夜空の秘密
「じゃあ、もう私は寝るね。また明日」
沈黙から逃げるように葵はそう言って、奥の部屋へ行ってしまった。
ずっと空は薄明るい夜明けの空なのですっかり時間感覚が狂っていたが、いつの間にか随分と時間が経っていたようである。
彼女が用意してくれた布団に潜り込み、今日一日のことを考えた。
とても不思議な一日だったな。人生で初めての経験だった。…まあその今まで生きてきた人生を覚えていないんだけど。
…いや、本気で笑えない。寒すぎる脳内のギャグを無かったことにして、僕はこれからどうするべきかについて思考を巡らせた。
元の世界に帰るために、まずはこの場所についての情報を整理してみよう。
「ここは私の世界だから」「初めからここにいた」「ここにいたら忘れられる」
葵はそう言った。いったいどういうことだろうか。何より一番気になるのは、この世界について話すときに彼女が悲しそうな顔をすることだ。ここで彼女に何かがあったのだろうか。少なくとも彼女は記憶などはあるようだが、初めからここにいたということはこの世界での記憶しかないのかもしれない。
ぐだぐだと考え続けていたらだんだんと目が冴えてきて、思わず布団から体を起こした。…こんなの、眠れない。
その時ふと目に止まったのは、壁際に置かれた棚の上の古びた手帳だった。好奇心が僕の体を動かし、いけないとは思いつつもその革表紙に手を伸ばす。その手帳は、手にとってよく見てみればその表紙には「日記」と綺麗な文字で書いてある。罪悪感と背徳感が僕を責めたが、僕はそのままページをめくった。
”
一日目 やることがないので日記でも書こうと思う。日付は分からないから、今日から数えて何日目かで記していく。
二日目 …書くことがない。私一人しかいないのに何か記すような出来事があるわけなかった。三日坊主どころか二日坊主で終わりそう。
三日目 友達が欲しい。動物たちはかわいいけれど、話し相手にはなってくれない。逃げてこの世界に来たのに、ここでも結局一人。
四日目 今日は久しぶりに戻れた。起き上がることは出来なかったけど、私のお母さんとお父さんも同じ病気で死んだんだって看護婦さんが言っているのを聞いた。私のは遺伝らしい。なら、私もこんなところじゃなくて早くみんなのところに行きたい。
五日目 もうどうせならさっさと死んでしまえばいいのに。いつまでもこんなところで過ごすなら、もういい。夜明けは大好きだけれど、一人で見るのは寂しい。
"
手帳はたったの5ページだけで終わっていた。文中にもあったとおり、飽きてしまったのだろう。
文面から推測する限り、葵は病気なのだろうか?"戻る"とは、どこへ戻るのだろう。さっさと死んでしまえばいい…これは、誰のことを言っているのだろう。
…彼女自身?
まとまらない思考を働かせながら必死に考える。と同時に、この世界に来た時と同じような痛みが左足を襲った。歩けないほどでは無い。ただ、漠然とした恐怖と不安が骨の髄まで染み渡るような感覚。今は、痛みよりもそのよくわからない恐怖の方が大きかった。
ぱたりと日記を閉じて、深呼吸をする。
そのとき、彼女の部屋から衣擦れの音が微かに聞こえ、慌てて日記を元の場所に戻し布団へ潜り込んだ。左足はまだ痛んでいる。
ドアノブの回る音とともに、僕のいる部屋に人が入ってくる気配を感じた。葵だ。
音を立てないように歩いているのだろう、衣擦れの音と小さな足音が聞こえた。
心臓が早鐘を打つ。日記を勝手に見ていたことと僕が起きていることがバレてしまうのではないかと背筋が冷えた。
彼女はとある場所で立ち止まり、数分した後に部屋へと戻って行った。
カチャリと扉が閉まり、彼女の部屋から物音が全く聞こえなくなった頃、僕はそっと体を起こした。いつの間にか足の痛みは消えていた。
察するに、葵はどうやら日記を書きに来たようだった。わざわざ僕に見せないように深夜に起きてきたのだと気づいて罪悪感が強まる。
だがこの世界について知るには、あの日記は大きなヒントに繋がるだろう。心の中で葵に謝罪し、僕は再び日記を開いた。
"
?日目 今日は男の子がこの世界に迷い込んできた。とても素敵で落ち着いた人だった。空色の瞳をした、優しい人。そらくんと呼ぶことにした。
でも彼はすぐに戻ってしまうと思う。何かの間違いで迷い込んでしまったんだろう。最近不安定になってきて、景色が揺らいで見えることがある。そろそろ、潮時なのかもしれない。
…神様が最期に思い出を作れるようにしてくれたのかな。
"
顔が熱くなる。素敵な人…そんなことを思ってくれていたのか。誰かに対してこんなにドキドキしたこと、ない。脳裏に葵の笑顔が浮かんで、動悸が収まらない。
ふとそんなことを思って、自分で恥ずかしくなってしまった。こんな、よく分からない世界の女の子に恋をするなんて…ありえないけれど。
でも、この世界については…だんだんパズルのピースがはまってきているようだ。僕の中で何となく、全ての事象が繋がりかけている。
せり上がってくる焦りを鎮めるように、書き足された日記を何度も読み直した。
その瞬間に僕のなかで全てが繋がった。間違っているかもしれない。だが信憑性は…かなり高い、と思う。
手がぶるぶると震える。僕が気づいてしまった事実というのは、とても衝撃的なものだった。
日記を戻し布団に潜り込む。覚醒した頭を押さえつけるようにゆっくりと目を瞑った。
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