第3話 雨に打たれる花柘榴
六月の雨に、花柘榴が打たれている。今日は祐樹くんのお家にお邪魔しての勉強会だ。私たちは、本当に毎日一緒にいる。小さい頃からそれが日常であるから、どこの家族もそれが当たり前だと思っていると思う。お家にお邪魔させてくれている祐樹くんのおじいちゃんとおばあちゃんも、翔丞くんに手作りのパンを預けてくれた翔丞くんのお母さんも、それから、家庭菜園で収穫した玉ねぎを私に持たせた私のお母さんも。
「ここがこうなるから、この公式を使って…そうそう、正解」
三人で大きなテーブルの上に教科書を広げる。翔丞くんは英単語をぶつぶつと呟きながら覚えていて、祐樹くんは古文の現代語訳をノートに書き写しながら私の数学を見てくれている。
私は本当に数学が苦手だ。
祐樹くんの手のひらが私の頭を優しく撫でる。翔丞くんはその行為に気付いていない。祐樹くんの顔を見れば、私の頭から離した手を、人差し指だけ伸ばして、それを唇に当てた。
秘密。基本的に、翔丞くんと私の間に秘密はないと思う。幼いとき、それこそまだ自我が芽生える前からほぼ毎日一緒にいて、秘密を作る方が難しい話だろう。翔丞くんも、私も、顔に出やすいタイプだから。そんな私たちの、小さな秘密。
「ダメだ。もう無理。パンクする」
「英語難しいよねえ」
「俺は英語を覚えない」
「そういうわけにはいかないでしょう、翔丞は」
どんな先生であれ、先生と呼ばれる職業に就く人は、ある程度の英語力は必要だろう。
「少なからず高校を卒業するのにも必要だし、翔丞は大学にも行かないといけない」
「そんなことは」
「あるでしょ。…でも、翔丞は偉いよ。反抗せずに、ちゃんと親の望みを叶えてる」
「まあ、なあ」
祐樹くんに褒められて照れ臭いのか、親に従順な自分が少し恥ずかしいのか、翔丞くんの返事は短いものだった。
でも、私はそんな翔丞くんが好きだ。翔丞くんは根が素直なんだと思う。でも時々親子喧嘩をして、祐樹くんのお家や私の家にプチ家出してくることもある。それは高校生として、普通、普通のことだと思うけれど。
「でも、祐樹だって、英だって、反抗期来てないじゃん」
翔丞くんの言葉に、祐樹くんは少し考えた表情を作る。
「俺は反抗する相手がもういないからね。年老いたじいちゃんとばあちゃんに反抗したら可哀想でしょ」
「基本的に優しいんだよなあ、祐樹って」
「私も本当にそう思う」
「翔丞も英も、褒めたところで何も出ないよ?」
私が同調したところで、祐樹くんは笑ったけれど、祐樹くんの優しさは確かなものだ。幼い頃から今まで、ずっとずっと感じている。祐樹くんはきっと、自分よりも自分の周りの人を大切にしている。おじいちゃん、おばあちゃん、翔丞くん、そして、私。それはけして自意識過剰なんかじゃないはずだ。翔丞くんだって、祐樹くんから与えられる優しさにちゃんと気付いていて、気付いているからこそ三人で一緒にいるのだと思う。人に優しさを与えられる人に、私もなりたい。
「集中力切れちゃったね」
「休憩しよう、休憩」
「休憩っ」
私も持っていたシャープペンシルをテーブルに置いて、大きく背伸びをする。
「翔丞のお母さんが作ってくれたパンをいただこうか」
「麦茶注ぐね」
「ありがとう。お願いします」
祐樹くんのおばあちゃんが作ってくれた麦茶の入った冷水筒を持って、それを傾け、各グラスに注ぐ。グラスの氷は勉強していた間に溶けてしまっている。
「翔丞くんのお母さんの作るパンおいしいよね」
「結婚したら義理のお義母さんになるんだよ。英も料理できるから、まあ、嫁いびりはされないだろうけど」
「嫁いびり…」
「おいおい、それは聞き捨てならない言葉だな」
「それはどっちの意味で?母親は嫁いびりなんてする人じゃない、ってこと?それとも、英を怖がらせるな、ってこと?」
「…、両方だよ」
「素直だけど間があった。ね、英」
「間があった」
「そうやって、二人はいつも俺を揶揄う。もういい」
翔丞くんは拗ねた顔をして麦茶の入ったグラスに口を付ける。拗ねても帰ろうとしないところにまた意味があることに気付き、そんな翔丞くんを可愛く思ってしまう。
「ごめんね。翔丞くんが私を大事に思ってくれてるのはちゃんとわかってるから」
「ん…」
「ね、翔丞くん」
翔丞くんの側に寄って、ごめんね、と言葉にする。人生の中で、どれだけの時間を一緒に過ごしていても、言葉にしなければ伝わらないこともあると知っているから。
「俺もごめん。翔丞が可愛いから、つい」
祐樹くんも翔丞くんに謝る。こうやって、喧嘩、みたいになっても、きちんと謝ることができて、仲直りできるのは私たちの強みだと思う。これは、互いのすべてを知っているゆえだ。
「祐樹くんは英と俺とどっちが可愛いんですか」
「え、それは英だけど…」
「やっぱり」
「でも、世界で可愛い人ランキングをつけるなら、英が一位、翔丞が二位だよ」
「俺、すごくね?」
「翔丞は同性だからね、俺がどうこうしなくても地にしっかりと足をつけて生きてほしいなって思う。だけど、やっぱり幼馴染だから大事だし可愛いとも思うんだよ?」
祐樹くんのストレートな言葉に、翔丞くんは照れを隠せないようだけれど、でも、やはり嬉しかったみたいだった。
そして、祐樹くんの言葉を私も嬉しく思っている。祐樹くんが私をとても大事に思ってくれていること。それから、私の大事な翔丞くんを私と同じくらいに大事に思ってくれていること。三人の関係性は幼馴染なのだから、それは当たり前なのかもしれないけれど、世の中には当たり前というものは少ないと思っているから、余計に。
私も、大事だ。祐樹くん、翔丞くんのことが。
「さ、パン食べて、もうひと頑張りしようか」
「英、どれにする?」
「私、これがいい」
どんなときも私を優先してくれる優しい幼馴染のお兄ちゃんたち。私はいつまでそれに甘えて生きていくのだろうか。でも、この幸せな時間を壊したくなくて。可能であるならば永遠のものにしたくて。そう思うのは愚かなことなのかもしれないけれど、そう思うことを許してほしい。
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