不思議な少女
「だ、だれ…だ、僕は、僕は…」
僕は誰だ?どうしても思い出せない。名前だけじゃない。何をしていたのかも、何歳なのかも、どこに住んでいたのかも、何もかも思い出せない。
ただ一つわかるのは、この世界にたった一人ぼっちだということ。
不安からなのか、じくじくと左足が痛み出した。慌てて確認してみるも、見た感じは特に異常はない。
ここは現実世界ではないのか?記憶のない混乱した頭でも、明らかにこの場所が現実味を帯びていない異界だということは理解できた。
いつの間にこんなところへ来たのだ。記憶もなくしている…。
その時。
「ね、あなた…誰?」
透き通った声が、無音の世界に彩を与えた。
突然背後からかけられた声に驚いて勢いよく振り返ると、いつの間にかそこには自分と同じくらいの背丈をした少女が佇んでいた。幼げな印象を受ける顔立ちだが、なかなかの美人である。数メートル離れたところから不思議そうに首を傾げてこちらを見つめていた。
「誰…って」
半袖の白いワンピースを身に纏うその少女はワンピース以外に何も身に着けておらず、裸足だった。彼女はゆっくりと草を踏みしめる様に一歩こちらに近づいてくる。茶色がかった、胸くらいまで伸びたまっすぐなロングヘアがふわりと揺れて、不覚にも心臓が跳ね上がった。
「あなた、誰?どこから来たの?」
「そ、れが…わかんなくて。気づいたらここにいて、名前も何も思い出せなくて…。なにか、知りませんか…?」
「私は葵。この場所はね…ふふ、秘密」
にこりと微笑んだ彼女はまるで天使のようで、その儚げな印象はさらに彼女の美しさを際立たせていた。
「あなたはここが何なのか知っているんですか?」
「ふふふ、そうだよ。君…そうだなあ、…そらくん、は、元の世界に戻りたいと思ってる?」
「そら…?」
「あ、ごめん…名前ないのって呼びにくいから、あなたの眼の空色、綺麗だなぁって思って」
聞きなれない呼び名に思わずそれを繰り返せば、彼女は慌てたように顔の前で手を振って弁明を始めた。
「いや、全然!僕、眼の色空色だったんですね。綺麗、って言ってもらえてうれしいです」
「…へへ、そっかぁ。よかった。私のことは葵でいいよ。敬語も、いらないからさ」
恥ずかしそうにはにかんだ葵にどこか安心した僕は、じゃあ、と笑いかける。
「初めまして。僕は…そら。よろしくね」
*****
あの後、ついてきてという葵に案内されて、僕は彼女の家へと向かった。僕にはどこも同じ景色に見えたのだが、彼女は迷いなく家までの道を進んだのだ。それについて問うと、
「んー…ここは、私の世界だから、かな」
と笑みを浮かべた。先ほどこの場所のことは秘密だと話していたばかりなのに、よかったのだろうか。
「ふふ、さっぱりわからないって顔してるね。」
「…うん。葵はさ、いつからここにいるの?僕みたいに、いつの間にか来てたとか?」
僕かそう尋ねると、彼女はどこか儚げな、それでいて物寂しいような表情を浮かべて窓の外を見つめた。触れてはいけないものに触れてしまったのかと、内心冷や汗が垂れる。
しかし彼女は特に気にすることもないように、口を開いた。
「…いつから、かあ。初めから…かな。覚えてないや。でも私ここが大好きなの。綺麗だと思わない?…それに、ここにいたら忘れられるから」
言葉が出てこなかった。
とてもつらそうな表情だった。彼女はきっと、なにか…大きな苦しみを、たった一人で抱え込んでいるのだ。
一体何を忘れられるのだ、なんて、到底聞けなかった。
なにか声を掛けなければと思うもいい言葉は何も浮かばず、沈黙が僕らの間に流れた。
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