逃げ場がない!
エロシーンを先に書いてくれ。その命令に対し、僕は気楽に返事を返した。やったことはなかったけれども、ラノベではラッキースケベシーンがあるし、僕とてエロ本やエロマンガに触れた経験がないわけではない。
だから何やかんや書けると思っていた。なんて甘い考えなんだろう。
「世の中の大学生が恋愛だスポーツだと楽しんでる中、なんで僕はエディタに喘ぎ声書いてるんだろう」
正直死にたくなってくる。席を立って冷蔵庫の牛乳をコップに注ぐ。こんな作業やっていたら頭が茹だる。とっとと終わらせたいものだ。
とりあえずエロシーンを言われた通り書いていたのだが、なかなかに精神を削ってくる。なぜだろう。いや、考えるまでも無いか。
「よし、一シーン目終わり。次は何にするかな……」
エロシーンは五回作るように言われた。であれば五回分飽きさせないようなシチュエーションとプレイを作らなければならない。自分のエロの引き出しはそんなにないので、必死に頭を絞る。
「あーまったく、バリエーションが無いなぁ」
僕が書いてきた物も読んできた物もラブコメとしてのラッキースケベぐらいはあっても、明確なエロシーンは無い。完全に未知の領域がエロだ。先輩に借りたエロゲを何個かやったが、小説畑の人間のせいかいまいち掴みどころがない。
「うーん、違う」
少し書いては消すを繰り返す。どうにもしっくりこない。なんだか違和感があるというか、書いていて面白いと思えないのだ。
適当なエロゲを起動し、クリックして文章を進める。この文章と自分の書く文章の何が違うのか。適当に話を流し見していくが、これという原因は見つからない。
何が良くて、何が悪いのか。ふわふわとした掴みどころのない問いが頭の中でぐるぐる回る。
「心のちんこ……」
部長の言葉を思い出し、視線を下に落とす。パンツの向こうに普通のちんこがあった。もう一度自分の文章を見る。興奮するか? と問われればNOと答える。僕の股間はぴくりともしない。
「いや、でも自分の文章だしなぁ……」
自給自足? 地産地消? なんにせよ、自分の書いた文章で自分を興奮させられるのだろうか? そんな光景は想像がつかない。
「喘ぎ声ってどう表現すればいいんだろう……。ま、適当に書いてみるか」
とりあえずアンアン書いてみたが、何か違う。稚拙、というか何か書いてて恥ずかしい。しっくりこない、というか違和感がある。
「ん~~?」
首を傾げる。どういうわけだろう。他の作品と比べても遜色は無いと思うのだけれど、でも僕のはまったく面白くない。なんだろう。規格の違う鍵穴に鍵を突っ込んでいる気分だ。
「っと」
携帯が震えた。画面には柳田香苗の文字。ボタンを押して耳に当てる。
『もしもし』
「あ、先輩ですか? どうかしました?」
『作業は順調かと思ってね』
なんていいタイミングなんだ。作業に詰まって困っている所でちょうど電話をかけてくるとは、僕の動きが読まれているのだろうか。バトル漫画にでも生まれていればよかったのに、と馬鹿なことを思った。
「残念ながら、順調とは言えません。書いていても……どうにも」
ぽりぽりと頭を掻く。泥濘に嵌まっていて、足の動かし方が分からない。そもそもゴールがどこかも不明だ。
『予想はしていたよ。ま、仕方がない。エロを書くのは簡単ではないからね』
「それもありますけど、それ以上に……この作業死にたくなるんですけど」
エロテキストを延々書き続ける。それはいいのだが、出来上がった文章がまったくエロくないのが辛い。夜中にせっせとエロ未満の何かを作るのは徒労感がきつい。
『死ぬなら書き終えてから死ね』
辛辣なことで。コップの牛乳を一口飲む。言っている僕も半分冗談で、与えられた仕事をほっぽりだす気などない。
「あの、質問ですが。エロって書けば書くほど脳が馬鹿になりません?」
