Day27「夜明けの孤独」/外套

「寒い、かな」

 白み始めた空を見ながら呟く。今更コートなんて着たところで意味はないのかもしれないけれど、何となくハンガーにかかっていた、今年最後のコートに袖を通した。確かこのコートは、二年前に梨杏と服を買いに行って、いいコートがあったけれど手持ちが足りなくて、泣く泣く諦めていたら、梨杏がよく似た形のものを見つけてくれたんだっけ。本当は黒が欲しかったけれどそれは売り切れていて、でもデザインは好きだから白いものを買った。私は黒っぽい上着ばかり持っているから、この色は本当に珍しい。コートの前を留めると、体に少し重さがかかる。温もりは重いものなのかな、と考えてもしょうがないことを思った。

 誰も彼もが寝静まっている、午前四時。私は整理整頓した机の上に、梨杏のオルゴールを置いた。その他には何も残さない。いや、全てを置いていく。何も持っていけないことはわかっているから。

 物音を立てないようにそっと家を出て、鍵を閉めてから、郵便受けにその鍵を入れた。もう帰るつもりはない。片付けることは片付けた。本当は沢山やるべきだったことが残っていて、きっと私は途中で投げ出したように言われてしまうのだろうけれど、私の中では全部に区切りがついた。

 ――明日になれば、私がいない世界がはじまる。

 私のことはいつか誰の記憶にも残らずに消えてしまうのだろうけれど、それで構わない。誰にも気付かれないように消えてしまいたい。私がいなくなることで誰かが悲しんでは欲しくない。だって全部納得した上で、私は行くのだから。


 どこへ行こう。行くあてなんて最初からない。でも誰もいない場所がいい。できれば遠くが見通せて、綺麗な場所がいい。

 そういえば――不意に思って、首から下げているカプセルから小さなメモリーカードを取り出す。ハルさんがくれた旧世界の映像。かじかんだ手でそれを端末にセットすると、少し荒い映像が宙に浮かんだ。

 これを見なければ、私は今頃何をしていたのだろう。無名の誰かが残したたった一つの映像が私の道を大きく変えた。後悔はしていない。自分に正直に生きた結果が今の私だ。それだけは誇ることができる。それでも、この世界が明日も続くことが決まっても、結局のところ私たちは偽物で、こんなふうに何かを残せたりはしないのは変わらない。

 でもこの映像を撮っている彼女たちは、何かを残すためにやっていたのではないのだろう、と思う。今を刻むためでもなく、ただ、生きるためだったのだろう。短い映像が途切れながらも続いていく。映像の中の少女の表情は少しずつ明るくなっていき、服のままプールに入ってみたり、木に登ってみたり、どんどん吹っ切れたようになっていく。きっと彼女の周りの大人は呆れ果てていたのだろう。けれど彼女はとても幸せそうに見えた。

 彼女のまっすぐな目が問いかけてくる。あなたは今、幸せなのか、と。

 私は答える。なんで幸せにならなきゃいけないんだ、と。

 素直に答えるなら、きっと幸せだ。けれど少し寂しくて、悲しい。一人で行かなければならないことが寂しいのでも、悲しいのでもない。これは季節の終わりを見送るような、一滴だけ垂らされた苦味のようなものだ。秋の風の中に冬の気配を感じるような、静かな感情。

 けれどこれは幸せなんて呼べない、と誰かが言うだろう。だったら幸せとはなんなのか。生命とは。生きるとは――答えなんてわかりそうもないものを探しながら歩いていく。それは多分これから何十年生きたってわかるわけがないことで、いつしか人はそれを問うことをやめてしまう。幸せの意味も考えなくなって、お仕着せのものを幸せなんだと言い聞かせて生きるようになる。そんな人が語る幸せは、沢山のものに溢れていて、周りにも沢山人がいて、太陽に照らされて輝いているように見える。そんな人から見たら、きっと今の私は不幸なのだろう。

 でも私は、今までで一番身軽になった。生きることは手放すこと、という歌もあるくらいなんだから、本当は全てを手放すその瞬間こそが幸せなのかもしれない、とさえ思える。何も持たず、何も残さず、風のように消えていく。私はそうありたい。これが私の――最後の我儘だ。

 でも少しだけ寒くて、通りがかったコンビニに足が向いてしまう。ホットの飲み物を眺めながら、そういえば寧々はジャスミンティーが好きだったな、と思った。或果はミルクティーが好きで、梨杏はストレートの紅茶。私はブラックコーヒーに手を伸ばして、やっぱり考え直して隣のカフェオレを手に取った。残っていたお金がそれであと十七円になって、流石に十七円では何も買えないなと思った。

