第16話 接触
◆
俺は人工島に来た翌日には、目当ての男を訪ねていた。
地下一層にある喫茶店で、店名が独特でインド系の音だ。
中に入ると客は数人いる。目印は決めてある。新聞を読んでいる男だ。一人しかいない。
その男の隣の席に座り、チラッと視線を向けるが、年齢不詳の男はこちらに視線を向けもしない。
店員がやってくる。
「ビールはあるかな」
こちらから訊ねると、店員が自然な様子で、「申し訳ございません、アルコールはご用意できません」と丁寧に応じた。表情にあまり感情のない男だった。
じゃあ紅茶をもらおう、と言うと店員が茶葉をどうするか、レモンにするか、ミルクにするか、と静かに確認してくる。茶葉は任せる、ミルクにしてほしい、と頼むと、かしこまりましたと頭を下げて店員は下がっていく。
さりげない仕草で、テーブルの隅のメニューを確認するふりをして、新聞の男を見る。やはり何の反応もない。人違いだろうか。
ミルクティーが運ばれてきて、俺はゆっくりとそれを飲んだ。外と大差ない味の紅茶だ。紅茶に新鮮も何もないだろうが、牛乳はどうしているのだろうか。小さな島だ、牛を飼うような余地があるとも思えない。本土から運んだ後、長期間保存する方法があるのかもしれない。
ミルクティーをちびちびと舐めているうちに、新聞の男がゆっくりとその新聞を折り畳み、席を立った。こちらをちらとも見ない。俺もあまり凝視するわけにはいかない。
男はすんなりと会計して外へ出る。
キラリと何かが光ったのは、店の外、通路の方だった。席が壁際で、光ははっきりと見えた。
だから自然とそちらを見て、外へ出たばかりのさっきの男がそこを通り過ぎるところを目撃した。
光ったのは彼の指の指輪だ、と理解する前に、ほんの一瞬、男の手が奇妙な形をした。
なるほど。念入りなことだ。
俺はゆっくりと紅茶を飲んで、少しの時間をそこで過ごして席を立った。
外へ出て、ゆっくりと通路を進む。事前に手帳にメモしたいくつかの符丁を思い出し、符丁が示す場所を目指す。事前のメモと、島に入って初めてわかった地図や建物の配置、地下の構造は、すでにすり合わせて、記憶していた。
地下にある貸し倉庫のうちの一つ。小規模なただの部屋のようだ。
ドアが閉まっている。解錠するためのパスワードは事前に決まっている。入力すると、ドアが開いた。
明かりに照らされたそこには、いくつもダンボール箱が山積みになり、見通しが悪い。
踏み込むと、背後でドアが閉まった。
「こっちへ来な」
箱の壁の奥で声がするので、ゆっくりと進む。いつでも護身銃を抜けるように身構えた。
箱の山の向こうで、やはりダンボール箱に座って、さっきの新聞を読んでいた男が待っていた。
「ここに来る程度には優秀っていうわけだ」
「あんたが灰田ジュンか?」
どうかな、と言って男が箱を降りる。武器を持っているようではない。ただ体格からして、格闘技を使うだろう。
当然、格闘技を使えるとしても、ピースメーカーがある限り、暴力を振るえないのは向こうも同じだ。薬剤を持っているとしても、条件は同じ。
違うことがあるとすれば、向こうが先に薬を注射している可能性で、俺はまだ薬を一度も注射していない。
こうなると拳銃より先に、注射器に手を伸ばすことを考えるべきか。
「俺の名前を口走るような迂闊な奴は、懲らしめてやらなくちゃな」
懲らしめる?
目の前に歩み寄ってきた男が、いきなり俺の頬を強く張った。
やはり、この男は薬を服用しているのだ。
緊急事態と判断して、俺は防御するために注射器に手を伸ばした。
「薬がなきゃやられっぱなしか?」
男の手が俺の手首を掴み、注射器に手が届かない。
振りほどく前に、もう一度、頬を張られる。
「弱い男だな。情けない。やり返す気にもならないのか?」
無意識に、男にやり返したい気持ちが湧いた。
心臓がいきなり締め付けられた。
息が詰まり、視界が薄暗くなり、僅かに光を取り戻し、さらに暗くなる。
これだから他所から来る奴はな、と男が囁くように呟いている。違う、普通に喋ってるのに、俺の意識が奪われつつあるのだ。
痛みは心臓から全身に広がり、足に力が入らなくなる前に起こった瞬間的な痙攣で、俺は受身も取れずに倒れ込んでいた。
助けてくれ、と訴えようにも、舌が麻痺している。いや、顎自体が動かない。
呼吸が浅くなり、ついに視界は黒一色になる。
死ぬのか? こんなにあっさりと?
どこか遠くで、何かの声が聞こえた。
瞬間、体に何かが注射され、そこを中心に熱が起こる。熱は全身に行き渡り、唐突に体の支配権が俺に戻った。
呼吸が止まっていたはずが、気づくと咳き込んでいて、次には喘ぐだけになる。
「落ち着け」
耳元で声がするが、口調からすると怒鳴られているらしい。
「落ち着け、バカめ! 冷静になれ! 目を閉じて深呼吸しろ!」
言われるがままに、俺は目をぎゅっと閉じ、呼吸をどうにか取り戻そうとする。
冷静に、冷静に、敵意や害意を遠ざけようとする。深く呼吸をしていくうちに、激しかった動悸も治まってくる。聴力も回復してきた。
「薬を注射したが、十分ほどで効果は薄まる。それまでにピースメーカーをなだめることができなきゃ、お前はここまでだ」
男がはっきりとそういった。
ここで終わるわけにはいかない。
俺はまだ目を閉じたままで、平常心を取り戻すべく、静かな戦いを始めた。
俺の中の怒りを飼い慣らせなければ、ここでは生きていけない。目的を果たすどころではない。
男がすぐそばで、「あと五分」と口にする。
俺は細く長く、息を吐いた。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます