第46話 暗転

     ◆


 息が詰まる。

 吐き出したいものが吐き出せず、吸いたいものが吸えない。全身の感覚が曖昧になり、復活しを繰り返す。視界は薄暗い上に薄暗くなる。

 目の前にいる男がこちらに銃を向けているのはわかる。

 俺はもう再起不能と思っているのなら、猶予はある。その余裕につけ込むしかない。

 左手がゆっくりゆっくり、しかし激しく震えながら、腰の注射器に向かっている。あと少しで手に取ることはできる。掴んで、服の上から足にでも注射するしかない。

 効果が薄れてもいい。ほんの一瞬、銃を拾って、照準し、引き金を引くだけの時間が稼げれば、あとはどうなってもいい。

 さっきから聴覚が全く仕事をしていない。目の前の男が誰かと話している。空気の震えでそれがかろうじて察せられた。

 しかし、誰と? いや、それはどうでもいいことだ。

 俺がまだ殺されても、死んでもいないこと。それだけが必要な条件で、相手が引き金を引くのを先延ばしにするのは、幸運だ。

 指が注射器に触れる。今にも弾きとばしそうだ。

 強く唇を噛む。歯が食い込み、血の匂いが漂い、口に血の味がする。

 手が確かに注射器を手に取る。

 光が瞬き、肩を殴りつけられた。左肩。違う、撃たれたんだ。

 衝撃でまさに左手が掴んでいた注射器が、宙を舞う。左手の感覚がなくなっている。

 視線の先で、注射器がタンクの上に落ち、滑っていく。そのまま視界から消えた。

 激痛に息を飲みながら、自分が今、タンクの上で仰向けに倒れているのがわかった。左肩の痛みは同時に熱を伴っていて、まるで焼けた棒でも押し付けられているようだった。

 ただ、その痛みと灼熱が俺に冷静さを取り戻させた。

「どうした、イレギュラー」

 聴覚さえも復活し、男の声がはっきり聞こえた。

「この島には正義を行使するものがいない。なぜなら、正義は全てピースメーカーが支配しているからだ」

 何の話かわからないが、どうやら男と話しているのは警官らしい。南レオの顔が浮かぶが、そんなことがあるだろうか。しかしイレギュラー、強攻課が動いているはずだ。

 不意に、イレギュラーに目の前の男を始末させればいいじゃないか、と誰かが、頭の中で囁いた。

 それなら手を汚さず、心も汚さずに、目的を達成できる。

 魅力的で、かつ安全な選択肢。

 そこまで考え、意識から締め出した。

 その可能性だけは、絶対に選んではいけない。

 ここに至るまでの全ての時間、全ての苦痛、全ての全てが俺の手が奴の命を奪うためにある。

 大勢を傷つけ、大勢を裏切っても来た。法律を無視し、他人の命を奪いさえした。

 ここに至って、自分が生き延びるために、他人に任せる、違う、他人に押し付けるなんて、していいわけがない。

「私はこの世界にある暴力、その真実を、意味を、本質を、今からはっきりさせるつもりだ」

 男が喋っているが、やはり感情はない。演説のようなのに、まるで世間話をするようだ。

 仰向けに倒れたまま、体の具合を確認する。左肩は弾丸が貫通し、今も出血が続いている。痛みは激しく、指先まで痺れが走る。指を動かすこともできそうにない。

 右腕は動く。ほぼ無傷だ。しかし手持ちの武器がない。短機関銃は捨ててしまい、拳銃はピースメーカーの発作でさっき取り落とした。

 腰にはナイフがある。だが今の姿勢からではナイフに手が届く前にとどめを刺される。

 何か、ないか。

 俺の思考が高速で巡る間にも、男は誰かと話している。

「お前の父親は、その点では正義だった。自分の息子に対して後ろめたかったとしても、最後には、平和と平穏を望み、自らの罪を告白しようとした。立派なものだ。お前の罪を、お前は告白できるか?」

 顔を歪めるようにして、男の様子を確認。こちらに視線を向け、そして銃口も向けられている。話し相手の方を見てはいない。その誰かが銃を構えているはずだが、どういうことか。

 痛みに身じろぎして、ナイフを抜ける位置に腕を持っていきたいが、目の前の男の視線はそれを見逃さないだろう。

「お前の罪は、今、引き金を引かないことだ」

 足が叩き潰されたかと思った。

 銃声と銃火の瞬きよりだいぶ経って、痛みがやってきた。男が俺の右太ももを撃ち抜いたのだ。無様に悲鳴をあげ、俺は体をねじった。

 想像を絶する激痛に、意識が明滅する。口から声が漏れるのを止められない。

「さあ、引き金を引け、南レオ。お前の正義を証明しろ」

「やめろ! 銃を捨てろ!」

 叫んでいる声は、南レオだった。そうか、奴がここに来たか。

 南レオと、今にも俺を殺しそうな男の関係は、正確にはわからない。

 だが、南レオ、お前にやらせはしない。

 これは、俺の仕事だ。

 痛みに体をねじる動きで、俺は腰のナイフの柄を右手で挟むように掴む。

 ナイフを投げる訓練をした時のことを、思い出した。シュテンが自らに教えてくれたのだ。何度も的を外すうちに、当たる回数が増え、最後には絶対に外さないようになった。

 シュテンはそれでも、一度も俺を褒めることはなかった。

 今、成功したら少しは褒めてくれるだろうか。

 左肩と右脚の重傷を考えれば万全とは程遠い。呼吸は不完全で、姿勢も不規則。

 何より、一発勝負だ。

 躊躇いはなかった。

 男の目が細まった時、俺の手は流れるような動作でナイフを引き抜き、投げ放っている。

 銃声が響き渡る。

 俺の意識が最後の支えを失い、闇の中に転落した。

 まったくの無が、俺の意識を受け止め、そのまま深いところへ導いていった。



(続く)

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