 コンビニを出て、誰もいない道を歩く。どこを目指しているわけでもない。ただ足が向くままに歩いているだけだ。その先に何があるかなんて知らないまま。

 飲み終わったカフェオレの容器を、近くにあったゴミ箱に入れる。もうすぐ海だ。結局前に来たことがある、何の変哲もない海に私は辿り着こうとしている。でももしかしたら、特別なものなんて何もいらないのではないか、とも思った。

 橋を渡り、左に曲がると海が広がる。靴の中に砂が入ることなんて気にせずに進んで、そのまま波打ち際に近付いた。

「……本物の海、見てみたかったな」

 この世界の全てはデータで、これも旧世界の海を再現したものでしかない。本物の海はどんなものなのだろう。きっと今見ているものと変わらなく見えるのだろう。本物と偽物は全然違うはずなのに、見分けがつかないほどよく似ている。

 どんな手を使っても、私は旧世界に行くことはできない。この海と同じで、私もまたゼロとイチで構成されているだけの存在だ。ハルさんがくれたあの映像の中にある海と、そこで微笑む少女とは違う。――全部、偽物だ。そして本物を手に入れることは、どうやったって不可能だ。

「……どうして、一番欲しいものが手に入らないんだろう」

 世界に刃向かうことに何の意味があったのか。誰かと触れ合うことに何の意味があったのか。結局この世界ごと全てが嘘で、真実なんてひとつもないのに。そんなことはわかっていたのに。

「どうして……」

 結局、私は何も変わらなかったのだろうか。環状線をただ回っていた日々から、何も進まなかったのだろうか。多分そんなことはない。ただがむしゃらに進んで、その中で――追い求めたいものが確かに見つかった。自分自身が何を求めているのか、知ることはできた。

 ――そして、それは私にはどうやっても得ることができないものであることも。

「こんな、簡単なことなのに」

 たった一つの願いだけが、どうしても叶わない。それが悲しいはずなのに、心は不思議と凪いでいる。

 覚悟ができているわけではない。けれど最後に何か大切なものに触れることができたような、そんな気がした。

 水面に触れている指先から、少しずつ私が消えていく。水の冷たさはすぐにわからなくなって、暫くすると私は世界に触れることができなくなる。完全に消えるまではどのくらいかかるのだろう。それまでに夜は明けるだろうか。波打ち際に寝転んで、白み始めた空を仰ぐ。

 意外に冷静でいられるものなんだな、と思った。空に手を伸ばしてみることももうできなくて、静かにそのときを待つしかない。でも悲しみと寂しさは、私自身と一緒に少しずつ消えていった。最後に残るのは何なのだろう。音が聞こえるのか、何かが見えるのか。でもそれも、私が感じる全てのものは実在なんてしないのだ。

「……私、は」

 霧のような雨が降り始める。昔から雨は好きだった。世界が青くなる。余計なものは雨に閉じ込められて、大切なものだけが浮かび上がるから。でもその雨すら、私は本物を知らなかった。この世界に本物は一つもない。

 たったひとつでいい。最後に、本当の何かに触れたかった。でももう何も残ってはいない。私自身もあと少しで、塵も残さず消えてしまう。

 それでも、やっぱり何かに触れている感覚があった。それは私がずっと欲しかったもののような気がして、けれど見回してみたところでどこにもそんなものはなかった。

 雨が強くなり始める。このままだと朝日は見られないだろうか。雲が黒く、重くなっていく。けれどその視界すらも少しずつ欠けていく。


 そのとき、もう感じるはずのない温もりを感じた。私の外側ではなく、内側に広がっているもの。宝石のように輝いているわけではないけれど、真っ白で、積もったばかりの雪のように滑らかで、静かにただそこに在るだけのもの。

 ああ、そうか。これは――最後にひとつ残ったものは。

 私は心の中でそれに触れ、卵を抱くようにゆっくりと抱きしめた。私が見つけたたったひとつの本物。私だけが本物だと言えるもの。体や心ではなくて、私が認識する限り本物であり続けるもの。

 ずっとそこにあったのだと、今ようやく気が付いた。


 ――本物が欲しかった。

 それを願い続けた自分自身が、私にとっての本物だったとわかったとき、花が綻ぶそのときのように、私の意識は静かにほどけていった。

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