第2話 初夏のとき
終礼が終われば、クラスの女の子たちは連れ立って教室から出ていく。参加できない人も何人かはいるようだけれど、それでもそっちの方が少数だろう。
参加したいと思わないこともなかった。もしかしたら、今日、この放課後をきっかけに、クラスの女の子たちの関係性が変わるかもしれないと思ったから。派閥ができたり、とか。カラオケでは歌うことの他に、お喋りももちろんするだろう。明日、その話題がわからないというのは、とても怖い。
けれど、それ以上に怖いのは、翔丞くんと祐樹くんがいない場所に私だけがいるということ。そして、日常が、変化すること。
教科書をリュックサックに詰める。このリュックサックは高校に入学するときに新調した通学用だ。小さなぬいぐるみがついている。去年、祐樹くんが修学旅行に行った際に、翔丞くんと私にお土産として買ってくれたものだ。もちろん、祐樹くん自身も同じものを鞄につけている。翔丞くんも何だかんだ言って祐樹くんが好きなのだろう、お土産のぬいぐるみがきちんと毎日の通学のお供だ。
「帰るぞ」
「英」
教室の出入り口から声がして、その声のする方向を見れば、私の二人のお兄ちゃんたちが揃って立っていた。二人の顔を見れば、緊張感が解ける気がする。
「今日は二人一緒なの?」
「迎えに来ようと歩いてたら階段に祐樹がいたから声かけた」
「俺は普通に校門で待ってようと思ったんだけど」
「そうなの?でも嬉しい」
「英がそんなに嬉しそうに笑ってくれるなら、毎日二人で迎えに来ちゃおうかな」
「どんだけ過保護だよ」
「それ、翔丞は絶対に言えないセリフだからね?」
「え?」
「自覚ないって怖いな」
翔丞くんが私のトートバックを持ってくれるのを、祐樹くんは笑いながら見ている。
私が小学一年生になった春のこと。通学はもちろん翔丞くんと祐樹くんが一緒だったのだけれど、少し長い道のりに慣れない私を心配して、二人がランドセルを交代で持って歩いてくれていた。近所のおじさんおばさんは、英ちゃんは身体が小さいからね、とお兄ちゃんたちの優しさを微笑ましくみてくれていたけれど、私たち三人を全く知らない保護者の方から苦情みたいなものが学校に入ったらしく、親が先生から注意を受けた。翔丞くんのご両親も、祐樹くんのおじいちゃんとおばあちゃんも、お互い様だし、気にしなくていいのに、優しい気持ちを知ることができたからいいことだと思っていたよ、と言ってくれたけれど、さすがにその優しい行為を受け続けることはできなかった。それでも、二人のお兄ちゃんたちは、ランドセル以外の荷物を持ってくれたりしていたのだけれど。
階段を下りて、それぞれ靴に履き替える。靴箱は学年別、クラス別に置かれているのでさすがに近い場所ではないけれど、出入り口は一か所だからさほど離れてはいない。
「外に出るとちょっと暑いな」
「初夏だしね」
「でもすぐに梅雨になって、梅雨明けしたらきっと猛暑だよ」
「めちゃめちゃ恐ろしいことをさらっと言ったな、お前」
「英は暑さに弱いんだから、気を付けなね」
「はあい」
返事をした私の頭を、髪を、祐樹くんが優しく撫でる。
祐樹くんにとって私は、いつまでも手のかかる子供なのかもしれない。それは祐樹くんの優しさだとわかっている反面、自分の成長を受け入れてもらえていない寂しさもある。そして、翔丞くんにも同様の気持ちがある。両方、薄っすらと、ではあるけれど。
「祐樹くん。今日の数学、ちょっとわからないところがあった」
「今、何習ってるんだっけ?あ、でも今日はちょっと外せない用事があるから教えてあげられないなあ」
「英は勉強に関しては祐樹に絶対的な信頼寄せてるよな」
「だって、祐樹くんの説明の方がわかりやすいんだもん」
「翔丞はわかる人の教え方だから」
「…仲良しでいいですね」
「本当はそう思ってないくせに。ヤキモチ妬き」
