い細い声が唇の隙間から漏れてきた。
「すでに剣を振れないと存じやす」
剣を振れない。手傷、それも深手を負ったからか。
剣士の間ではよくあることだ。体のどこにも傷を負わずに相手を切り倒す場面は稀だからである。指を失うことは多いし、場合によっては腕を失うもの、足の自由を失うもの、そんなものがどこの街にもいる。
命の取り合いなのだから、生きているだけでも僥倖。
「若い方ですか?」
話題を変えてみると、下男がわずかに顔を上げた。意外に鋭い視線が上目遣いにこちらを見やった。
「五十になろうかというところかと思います」
え? と思わず声が漏れてしまった。
「ちょっと待ってください。十七人を切ったのは、それほど前のことではないですよね?」
昼間のマサジの言葉は間違いなく、ノヤが切れなかった相手、という意味以外にありえない。
そのノヤはまだ二十代だろう。朽木という男性が五十になるとすれば、どう余裕を持って推測しても、年齢が不自然に思える。
五年ほど前に二十歳前後のノヤと朽木の手合わせがあったと仮定すれば、朽木はその時には四十代だろうことになるのだ。
四十代であのノヤの勢いに対抗できたのか。
何か勘違いしている自分に気づいた。ノヤは今、まさに脂ののった年齢に差し掛かっていて、朽木はこれからは衰える一方のはずなのに、マサジはどこか朽木を認めているようだった。
つまり、朽木という剣士は、今も、年老いた今でもその精強さを維持している、と考えるよりない。
「切っているのは年に一度ほどでございます」
目を細めて下男が言う。
「どこかから噂を聞いたものがやってきて、やり合うのでございます。それはそれは、恐ろしいことで」
目を伏せる様子から、本当に下男が怯えているのは理解出来る。
やはり感覚のズレからか、下男にとって何がそれほど怖いのかに興味が出た。
「血が飛ぶのですか? それとも、人が死ぬのが恐ろしいのですか?」
「あの方が……」
記憶を呼び覚まされたようで、露骨なほどに震えながら、下男が言う。
「血だらけで、立っているのです。まるで、それは鬼のようで……、以前は「赤の夜叉」とも噂され……」
血だらけ。返り血だけではないのだろう。先ほど下男が言った通り、その朽木という剣士は手傷を負っているのだ。ただ、血まみれになるほどの手傷を負うことがあるだろうか。
剣を持って切り結ぶと、例えば一撃で相手を殺す必要は必ずしもない。
相手の腕を切ってもいいし、足を切ってもいい。肩を切ってもいいし、肘を切ってもいい。膝を切っても腰を切ってもいい。
世間で礼賛される剣術は、一撃で相手を仕留めることをよしとする傾向がある。
ただし実際の戦いでは、一撃で仕留めるよりもじわじわと相手を弱らせて倒す方がはるかに多い。
中には必殺の一撃に見せかけて膝などを断ち切って、動きの鈍った相手へ万全の状態で本命の一撃を加えることで、実際には連続攻撃なのにさも一撃で決めたように見せる剣士もいる。
卑怯かもしれない。姑息かもしれない。
しかし剣術とは、生きているものの技こそが正しいのだ。
「今も朽木殿はこの街にいるのですか?」
「へい、あまり表にも出ませんが、息子と娘と暮らしておると存じます」
「場所を教えてもらえますか」
下男が勢いよく顔を上げた。
「お切りになるのですか?」
あまりに下男が目を丸くしていて滑稽だったのと、声にはこちらを心配する色が濃かったために、思わず短く声をあげて笑ってしまった。
「まさか。何の噂も聞いていなければ、顔だって知りません。剣術のほども知らないのですよ」
「し、失礼、しやした」
それから下男は大雑把に場所を教えてくれた。街の一角の長屋の群れの中にその朽木の住まいがあるらしい。
礼を言うと、下男が頭を下げて這うようにして部屋を出て行くと、静かに襖を閉めた。
ちょうど山に日が落ち、周囲が薄暗くなってきていた。
(続く)
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