第4話 最初の訓練

     ◆


 イーグル商会の老人は、「ツバメ」と名乗った。そういう符丁らしい。

 倉庫で俺を蹴りつけていた男はツバメの護衛で、名前はシュテンと名乗ったが、もちろん、符丁だった。シュテンは長身で細身な男で、背中を丸めて眼鏡でもかければ、冴えない大学生に俺の目からも見えた。

 気配を殺すことに長けているし、その上、自在に雰囲気を変えられる、言って見れば一流の人間だった。

 そこはそれ、ツバメも似たようなもので、ともするとどこにでもいる老人に見える。仕事の時、それも大事な時にこの老人は好々爺から、鋭利な刃物のようになる。

 ツバメは俺に見習いをさせると決め、組織から抜けたければいつでも抜ければいい、とも言った。

 なんでもやるつもりの俺は、それに考えることもなく乗った。

 ツバメの部下数人に引き合わされたのが、これがどう見ても堅気ではない。身なり、風貌は平凡でも、雰囲気が違う。シュテンのような作られた雰囲気ではない。引き合わされた連中は、明らかに卑屈だった。

 卑屈でいて、相手を食い物にする、それに喜びを感じるような低俗な連中。

 自分がそんな見下げ果てた存在になりつつあることに不安はあったが、俺がこの時に手繰れる筋はここしかなかった。

 俺がまず指示されたのは、堅気の貿易会社に潜り込んでいる男から荷物を受け取ることだった。最初、中身は知らされなかったが、徐々にわかってきた。

 俺は麻薬の受け渡しの窓口にされているのだ。

 少しでも下手を打てば、俺が尻尾きりの対象、警察への供物にされるのは目に見えている。

 それでも手を引こうとは思わなかった。まだ俺が目指す場所まで、果てしなく距離があるのだから。

 大学生でありながら、密売人の一味になり、一年が過ぎた頃、シュテンが俺の前に現れた。

「大学は休みになるな?」

 季節は初夏で、俺は仕事の傍ら、きっちりと講義をこなし、レポートを書き、いよいよ2カ月の夏休みに入るところだった。

「お前を訓練するように言われている」

 訓練、という言葉が何を指すのか、よくわからないまま、俺は荷物をまとめるように言われ、黙って従った。荷造りが終わると、俺の前に差し出されたのはパスポートだった。

 開いてみると、全くの偽名で、しかし写真は俺だった。

 まぎれもない、偽造パスポート。しかも既にいくつか、スタンプが押してある。

 俺はシュテンと共に日本を後にして、向かった先はイラクだった。

 一世紀以上前に紛争に次ぐ紛争、戦争に次ぐ戦争で荒廃したこの砂漠の国は、かろうじて残る石油資源で命を繋いでいるような、見捨てられた地だ。

 それでも国際空港のある都市は、ある程度、発展してはいる。もっとも自動車は電気自動車ではなく、二酸化炭素を排出する類の旧型ばかりだった。

 どうするのかと思うと、タクシーらしい自動車に乗り込み、よく分からない言語でシュテンが運転手に指示を出し、背広の内側から取り出した札を何枚か手渡す。イラクの紙幣かと思ったら、米ドル紙幣だ。

 タクシーは三時間ほど走り、完全に砂漠地帯に入っていく。道がかろうじてある、というような、一面の砂漠。放棄された戦車のようなものがたまに見えた。

 ゆっくりとタクシーが停まり、シュテンに促されて降りる。そのままタクシーは走り去って行った。

 周りを見渡しても、何の建物もない。真昼間の灼熱の太陽の下、人もいない。

「行くぞ、ロウ」

 俺を符丁で呼んで、シュテンが歩き出した。どこへ行くかと思うと、道を外れ、何もない方向へ歩いていく。どこへ向かうのか訊ねるのは、もう無意味だと知っていた。

 沈黙を連れて、俺はシュテンの後を追っていった。

 彼はよくいる観光客の服装で、俺も似たようなものだ。とても道もない砂漠を歩き続ける装備ではない。

「この先、二百キロのところに、町がある」

 シュテンがそう言った。二百キロだって?

「そこまで行くのが今回の訓練だ。もし耐えられなければ、捨てていく」

 現実感がなく、シュテンに噛みつく事も出来なかった。

 二百キロを歩けなければ、死ぬ。

 俺は素人だった。マラソン選手でも、登山家でもないし、運動選手ですらない。それが二百キロも歩くのか? それに、水は? 食料は?

 シュテンはわずかも歩調を緩めない。俺はその背中を睨みつけ、歩き続けた。

 歩かなければ、死ぬしかない。

 まだ死ぬわけにはいかなかった。

 シュテンは休まずに歩き続ける。少しの休憩もない。水だけは、彼が荷物の中からボトルを一本、投げてきたが「それだけだ」という言葉がくっついてきた。水分補給は歩きながらで、食事はない。用を足すだけで、彼に置いていかれることもあった。

 朦朧とした意識の中で、水を大事に飲まないと、ということと、身近すぎる死だけが頭にあった。

 気づくと、はるか遠くにシュテンの背中がある。もう背中を見ては歩けない。

 足元を見て、かすかな足跡を辿った。ふと顔を上げると、ついにシュテンは消えていた。

 まるでここまで幻を追ってきたようだった。

 だが、俺は絶対に死ねない。やるべきこと、使命があるのだから。

 歩き続けて、不意に人の声がした。意味不明な言葉をしゃべる男。俺は倒れこみながら意識を失った。

 目が覚めると、そこはどこかの建物の中で、寝台に寝かされている。

 すぐ横でシュテンが椅子に腰掛けていて、無表情にこちらを見た。

「とりあえずは合格だ」

 死ななかった、とまず考え、次に、水が飲みたいと思った。



(続く)

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