私を挟んで二人が話すのはいつものことだから気にしない。各方面から私を守るフォーメーションで立つのにも。過保護、といえばそれまでだけれど、私ももう十五歳だ。
幸せか不幸せか。でも、そう聞かれたら、私は圧倒的に幸せなのだと思う。
学校から駅までは裏道を通れば歩いて五分もかからない。そこから電車に乗って四十五分で私たちの住む町に着く。学校のある地域に比べれば田舎だけれど、それが気にならないくらい人は温かいから私は好きだ。家から私たちが通う高校までの間に、もちろん他の高校もある。でも私は今の高校しか視野に入れていなかった。だって、二人がいるから。二人のいない世界は、私の生きる世界じゃない。そう思ってしまうくらいに私は二人に依存しているのだ。深く。様々なことを考えながら、結局は。深く。
「もう電車来る。急がないと」
「本当だ。行くぞ」
ぼんやりと違う世界に思考を飛ばしていた私の手を、翔丞くんが引く。
田舎に向かう電車は本数が少なかったりする。次が二十分後、三十分後だったりすると、疲れている身体には酷だったりする。体育のあった日なんかは特に。少しでも早く安心できる場所に戻りたい。
リュックサックにつけていたパスケースを改札口に当てる。三人が連続で通れば、ピ、ピ、ピ、と音がして、それからホームで電車を待つ。思っていたよりも早く、電車が来る。同じ電車に乗ると思われる生徒たちが、ホームにはたくさんいる。ちらちらと、こっちを見ている人もいる。それは翔丞くんや祐樹くんに向けた好意の視線だけではなく、私たちのこの関係性への好奇の目だったりもするのだろう。
私が中学生になった三年前のことを思い出す。二人は当たり前のように私に優しくしてくれたけれど、地元の中学校は小学校四校の卒業生が集まっていたから、私たち三人の関係性を知らない人ももちろんたくさんいた。その中には、翔丞くんと祐樹くんに好意を寄せていた人は少なからずいたと思う。それなのに、いきなり現れた新入生、すなわち私が、幼馴染だからと言ってべたべたに甘やかされていたんじゃ、面白くないのはそれも当たり前の話で。四月の間に何度か上級生に呼び出されたけれど、翔丞くんは勢い良く、祐樹くんはふらふらっと現れてくれるものだから、五月くらいには日常として受け入れられていた。
だから、この視線もいつかは。
電車に乗り込む。座席は空いていなかったけれど、私が立ちやすいように空間を作ってくれる二人は、やっぱり優しすぎるくらいに優しい。
「祐樹が英より優先する用事って珍しいな」
「え?ああ、じいちゃんと病院に行くだけだよ」
「おじいちゃん、どこか悪いの?」
「いや、一年に一回受ける健康診断の結果を聞きに行くだけだよ。じいちゃんももう歳だからね。俺も一緒に聞いておいた方がいいだろうってことで」
「そうなんだ。今回も何ともないといいね、おじいちゃん」
「ありがとう。英は優しいなあ」
「俺だって、そう思ってるよ」
「翔丞も優しいなあ」
「うわあ、何、その、言い方。…でも、本当にそう思ってる。祐樹のじいさんばあさんには俺も小さいときから可愛がってもらってたから」
「わかってるよ。ありがとう」
照れくさそうな表情の翔丞くんを今度は揶揄わずに、でも、少し寂しそうな目で窓の外の流れる景色を祐樹くんは見ていて。本当はおじいちゃんの具合がよくないんじゃないか、とか、心配になってしまったけれど、つい先日お会いしたときには楽しそうにグランドゴルフ大会の話をしていたし、もしそうだったとしても、祐樹くんが話してくれるまで待った方がいい気がした。もちろん、何もないに越したことはない。
一つ目の駅に着いて、何人か電車から降りていく。私たちが降りる駅は、あと七駅先だ。
「夏になったら、また三人で花火したい」
「英。三人って限定しちゃダメだよ。俺が恋人連れて来られないから」
夏の楽しみを思い描いていた私の発言に、祐樹くんが笑いながら返事をする。ダメだよ、とか言っているけれど、笑っているから怒ってはいない。