『なるわけないだろ。君はPTAの老婆どもか何かか? 下品なものに触れれば下品になるというのなら、ボクはとっくに留置所だ』
確かに、納得である。僕の理論だとうちの部員全員が今頃臭い飯を食べていないとおかしいことになる。こんな的確で隙の無い反論があるとは思わなかった。
『言い訳などどうでもいい。とっとと書くんだ』
書くしかない、書く以外に僕に価値は無い。そう言われている気分だ。実際そうだし、それ以外に僕に仕事は無いし、そもそも書くことに今現在困っているのだけれど。
『分かっていると思うが、喘ぎ声をコピペなどするんじゃないよ。一目で分かるから』
「そんなことするわけないじゃないですかー」
図星だ。僕の行動はお見通しか。コピペした部分をバックスペースで消していく。なんとも情けない。
『書き終えたら実際に声に出して読んでみるんだ』
「はぁ!? いやですよ!」
『君はひとり暮らしだろう。なら問題ない。それに自分でも恥ずかしいものを人に見せる資格は無い』
「いや、ですけどエロ文章ですよ!? 恥ずかしいですって!」
『歌子がいなかった時代はボクが声優を兼任したこともある。ボクは自分で書いた作品を気持ちたっぷりこめて声に出した挙句、録音して仲間にチェックされ、その上全世界にデータでばらまかれたのだが?』
「…………いや、すいません」
つまりこの人はシナリオライターだから、自分の書いた喘ぎ声を自分で録音したことになる。すげえ。僕なら絶対できない。
『いいか、喘ぎ声や隠語がワンパターンなエロゲはつまらないんだ。君にも経験があるだろう』
「あるわけないでしょ!」
『それに君の文章は音声になるんだ。黙読したら大丈夫でも、実際に口に出したら変な文章だって多い。文章では平坦でも、声に出すと感情が伝わることもある。特に感嘆や叫び声などはうまく書かないと歌子に文句言われるぞ』
「はあ……」
『では普通のラノベに例えて見よう。戦闘シーンで「えい!」と「やあ!」しか言わないバトル物は面白いと思うか?』
「いや……それは……」
『そういうことだ。実際に口に出してみて、ワンパターンになってないか、キャラに合っているか、リズムは変じゃないか確認するんだ。歌子がボイスをつけるのはそれからだ』
実際に口に出すと言っても、男子大学生がエロテキストを音読するというのはハードルが高い。それだけならまだしも、テキストは自作なのだから救いようがない。
『よし、ちょっとやってみよう』
「え?」
『あん、ダメ! そんなところさわっちゃ!? んんっ!』
「テロ行為は条約で禁止されている、直ちに停止せよ。繰り返す直ちに停止せよ」
『なんだ急に。人の親切を素直に受け取りたまえ』
夜中に知り合いの喘ぎ声の演技が電話口から流れてくることを喜んで受け入れられるほど僕は悟っていないのだ。むしろ苦痛だ。
『まあ、本職の歌子には勝てないがそれなりだろう? 昔取った杵柄というやつだ』
「それなりだから困るんです。これが棒読みだったら僕も困ってません」
なまじ本格的というか、リアルだから反応に困るのだ。勘弁してくれ。幸い心のちんこは勃起していないのだけが救いだ。
『じゃあ頑張れ。それじゃ』
「え? 終わり!? この喘ぎ声でアドバイス終了!? ……って本当に切れた! 嘘だろ!?」
前半はともかく、後半は本当に茶化されただけだった。通話が終了した電話をポケットにしまい、PCの画面を見つめる。そして再びテキストを書き始める。言われた通り音読をしながらだ。
「なんだろうなこの恥ずかしさとも嫌悪感とも取れない感覚……。はぁ……」
かといって止まるわけにもいかず、ひたすら音読しながらの喘ぎ声打ち込み作業。ただただ虚しさが積もっていく。まるで英単語の記憶でもしているかのようだ。
「あん、ああん、だめ、そこは! イク、イッちゃう! …………死ね!」
画面に右ストレートをかます。駄目だ、僕のガラスのハートはこの苦行に耐えられない。正直いますぐ寝たい。なぜ僕はこんなことをやっているのだろうと哲学的な問いすら覚える。
机に突っ伏し、自分でもよく分からない呪文を口ごもる。ああ、悲しいかな。これを書き終えたら人に見せて確認してもらわねばならない。そう思うだけで死にたくなってくる。
「やりたくない。だけれどやらなければ終わらない」
無心だ。心を無にするのだ。昔、熱いシーンを書いたときはその分テンションが上がっていたが、今回エロイシーンを書いても心はエロを求めない。むしろ反比例して心が静かになっていく。
「そう、これでいいんだ」
そうだ。心を水平線のように落ち着かせるのだ。女も男も関係なく、等しくそこには無がある。快楽ではない、番を求めるのは生物の本能だ。生物が交尾によって増え、時代の中で進化していく。その中で人は道具を作り、文明を作って来た。狩猟の中で生きてきた人類はいつしか農作を覚え、発展と共に社会や国というコミュニティを作ってきた。経済、文化、宗教。人が人でいるためのルールによって世界は生まれていく。そうか世界の真理はエロだったのか。これが世界の本能。
「…………はっ。僕は一体何を」
今、思考が宇宙の隅まで飛んでいた。心を静かに保ちすぎてしまったかもしれない。賢者モードが行き過ぎてしまった。
「あー、もう今日は寝ようかな」
思考の迷宮に嵌まってしまった。何をやっても上手く行かない日が人にはあるのだ。今日は諦めて寝よう。
ベッドに腰かけたところで再び電話がかかってきた。
『早くエロシーンを書く作業に戻るんだ』
「エスパーですかあなたは」
なぜ僕が作業を止めたことが分かる。僕の部屋に監視カメラでも仕掛けてるんじゃないだろうな。あちこち見てみるがそんなわけがない。
『作家志望が行き詰った時にやることは三つだ。息抜きに遊ぶ奴、息抜きに寝る奴、息抜きに他の小説を書く奴の三つしかない。君は二つ目だと確信していたんでね』
「どの辺から読み取ったんですか!?」
『さあ? 自分で考えることだね。学問は心理学に限らず、まずは自分で考えることからだ』
「………………いや、全然分からないですけど!?」
思わせぶりなことを言われたがまったく意味が分からない。
『下品なものを書くのは難しいことだ。下品な人間には書けない。頭の中がスカスカの人間に書けるほど、エロは甘くないよ。なんせ人間の原始の快楽だ』
けらけらと笑う部長の声。
『エロというのはそこに至るまでの過程が大事なんだよ。ただヤるだけでは獣の交尾だ。知っているかい? 行為の前にキスをするのはボノボと人間だけらしいよ』
「ボノボは獣でしょ」
『残念ながら遺伝子的にはほぼ人間だ。アフリカ象とインド象より人間とボノボは近いんだよ。獣の様に、なんて性行為を揶揄することがあるけれど、ならば君が書くのは人間のようなエロだ。かつてローマ帝国はオーラルセックスを禁じた。アメリカもオーラルセックス禁止法や同棲禁止法を作った。そんな禁じられた欲望をボクらは求めてるんだ』
では、と一方的に通話を切られた。彼女の言いたいことはこれっぽっちも分からなかった。
「どうですか……」
僕は部長に渾身の一作を見せた。部長はそれを受け取り素早く目を通していく。そして数分後、ゆっくり息を吐いた。ワクワクして感想を待っていると、無言で肩に手を置かれた。
「せめて言葉にして!?」
「いや……その……いやー……」
「そんなにだめですか!?」
「まあ分かっていたとも。君が最初から上手いエロシーンを書けるわけではないと」
部長は駄目な子犬を見るような目で僕を見ている。
「原因は簡単だ。振り切ってないね」
