第2話 復讐の始まり

     ◆


 その光景を、ずっと忘れることができないが、それは俺が弱いからじゃない。

 あの光景、蒸せ返る匂い、何もかも、はっきりと思い出せるのは、俺が執念深いからでもない。

 床に広がる、真っ赤な液体の海。

 生臭い匂い。

 その真ん中に倒れている、両親と、姉。

 誰かが呻いている。俺は立ち尽くすしかなく、救急車を呼ぶべきか、警察を呼ぶべきか、緩慢に考えていた。考えたところでどうすることもできない。いや、俺はあまりの現実感の無さに、思考が空回りしていた。

 気づくと、俺はどこかもわからない部屋で、背広の男二人を前に、椅子に座っていた。

 その二人の男は刑事で、俺の家族が皆殺しにされたことについて、事情を聞きたいのだ。

 事情を聞かれても困る、と俺は考えていて、本当に家族がみんな死んだのか、やっとそこを確認する気になった。

 死んだのは大学生だった姉だけだった。しかし両親も意識が回復せず、意識を取り戻す可能性は低いようだった。それでも最新の医療は、両親を生かし続けることはできる、とも聞かされた。

 いったい、俺はどうしたらいいのか。

 刑事の言葉に機械的に返答しながら、それだけが頭を占めていた。

 俺は十七歳の高校生で、勉強ができるわけでも、運動ができるわけでもなかった。まったく平凡で、無個性な少年。

 それが今は、家族を全員、失ったも同然の孤児か。

 あの頃のことは、断片的にしか覚えていない。親戚が集まった会議とか、姉の葬儀とか、繰り返される警察の取り調べとか、そんなものだ。

 ただ、警察は俺には何も話さなかった。

 どこまで捜査が進んでいるのか、容疑者はいるのか、いないのか。

 いるとして、どこの誰なのか。

 俺は祖父母に引き取られ、高校を卒業し、大学に進学した。さすがに事件から一年が過ぎ、俺の思考ははっきりする以上に、明確な焦点を結びつつあった。

 コンピュータについて勉強し、機械部品を扱う店でアルバイトも始めた。

 目的は一つ。非合法に情報をやり取りする、身も蓋もない言い方をすれば、情報屋と接触するためだった。

 しかしこれは不発で、大学一年が終わる頃になっても、そんな客は来なかった。

 当たり前だ。考えなくてもわかる。

 しかしその空振りの代わりに、思わぬところから切り込んでいけるのだから、世間というのは不思議なものだ。

 それは冴えない中年男性にしか見えない部品屋の店長が、どこかから流通しないはずの部品を手に入れたのを知ったことだ。

 それは最新の情報処理集積回路で、買えるとしても超高額なはずなのに、平然と目と鼻の先のそこにある。

 俺はこっそりと店長を観察し、どこから仕入れたのか、探り始めた。

 数ヶ月を経て、店長が懇意にしている密売屋のことを、俺はどうにかこうにか、暴き出した。

 暴き出したが、ただでは済まなかった。

 まさにその密売屋のことを知ったその日、静かな興奮を胸の中で暴れさせながら、家路に着いた時だった。

 なんでもない路地から、通りかかった俺に腕が伸び、油断していたので、あっさりと引きずり込まれた次の一瞬には、腕を極められて壁に叩きつけられていた。手加減なんて少しもないし、こちらは身構えてもない。

 頬から壁に激突し、頭の中で火花が散って、意識が落ちた。

 目が覚めると、どこかの倉庫のようなところに寝かされている。両手足はガムテープで何重にも巻かれ、動かない。口もガムテープで塞がれていた。

 暴れてみるが、這いずることもできない。

「起きたか」

 低い声。初老の男の声だ。

 首を捻っても見えない相手はタバコを吸っているらしい。苦さと甘さが混ざった、不思議な匂いがした。

「俺たちについて調べて、どうするつもりだ」

 冷静な問いかけ。そして、暴力の匂い。

「まだ若いんだ、闇の中に踏み出す必要はない」

 俺は口を塞がれていても、叫び声を上げた。手足をばたつかせる。

 闇の中に踏み出す必要はある。そもそも俺は、ずっと闇の中にいるのだ。

 ぬっと、目の前に男の顔が現れた。シワだらけで、声よりも老いて見える。

「話を聞こう」

 そう言って、男が口のガムテープをむしるように剥がした。

 俺は怒鳴り声を上げ、男に食ってかかったが、予想外に背後から誰かに蹴りつけられた。もう一人いるとは、まったく気づかなかった。気配がなかった。

 激痛に息を詰まらせる俺に、もう一撃、強い蹴りが叩き込まれた。

 それくらいにしろ、と老人が身振りで示す。

「名前は? 少年」

 俺が詰まる息の中で、どうにか声を出すと、老人が頷いた。

「で、君は何が目的かな。冷静に、ゆっくりしゃべってくれ。幸いにも時間はあるし、ここには誰も邪魔をする奴はいない」

 そう言われて、自分がいる倉庫の状態を見る余裕ができた。

 自分が開けた空間にいると思っていたが、違う。ここはおそらくトラックが入ってくるためのスペースで、周囲には全自動でだろう、荷物の積み下ろしができるアームが無数にある。そして倉庫の奥には、高い天井のすぐそばまで棚が作られ、正体不明の箱やコンテナがぎっしりと詰まっている。

 確かに人気はないし、静かだった。

 俺は老人をもう一度、まっすぐに見て、自分の身の上を話した。

 家族を何者かに殺されたこと。そして、その復讐こそが自分が生きる意味だと決めていること。その犯人を捜すためには、おそらく一番詳しい警察の情報が必要で、それをかすめ取る方法をずっと探していること。

 その中でたまたま、密売組織に気づいたのが一ヶ月前、名前を知ったのは今日だった。

 老人はゆっくりとタバコを吸いながら、話を聞いて、俺が口を閉じると、なるほど、と呟いた。少し黙ってから、なるほど、ともう一度、呟く。

「君は当たりを引いたらしい。幸運か不運かは、知らないが」

 老人が短くなったタバコを懐から取り出した携帯灰皿に入れる。そしてすぐに新しい一本を咥えた。

「で、君にはどれくらいの覚悟があるのかな」

 答えは決まっていた。

 何でもやる覚悟がある。

 そう断言した俺に、老人はもう一度、なるほど、と呟いた。

 これが寺田ロウと名乗ることになる俺と、イーグル商会の出会いだった。



(続く)

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