「…恋人」
ずっと三人だと思っていたけれど、確かに、いつかは祐樹くんの恋人さんも合わせて四人でいる方が自然なのだろう。翔丞くんと私が、一年と少し前の三月にお付き合いを始めたとき、誰よりも喜んでくれた祐樹くん。それでも俺たちの関係は変わらないよ、って、お邪魔虫し続けるからね、って、揶揄いながらも不変を伝えてくれた祐樹くん。本当に優しい祐樹くんだから、祐樹くんのことを好きな人は絶対にいる。祐樹くんが誰かを好きになって、その人も祐樹くんのことを大切にしてくれて、私たちとも仲良くしてくれたら嬉しいなと心からそう思う。
「いるの?好きなやつ」
「英」
「は?」
「冗談」
「冗談も大概にしろよ、マジで」
「…今はいないけど、恋愛ってわからないじゃない。翔丞と英みたいに、ずっと一緒にいていつしか恋が芽生えるパターンもあるし、稲妻が脳に直撃したみたいに直感的に好きになることもあると思うんだよね。だから、夏まで俺が独り身とは限らない」
「祐樹くんはお顔が大変よろしいですからね」
「それ褒めてないでしょ、翔丞」
ガタン、と電車がカーブを曲がる。二人の会話を聞いていてカーブを忘れていた私は少しよろけてしまって、祐樹くんが抱き留められる。
「翔丞、そんな怖い顔しないで。不可抗力だから」
「わかってる。わかってるよ」
「その顔は全然わかってない顔だから」
祐樹くんが私を腕の中から出すと、反対側のドアで人の乗り降りがあった。二つ目の駅に着いたようだ。この駅は主要路線の乗換駅なので降りる人が多く、空席ができた。さすがに三席続けては空いていないけれど。
「英、座っていいよ」
「翔丞も隣に座りなよ」
「祐樹は?」
「俺はあそこに座る」
祐樹くんは少し離れた空席を指さして、そこに向かった。三人で話せないのは寂しいけれど、あと六駅、三十分以上かかるのだから座れた方がありがたいのは確かだった。翔丞くんと私の左右どちらかが空席になれば祐樹くんは来てくれるかもしれないし、来てくれなくてもまた地元の駅からは話しながら帰れるはずだから。祐樹くんは鞄から世界史の教科書を取り出して、読み始める。
「祐樹、受験生なんだよな」
「え?」
「いつも俺たちに合わせてくれるけど、あいつは確かに俺たちより先に大人になる。追う俺たちより、先陣を切る祐樹の方が絶対的に大変なのに、そんな素振り全く見せなくてさ。勝てないって思う」
翔丞くんは私の手を握る力を少し強めて。
「だから、英が祐樹じゃなくて俺を選んでくれたのは奇跡だと思ってる」
初めて聞く翔丞くんの本音に、私は驚く。
奇跡だとか思ってもらえるほど、私は価値のある人間ではない。でも、翔丞くんに愛されて、自信は持てるようになった。
翔丞くんと祐樹くん。確かに二人は同じように私を可愛がってくれて、大切に思ってくれていると思う。だけど、恋って、説明できないもの。理屈じゃない。あの日、十三歳のあの瞬間に、私は翔丞くんが好きだ、って、そう思った。私の初恋。ありがたいことにその恋は実って、今も継続している。それこそ、確率的に奇跡に近いんじゃないだろうか。
「翔丞くんが私を好きになってくれたのも奇跡だよ」
「そんなわけないじゃん」
「え?」
「奇跡なんかじゃない。俺は英を好きになるのが当たり前だった。ちっちゃい英がちっちゃい俺の手を握ってくれたときに、俺は英を一生守ろう、って、俺はこの子をお嫁さんにするんだ、って、そう思ったから」
夕日が翔丞くんを照らす。真剣な表情の翔丞くんにドキドキしている。
「まだ結婚できないけど、絶対俺のお嫁さんにするからな」
いつも優しいお兄ちゃんなのに、時に強引で。でも、そんなところも大好きだと思ってしまう。
初恋は実らない。なんて、絶対に嘘だ。だって、私はこんなにも幸せなのだから。
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