「第一声がそれですか」
「なんか、シーンに恥ずかしさを感じるんだよ。『俺はポルノなんて書く器じゃないんだ。もっと純文学などの世界で活躍する男だ。こんな下劣な物を書いているのは仕方なくだ。おっぱい揉みたい』って感情が文章から伝わってくる」
「そんなこと思ってません」
特に最後のは。第一僕ラノベ作家志望だし、純文学など特に興味は無い。そもそもこの部活において純文学を書いたら、絶対異常者を見る目で見られるだろう。少数派にもほどがある。
「嘘だ。だって君はそういう人間だ。全然ダメだこれでは」
その対応に僕も少しカチンと来た。
「ちゃんと何が駄目か言ってください!」
流石の僕もムカついた。抽象的にダメ、ダメと。アドバイスならもっとまともな言葉をよこせというものだ。嫌がらせのつもりか! と言いたくなる。
「じゃあ訊くけど、君はこのシーンを書くのに何本のAVを見た? エロ本は? エロ漫画は? 官能小説は?」
「は?」
「は? じゃない。一体何本見てどれだけ参考にしたか訊いているんだ」
ゼロですと正直に答える。参考も何もそんなことをする必要など無いだろう。別に歴史小説を書いているわけではないのだから。
「やっぱり」
部長が失望して目を閉じた。
「これがもし普通の小説だったら君は取材も勉強もしただろう。例えば織田信長が主人公だったら図書館で本を借りるなり、もしくはネットで調べるなりしたはずだ。いや、たとえ現代物でも多少はやるだろう? でも今回は何もしてないんじゃないかい? どうやって書いた?」
「……想像で」
「想像? はっ!」
馬鹿にしたというより情けなさを隠しきれないと言わんばかりに鼻で笑った。
「参考にするためにエロゲもやりました!」
「なんでエロゲのテキスト書くのにエロゲのテキスト見るんだ。漫画を元に漫画を描く漫画家がいるかい?」
それは問いかけではなく反語だ。
「どうして君の妄想に付き合わなくちゃいけないんだ。体験したこともない。勉強したわけでもない。調べてすらいない。そんな奴が書いた描写の何が面白いんだい。参考資料もない本のどこに興味を引かれる? 童貞が頭の中だけで思い浮かべた性行為にどれだけの価値がある? 野球をやったことがない人間に野球小説は書けないとは言わない。タイムスリップをしたことがない人間にSFが書けないとは言わない。でもそういう問題じゃないだろう。仮にも物語書いて食っていこうって人間が、どうして調べもしないで表現できるんだい?」
言い返せない。どこまでもその言葉は正しくて。僕はただ突っ立っているだけだった。
「このエロシーンではまったく興奮できない。薄っぺらいからだ。演技が下手なAV女優を見ている気分だ。せめて演技はしたまえよ」
心をボコボコの袋叩きにされた。悔しくて悲しくて仕方がない。言い返すことすらできない。
「今や情報化社会。自慰をしたければネットにいくらでも無料の物が転がっている。違法ダウンロードだってごろごろしている。そんな中、エロコンテンツで客に金を払わせるのは難しい。だから……まあ……えーと……頑張れ!」
「いいセリフが思いつかなかったんですね」
台無し。なぜ最後までまともに先輩ぶることができないんだこの人たちは。ここで最後までいいセリフで終わらせたら素直に尊敬できたのに。こういうところが実に部長らしい。
「三流官能小説家になりたいならそれでいい。でもね、ボクたちは一流を目指す。最高の物を客に届ける。君がエロに対して忌避感、嫌悪感を抱くのは自由だが、チームの一員として一定のクオリティは要求する。できないなんて言わせないよ。世の中には酒の飲めない杜氏も、免許のない自動車整備工だっている。エロが嫌いであることは、エロができないこととは矛盾しない」
部長は席を立つと僕に向けて小さく微笑んだ。
「エロをなめるな。月曜日、また持ってくるんだ。ちゃんと資料を見て調べた奴をな。物語で客から金を取ろうと思うなら妥協はしないように」
部長はまるで役に立たない紙屑かのように原稿を投げ捨てた。僕に対する嫌がらせだとかパワハラだとかではなく、ただ純粋につまらないと思ったからだろう。
「いやー、言われたでござるなー」
「……なんで僕の後ろを着いてくるんですか」
がっつりと言われて落ち込む僕の後ろを、勝義先輩と次郎先輩がにやにやと笑いながら着いてくる。
「沈んだ後輩を慰めるだけでござるよ」
「放っておいてください」
人間一人になりたいときもあるのだ。特に自分のアイデンティティをぼろくそ言われた日などは。誰しもが悲しいときに誰かと盛り上がりたいわけではない。部屋の隅っこで体育座りをしたいときもある。
「任せろでござる。ラーメンぐらいなら奢ってやるでござる」
「……俺も混ぜろ」
「酒飲んでタバコ吸って腹一杯食えばハッピーでござる!」
「僕まだ一年生です」
「……? ……一年生でもラーメンは食えるぞ?」
飲酒と喫煙の二つだよ。ラーメンは誰でも食えるに決まってんだろ。
「まあまあ、人間愚痴を言いたいこともあるでござるよ。ほら、拙者になんでも話してほしいでござる」
先輩が肩を叩き、にこやかに笑みを浮かべる。この人がこんなに親切なんておかしい。何か裏があるな。
「本音は?」
「先輩ぶりたいでござる」
「正直っすね」
百パーセント善意だとは最初から思っていなかったが、ここまで正直に答えられるとは思ってもみなかった。
「だって~拙者の下は歌子殿と友樹殿しかいないでござるが、歌子殿はしっかり者だから愚痴なんて吐かないでござるし、そもそも先に同性の香苗殿に相談するに決まっているでござる」
「むしろ先輩は大学の就職課に相談するべきでは?」
「……後輩が先輩の心配なんて百年早い」
いえ、六回生のあなたに関しては二年遅いかと。もはや完全に手遅れである。
「いや~いいラーメン屋見つけたんでござる。ちょっと歩くけどライスが無料なんでござる。しかもお代わりもタダ!」
「……よし行くぞ。ラーメンなんていつぶりだろうか」
「そんなにラーメン食べてないんですか?」
「……ラーメン屋、怖い。なぜあいつらは皆黒いTシャツを着ているんだ。そしてなぜ俺の注文を大声で言うんだ。コミュ障に配慮してほしい」
「それでよく日常生活生きていけますね……」
まさかラーメン屋も服装と声の大きさで文句を言われるとは思っていなかっただろう。
「……ちょっと待て、財布を確認する。……三百円」
「はっはっは。駄目でござるな次郎殿。年長者たるもの常に万札を――二百八十円」
「……ふーん。勝義先輩の一万円札は二百八十円なんだ。……憧れちゃう」
「三百円に言われたくないでござる。というかそっちの方が年上でござろう」
「……俺が二十円勝ってる」
「二十円程度で上から目線でござるか? そういう精神がこどもっぽいでござる」
「……二十円だろうが一万円だろうが勝ちは勝ち」
両方負け……いや、何も言うまい。僕は奢ってもらう立場なのだから。ここで後輩である僕が何かを言うべきではない。たとえ自分の財布の中に一万円が入っていてもだ。こういう時は空気を読むのが大事なのだ。
「しょうがない。拙者の家で袋麺でも食べるでござる。次郎殿は野菜を買っていただきたい」
「……分かった。……ちょっと待て、電話だ」
次郎先輩がポケットから携帯電話を取り出し、画面をじっと見つめている。
「早く出たらどうですか? 別に僕らは気にしなくていいですよ?」
「……いや、滅多に電話なんてかかってこないから……ちょっと息を整えてる」
「………………そうですか」
「……憐みの目を止めろ」
いや、なんか、その……ねぇ?
四回ほどのコール音の後、ようやく次郎先輩は電話に出た。何やら小声でやり取りを交わし、最後に次郎先輩が頭を下げて電話を切った。
「……すまん。バイト先に呼ばれた。今日はここでお別れだ」
「え!? バイトしてるんですか!? コミュ障なのに!?」
「……お前、奢ってもらう気あるのか?」
「いや、つい……すみません」
この人のコミュ障っぷりはこれまでの付き合いで大体把握している。コンビニ店員に話しかけてどもる光景を数度見ているぐらいだ。そんな人がバイトだなんて、どうにも信じられない。
「……また今度誘ってくれ。……それじゃあ」
「あ、待つでござる。三百円は置いて行ってほしいでござる」
「……!? なぜ!?」
ラーメンを食べないのにラーメン代を支払わされる理不尽に次郎先輩の顔が驚愕に染まる。僕だって同じ反応をするだろう。
「後輩を慰めるためでござる。ついでに一緒に食う拙者のためでござる。ほら、ほらほら」
「……なぜ自分が食いもしないラーメンのために金が使われるんだ。しかも片方は後輩でもない……」
「毎度ありー。いやーいい先輩でござるな。ほら友樹殿、お礼を」
「いやその……なんかすみません」
僕は何一つ悪いことはしていないのにどうにも気まずい。苦虫をこれでもかというぐらい噛み潰した顔をしながら財布をひっくり返す次郎先輩になんと声をかければいいのだろう。
「……お前ら嫌いだ」
「拙者は好きでござるよ? お金くれたし」
「……特に勝義はいつか殺す」
殺意を隠そうともせず、呪詛を唱えながら次郎先輩は去って行った。あのまま神社で丑の刻参りでもするんじゃないかという眼だった。
次郎先輩に心の中で謝りながらスーパーで食材を買い、買い物袋を手に勝義先輩の家へ向かう。道案内通りに辿り着いたのは、僕のアパートと大して変わりのないところだった。
部屋に入ると想像以上に綺麗な部屋だった。足の踏み場もない、なんてことはなくきっちり整理整頓されていた。
「結構きれいなんですね。意外です」
「どういうのを想像してたでござるか?」
「あちこちにエロ本が置いてて、煙草の臭いが染みついているみたいな」
「部屋で煙草は吸わんでござるよ。同居人に迷惑でござるから」
「同居人がいるんですか?」
ルームシェアというやつか。家賃が安くなるし、気の合う友達ができたら僕もやってみようかな。勝義先輩は棚を指さした。
「あのフィギュアに臭いが付いたら困るでござる」
「同居人ってそれかぁ……」
分煙・禁煙が進む今日この頃、喫煙者の皆様方はフィギュアにも気を使うことが当然らしい。色とか臭いとか付くと困るからね。
「いや、流石に学生の目の前で煙草吸うのは駄目でござる。副流煙怖いでござる」
まさかのフィギュアを一個の生命体と捉えている御仁であった。オタクの鑑である。フィギュアに肺が付いていないことなど些細な問題なのだろう。実に見習いたいものだ。
「じゃ、ラーメン作ってくるでござる」
「変なもの作らないでくださいよ」
「作らんでござるよ。少しは拙者を信用できないでござるか?」
ヒント、今まで信用されるような行動を取っていない、という言葉は口に出さなかった。
台所に向かった勝義先輩。僕は特にやることもないので適当に視線を彷徨わせる。特に変なところはない。文芸部の人間はもっと変態的な部屋だと思っていたがそうではないらしい。一般的な男子大学生の部屋だ。
「でも教科書の上に埃が積もっているのはどうかと思う」
明らかに使っていないのが丸分かりだ。やはり授業は真面目に受けていないらしい。それ以外の教科書も触れたら指が切れそうなほどに綺麗だ。つくづく現代日本の教育を考えさせられる。
「ん?」
本棚の隅っこに毛色の違うゾーンがあった。その部分だけ紙の色がくすんでいて、明らかに使い込まれていることが分かる。
「どーせ、エロ本かなんかだろ……ん?」
それは四隅が丸くなった一冊の本だった。
「『簡単デッサン 人体の仕組み』……」
分厚いハードカバーの本だった。あちこちが掠れ、紙には癖がついている。まるで辞書だ。
「『難しいポーズを描ける本』『肉・骨・関節を描く』『構図とパース』『写実の世界』」
大量の教本と共に出てくるスケッチブック。どれもこれも表紙は掠れ、紙は手垢で黄ばんでいる。中を開くとこれでもかというぐらい手書きで線や図が書き込まれていた。
「……」
ここまで読み込んだ本が僕にあるだろうか。いかなる教科書も、いかなる小説もここまで読んだことはない。受験の時の赤本だって、ここまで読みつぶしたかは怪しい物だ。
他の本を見る。ピカピカの辞書や指が切れそうなほど角の立った教科書。それに比べてこの教本のなんと使い込まれたことか。
「ちょっとー!? 何見てるでござるかぁ!?」
「え!? 駄目でした!?」
「そっちのエロ本を見るならともかく! どうしてこっちを見るでござるか!?」
「普通逆じゃないですか!?」
ラーメンを急いで机に置いた勝義先輩は、僕の手から本を力づくでひったくった。恥ずかしいものどころか自慢できるものだと思うのだが、先輩は顔を真っ赤にして本を隠していた。
「あーもう恥ずかしいでござる。尻から火が出そうでござる」
「顔から出してください」
尻から火が出たらそれはただの変態だ。
「拙者、初心な人間でござって……。こういう努力の跡を見られるのがすごく苦手でして」
「初心な人間は初対面で性癖を暴露しません」
この人に、いや文芸部に所属している人間に羞恥という概念があるなど想像もしなかった。恥などという概念は母親のお腹に置いてきた集団だと思っていた。
顔を真っ赤にして恥ずかしそうに頬を掻く先輩。普段はおちゃらけて、というか今もおちゃらけているが、その絵の腕は本物だ。
「……努力、してるんですね」
「そりゃそうでござるよ。絵は一朝一夕、いや人生懸けて描いても完成しないでござるから。日々精進でござる。毎日描いてるうちに習慣になって、おのずと上手くなったんでござる」
割り箸を割り、ずずずっと先輩がラーメンをすする。
毎日描く、やり続ける。それがどれだけ単純で、かつ難しいことかは二十年近く生きていれば自然と分かる。たとえ勉強だろうと趣味だろうと、それを毎日行うというのはそれだけで才能であることを僕は知っている。
「これから好きな物で飯食っていこうという人間が努力しなかったら、そいつは一生努力しないでござる。拙者、勉強も運動も努力したことはないでござるが、これだけはずっとやってきたでござる」
そう言った先輩の中指には大きなペンダコがあった。一体何枚の絵を描いて来たらこうなるのだろう。百や二百ではこうならないはずだ。
「皆、そうでござるよ。次郎殿は大学入ってからプログラミングを始めたから、今まですごくやり込んだと思うでござる。歌子殿はカラオケ屋の店員に声を覚えられるまで声を出す練習をしたらしいでござる。部長殿は何十万文字、何百万字も物語を書いていたでござる」
部室にあったPCを思い出す。キーボードに刻まれた文字が擦れて消え、何が何のキーなのか分からなくなっていた。
「やらなきゃ身に着かないのはなんの分野でも同じでござる。だから皆やるんでござるよ。あ、今のめっちゃ先輩っぽくなかったでござるか?」
「……それさえ言わなければ」
どうして文芸部の人たちは後輩に素直に感心させることできないのか。ほんの少し黙っていれば、僕は尊敬の念で彼らを見ることができるのに。
「ま、好きこそものの上手なれ、というやつでござるよ。好きなら努力は苦じゃないでござるし、努力すれば技術は身に付くでござる。拙者も大人でござるから、努力すれば夢が叶うとは言わんでござる。けれど夢を叶えるには努力が最高効率だと胸を張って言えるでござる」
拙者のキャラではないでござるな、と恥ずかしそうに笑いながら先輩は言った。努力が最高効率。その通りだ。ほんの数回シュレッダーにかけられたぐらいで僕は何を落ち込んでいる!
「ありがとうございます!」
一気に麺をすすった。これを食ってまた今日から再チャレンジ――ッ!?
「辛いッ! なんだこれ!? ぐえっ!」
「七味を大量に入れておいたでござる。変なの作るなって言われたからフリかなって」
「そんな芸人みたいなこと求めてないわい!」
本当に、最後まで締まらないのがうちの部員の特徴だ。のどの痛みに咳き込みながら僕はそう思った。
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